第9回 / ストライキ、愛の再定義
「カイト! 開けてくれ、頼む! 私の魔導回路が、もう空っぽで、演算速度が平時の六十パーセントまで落ちているのよ!」
石造りの廊下に、王立魔導学院きっての天才、テッサの悲痛な叫びが響き渡った。
かつての彼女なら考えられないような、なりふり構わぬ姿。眼鏡はズレ、銀髪はボサボサ。彼女は俺の部屋の扉を、まるで最後の希望にすがるように叩き続けていた。
「ダメです。ストライキ中ですから」
俺は部屋の中から、努めて冷静な声で答えた。
扉の向こうからは、さらにアリスの切実な声が重なる。
「カイト……っ。私もだ。筋肉の超回復が間に合わない。このままでは、今日予定していた『素振り一万回(音速超え)』のメニューがこなせない。頼む、一分……いや、三十秒でいい。リチャージさせてくれ!」
「アリス様、その『メニュー』っていう言葉がもうアウトです。俺、言いましたよね。修行目的での入室は一切禁止。俺を人間として、一人の男として扱ってくれるまで、あの部屋の鍵は開けません」
しんと、静まり返る廊下。
俺はベッドに深く腰掛け、自分自身の決意を確かめるように拳を握った。
魔王軍の拠点から救出されて三日。
俺は、彼女たちの「効率」という名の暴力に対し、真っ向から『ストライキ』を宣言した。
きっかけは、あの救出劇での彼女たちの姿だった。
俺を助けに来てくれたのは嬉しかった。だが、その後の言葉は結局、「効率のために必要」という建前ばかり。俺を心配してくれたはずなのに、それを認めようとしない彼女たちの頑固さに、俺の堪忍袋の緒が切れたのだ。
「……カイト様」
最後の一人、聖女セシルの震える声が聞こえた。
「わたくしたち、反省しました。……いえ、分析いたしました。カイト様が仰る『人間扱い』という変数を導入しなければ、この交渉は妥結しないのだと。……ですから、提案があります」
「提案?」
「はい。わたくしたち三人で協議した結果……あなたを、その……『デート』に誘うことにいたしました」
デート。
かつて俺が、血を吐くような思いで憧れていた響き。
俺はゆっくりと立ち上がり、扉を開けた。
そこには、疲れ果てた表情ながらも、どこか決死の覚悟を固めた三人の美女が立っていた。
「……デート、ですか。具体的には?」
「あ、ああ」
アリスが、カンペのような羊皮紙をガサガサと広げた。
「まず、貴様と手をつなぎ、王都の目抜き通りを時速四キロの一定速度で歩く。これにより、親密度というステータスを十五ポイント上昇させる計画だ。……どうだ、合理的だろう?」
「全然合理的じゃないです。却下。そんなノルマみたいな散歩、楽しくもなんともない」
アリスが「ぐぬっ」と絶句する。
「ならば私よ!」
テッサが俺の前に身を乗り出した。
「王宮図書館の閉鎖空間において、三時間にわたり無言で同じ魔導書を読む。共通の視覚情報を共有することで、脳波のシンクロ率を高める。これは恋愛心理学における――」
「それ、ただの自習ですよね? 却下です」
テッサがショックで眼鏡を落としそうになる。
「……では、わたくしが」
セシルが、おそるおそる手を挙げた。
「教会の裏山に咲く野草を、一緒に摘みに行きませんか? ……その、特別な効能がある薬草ではなく、ただの、道端に咲いている花を。……それを、カイト様にあげたいと思ったんです。……理由なんて、ありませんわ」
セシルの言葉に、俺は少しだけ胸が動いた。
「……セシルさん。今、なんて?」
「え? ですから、ただの花を摘んで、あなたに……。あ、でも、効率を考えれば花束にして市場で売った方が――」
「ストップ。そこまで。……最後の一言さえなければ、完璧でしたよ」
俺は、深い溜息をついた。
「……皆さん。結局、そうやって『何かを得るための手段』として俺を見ているうちは、ダメなんです」
「……っ」
アリスが、唇を噛み締めて俯いた。
その肩が、微かに震え始める。
「……わからないんだ、カイト」
「え?」
