第12回 / 幸せを噛みしめる、ただの部屋
「もう一度だけ言うぞ、陛下。俺は王様なんて絶対に、絶対に、お断りだ!」
豪華絢爛な玉座の間。
カイトの絶叫が、高い天井に虚しく響き渡った。
目の前では国王が必死にカイトの裾に縋りつき、大臣たちが「聖王陛下、どうか考え直してください!」と涙ながらに合唱している。魔王を秒殺した英雄であるカイトを逃せば、国としての軍事バランスが崩壊しかねないという切実な事情があるのだが、カイトにしてみれば知ったことではない。
「嫌なこった! 魔王はもういない! 世界は平和だ! 俺は田舎で、日向ぼっこしながら一生ダラダラ過ごすって決めてるんだよ!」
「そんな! せめて十人の王女との婚約だけでも成立させてから――」
「もっと嫌だよ! 俺の腰のライフを勝手に分配するな!」
カイトは王冠をポイと投げ捨てると、窓から外へと身を投げた。
普通なら大惨事だが、今のカイトには、空中で彼を優しく受け止める「無敵の翼」たちがいた。
「――ナイスキャッチだ、アリス様!」
「様はやめろと言っただろう、カイト。……さあ、行こう。脱出経路の魔物(追っ手の騎士団)はすべて無力化しておいた」
黄金のオーラを纏ったアリスが、お姫様抱っこでカイトを抱え上げ、音速で空へと舞い上がる。
「演算完了。王都の結界を一時的にハックしたわ。これで一時間は誰も私たちを追跡できない。……さあ、愛しのバッテリー。私たちの新しい『拠点』へ向かいましょう」
隣を並走するテッサが、新調した眼鏡を不敵に光らせて笑う。
「ふふ、わたくしも聖教会の全権を辞してきましたわ。今日からは神の代弁者ではなく、カイト様の『専属管理官』としてお仕えいたします」
セシルが実体化した天使の羽を羽ばたかせ、聖女らしからぬ妖艶な笑みを浮かべた。
こうして、世界を救った伝説の「聖王」と、その妻たちは、歴史の表舞台から忽然と姿を消したのである。
*
数ヶ月後。
王都から遠く離れた、地図にも載っていないような穏やかな辺境の村。
その村外れに、一軒の小さな、しかし手入れの行き届いたログハウスがあった。
カイトは、縁側で大きな欠伸をしながら、温かいお茶を啜っていた。
「……平和だ。マジで平和すぎる。魔王も、ノルマも、一分制限の清算もない。これだよ、俺が求めていた異世界スローライフは」
空は青く、鳥は囀り、近所の畑からは近所のおばちゃんが差し入れに持ってきた野菜の匂いがする。
カイトがそうやって伸びをしていると、家の中から、エプロン姿の勇者アリスが包丁を持って現れた。
「カイト、薪割りが終わっていないぞ。……あと、夕食の前に少しだけ『訓練』に付き合ってくれないか?」
アリスが剣を振るう動作をしながら、上目遣いでカイトを見る。
カイトは、びくりと肩を揺らした。
「……アリス、まさか。また『一分で済ませろ』とか言うんじゃ――」
「馬鹿を言え。……今日は、その。……ただ、貴様の顔を近くで見ながら、ゆっくりと時間をかけたいと思っただけだ。……だめか?」
アリスが頬を赤らめ、視線を彷徨わせる。
その瞳には、かつての「効率の怪物」の影はどこにもない。ただ愛する夫の愛情を欲する、一人の恋する少女の表情だった。
「……だめじゃないけど。……いいよ、じゃあ、入ろうか」
カイトが苦笑しながら立ち上がると、家の中からテッサとセシルも、当然のような顔をして飛び出してきた。
「あら、アリスだけ抜け駆けは許さないわよ。私の魔導回路も、今日はなんだか少しだけ『甘えたい』気分なの」
「わたくしもですわ。カイト様、今日は特別な『聖務』抜きで……ただ、一緒に、お昼寝をしましょう?」
四人がリビングの真ん中で手を取り合う。
カイトが意識を集中させると、かつての殺伐とした密室ではない、今の彼らの心の形を反映した、温かくて柔らかな空間が展開された。
ユニークスキルは、もはや『愛の密室』ではない。
彼らの絆によって進化したそのスキルの真の名は――『愛の棲家』。
中に入ると、そこには以前のような豪華な調度品ではなく、四人が雑魚寝できるほど大きな、ふかふかの枕と毛布が敷き詰められた、ただただ心地よいだけの空間が広がっていた。
カイトは、三人に囲まれながら、ふかふかの大きな枕に頭を沈めた。
「……なあ、アリス。今日は修行しなくていいのか?」
カイトが、隣に潜り込んできたアリスの髪を優しく撫でながら尋ねる。
アリスはカイトの胸に顔を埋め、幸せそうに目を細めた。
「ああ。……今日は、修行じゃない。……ただ、貴様の鼓動を数えているだけで、私は世界で一番強くなれる気がするんだ」
「私は、あなたの温度を計算しているわ。……どんな数式よりも美しくて、予測不能で……ずっと解いていたい答え」
テッサがカイトの腕を抱きしめ、満足げに囁く。
「わたくしは、ただ感謝を捧げます。……カイト様と出会えた奇跡と、この穏やかな時間に」
セシルがカイトの反対側の手を握り、静かに微笑んだ。
この部屋の中では、相変わらず外の時間は止まっている。
脱出条件も、理屈の上では「行為」が必要なままだ。
だが、今の彼らにとって、それは「呪い」でも「コスト」でもなかった。
外の世界では一瞬の出来事。
けれど、この部屋の中では、彼らは何百年分、何千年分もの「愛」を、誰に急かされることもなく、ゆっくりと、贅沢に、噛みしめることができる。
効率を捨てて。
ノルマを忘れて。
ただ、互いが互いであるという幸せを。
「……おやすみ、みんな」
カイトは、愛おしい三人の重みを感じながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
かつて彼が「セックスしないと出られない」と嘆いたその部屋は。
今や、「愛し合っているから、ずっと出たくない」と思える、世界で一番幸せな場所になっていた。
その部屋に時間は流れていなかったが、四人の愛には、たっぷりと贅沢な時間が流れ始めていた。