「わからないんだよ! どうすれば、貴様が満足するのか。……私は、物心ついた時から剣のことしか考えてこなかった。テッサは魔法、セシルは神。……私たちは、『結果』を出すことでしか、自分の価値を証明できなかったんだ!」
アリスの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「貴様を愛していないわけじゃない! ……だが、愛し方が、これしかわからないんだ! 効率を求め、最強を目指さなければ、誰かが死ぬ、世界が滅ぶ……そう自分を追い込んできた私たちに、『ただの男と女』になれなんて……そんなの、どうすればいいのか、誰に教わればいいんだ!?」
彼女の慟哭は、廊下の石壁に虚しく響いた。
最強。人類の希望。
その重すぎる称号を背負わされた彼女たちは、いつの間にか「普通」という機能を、心の片隅に置き忘れてきてしまったのだ。
俺は、彼女たちの涙を見て、自分の頑なさを恥じた。
彼女たちに「変われ」と言うだけで、俺自身が彼女たちの抱える闇を分かち合おうとしていなかった。
「……すみません。俺、自分のことばっかりでした」
俺はアリスに歩み寄り、その震える手を、優しく包み込んだ。
「カイト……?」
「わからなくて当然ですよ。俺だって、転生する前はモテない童貞だったんですから。……一緒に、練習しましょう。……『効率』の悪い、無駄だらけの、幸せな時間を。……そのために、絶好の場所がありますよ」
俺は意識を集中させた。
ユニークスキル――『愛の密室』。
だが、今回思い描いたのは、豪華なホテルでも、トレーニングルームでも、研究所でもない。
光が溢れ、俺たちを包み込む。
視界が開けたそこは、一面の緑に覆われた、穏やかな丘の上だった。
柔らかな風が吹き抜け、足元には無数の小さな野草が揺れている。
天井はなく、ただどこまでも澄み渡った青空が広がっていた。
「……ここは……?」
テッサが呆然と周囲を見渡す。
「俺のスキルの、もう一つの姿です。……ここは、俺が皆さんと一緒に『何もしたくない』と思った時だけ現れる場所。……時間の概念も、魔力供給の条件も、今は全部外しました」
俺はしゃがみ込み、足元に咲いていた一輪の黄色い野草を摘み取った。
どこにでもある、名もなき花。
「アリス様。これ、あげます」
俺が差し出した花を、アリスはおそるおそる、壊れ物を扱うような手つきで受け取った。
「……これは……何ポイントの価値があるんだ?」
「ゼロですよ。……でも、俺がアリス様にあげたいと思った。それだけで、世界に一つだけの価値があるんです」
アリスは花を見つめ、それから俺の顔を見て、ようやく、ふにゃりと、少女のような弱々しい笑みを浮かべた。
「……そうか。……ゼロか。……いいな、それ」
「はい。……今日はここで、ただ風に吹かれてましょう。……修行も、研究も、祈りも、全部禁止です」
テッサは不機嫌そうに、しかしどこか嬉しそうに絨毯のような芝生に腰を下ろした。セシルは「あら、お洋服が汚れてしまいますわ」と言いながらも、すぐに裸足になって草の感触を楽しみ始めた。
イチャラブ、というにはまだ遠いかもしれない。
だが、俺たちは初めて、この部屋の中で「時間」を共有することの意味を知り始めていた。
事務的な「清算」ではなく、心の「交流」。
最強の彼女たちが、初めて見せる本当の素顔。
しかし、そんな穏やかな時間は、唐突に訪れた地響きによって破られた。
部屋の空気が、微かに歪む。
外の世界で、何か「取り返しのつかない事態」が起きている予兆。
「……カイト、今の振動は……!?」
アリスが鋭い目つきに戻る。
スキルの境界線を通じて、俺の脳内に一つのヴィジョンが流れ込んできた。
王都の遥か上空。
空を真っ黒に染める、絶望的な魔力の渦。
魔王がついに、自ら動き出したのだ。
「……時間が、ないみたいだ」
俺は、青空を見上げて呟いた。
皮肉なものだ。
ようやく俺たちが「心」を通わせ始めた瞬間に、世界が滅びのカウントダウンを始めるなんて。
次回、魔王降臨。
最強となった彼女たちが、初めて「愛する者のため」に、その理不尽なまでの力を行使する。
泣いても笑っても、これが最後の『トレーニング』だ。




