第1回 / 望まぬ聖域、開門
「時間が、足りない……っ!」
その悲痛な叫びは、訓練場の乾いた空気を切り裂くように響いた。
王都の外れにある騎士団演習場。
夕闇が迫る中、たった一人で木剣を振るい続ける背中があった。
アリス・フォン・マグナ。
弱冠十八歳にして人類最強の守護者、『勇者』の称号を冠する少女だ。
燃えるような赤髪をポニーテールに結い、宝石のように鋭い碧眼は、実体のない仮想の強敵を射抜いている。
だが、その剣筋には焦りがあった。
「あと一月……いや、せめてあと一年あれば、あの第七階梯聖魔法を習得できるのに! なぜ魔王軍の進軍はこれほどまでに早いのだ!」
彼女が苛立ちをぶつけるように振るった一撃が、大気を震わせる。
俺――カイトは、そんな彼女の姿を訓練場の隅から、支給品のポーションを抱えて眺めていた。
俺はこの世界への転生者だ。
特に目立った魔力があるわけでも、伝説の聖剣を抜いたわけでもない。
ただ一つ、神様から与えられた『ユニークスキル』を除いては。
そのスキル名は『愛の密室』。
名前からして不穏というか、ピンク色のオーラが漂ってきそうな名前だが、その効果は極めて強力、かつ特殊だ。
一言で言えば、「特定の条件を満たすまで、外の世界から完全に隔離された閉鎖空間」を作り出す能力。
しかも、その部屋の中では時間の流れが歪む。どれだけ長く滞在しても、外の世界では一瞬しか経っていない。
……まあ、本来の用途としては、意中の相手を閉じ込めて、じっくりと時間をかけて仲良くなるための、いわば『究極のイチャラブ製造機』なのだが。
(今の勇者様、めちゃくちゃ余裕なさそうだな……)
アリスは美しい。
凛とした顔立ち、鍛え抜かれたしなやかな肢体。
まさに高嶺の花。この国の男たちの憧れの的だ。
だが、今の彼女は今にも折れそうなほど、自分を追い詰めている。
……もし、俺のこのスキルで、彼女に休息を与えることができたら?
いや、あわよくば、誰も邪魔者が入らない二人きりの部屋で、彼女の張り詰めた心を解きほぐして、あんなことやこんなことを……。
そんな下心が三割、純粋な同情が七割。
俺はおそるおそる、彼女の背中に声をかけた。
「あ、あの……アリス様。もしよければ、俺のスキル、使ってみませんか?」
「――誰だ!」
ひっ、と喉が鳴った。
振り向きざまに向けられた殺気だけで、心臓が止まるかと思った。
アリスの鋭い視線が俺を貫き、数秒後、ようやく彼女は俺を「後方支援部隊のカイト」だと認識したようだった。
「……カイトか。私の鍛錬を邪魔するなと言ったはずだ。時間は一秒たりとも無駄にできない」
「わかってます。だから、その『時間』を作れるかもしれないって話でして」
「……何?」
アリスが眉をひそめる。
俺は唾を飲み込み、スキルの概要を説明した。
「俺のユニークスキルで、特殊な結界……というか、部屋を作れるんです。その中は外の時間から切り離されていて、どれだけ滞在しても、外に戻った時は一瞬しか経っていません。要するに、その部屋を使えば、どれだけでも修行の時間を稼げるわけで……」
説明が終わるか終わらないかのうちに、アリスが俺の肩を掴んだ。
痛い。勇者の握力、半端ない。
「それは本当か!? 外の時間を止め、数日、数ヶ月と鍛錬に打ち込めるというのか!?」
「は、はい。理論上は。食事や睡眠もその中で摂れますし」
「素晴らしい……! なぜそれをもっと早く言わなかった! 貴様、そんな神の如き権能を隠し持っていたとは!」
アリスの瞳に、これまで見たこともないような熱い光が宿る。
「すぐにだ! すぐにその部屋へ案内しろ! 魔王軍が国境を越える前に、私は究極の魔法を完成させなければならないのだ!」
「え、あ、はい。でも、その、いくつか条件が……」
「細かいことは後だ! 行くぞ!」
有無を言わせぬ勢いで、俺はアリスに引きずられるようにして、スキルの発動準備に入った。
心のどこかで、俺は勝利を確信していた。
(やったぞ……! これで勇者様と二人っきりだ。密室で過ごす時間はたっぷりある。最初は驚くだろうけど、俺が優しくリードして、彼女の疲れを癒やしてあげれば……ムフフ)
俺は自分の鼻の下が伸びるのを必死に抑えながら、意識を集中させた。
「ユニークスキル――『愛の密室』、展開!」
目の前の空間が歪み、光の粒子が俺たちを包み込む。
一瞬の浮遊感の後、俺たちの視界は切り替わった。
――そこは、豪華なホテルの一室のような空間だった。
床にはふかふかの絨毯。
暖炉では薪がパチパチと心地よい音を立てている。
そして部屋の中央には、天蓋付きの、見るからに柔らかそうなキングサイズのダブルベッド。
テーブルの上には最高級のワインと、食欲をそそる料理が並んでいる。
さらには、部屋の隅に大きな猫足のバスタブまで。
窓の外は美しい夕焼けが固定されており、ムードは最高、というか露骨すぎるほどに完璧だった。
俺は内心でガッツポーズを作った。
これだ。この雰囲気なら、どんな堅物な勇者様でも、つい心が緩んでしまうはず……!
だが、隣に立つアリスの反応は、俺の予想とは180度違っていた。
「……ほう、これが結界の中か。なるほど、魔力の密度が異常に高いな。しかもこの床のクッション性、足腰への負担を最小限に抑えつつ、踏み込みの訓練ができそうだ」
アリスは絨毯の上で数回ステップを踏み、納得したように頷いた。
「食事も完備、寝床もある。衛生環境も整っている。……完璧だ。カイト、貴様は最高の補給兵だな! よし、まずは素振り一万回から始めるぞ!」
「え……? あ、いや、アリス様? ちょっと落ち着いてください。この部屋、豪華ですよね? お酒とかもありますし、まずはゆっくりしませんか?」
「何を言っている。一分一秒が惜しいと言ったはずだ。さあ、貴様も邪魔にならない場所で座っていろ。私はこれより、聖魔法の術式構築に入る」
アリスは迷いなく甲冑を脱ぎ捨て(といっても、下に動きやすい訓練着を着ているが)、部屋のど真ん中で胡坐をかいた。
俺のイメージしていた「シャンパンで乾杯して、いい雰囲気になって、ベッドへ……」というシナリオが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
……だめだ。この人はストイックすぎる。
ちゃんと言わないと伝わらない。
このスキルの『対価』を。
「アリス様……あの、大事なことを言い忘れていました」
「なんだ、術式の邪魔をするなと言っただろう」
「この部屋、どうやって出るか、説明してませんでしたよね?」
アリスが片目を開けて、不審そうに俺を見た。
「……出口なら、あそこにある扉ではないのか?」
「あれ、開かないんですよ。というか、この部屋には特定の『条件』を満たさない限り、絶対に外に出られない呪いのような制約があるんです」
「制約だと? 魔王の呪いか何かか?」
「いえ、俺のスキルの仕様です。……えーと、つまり……」
俺は顔を真っ赤にしながら、本来なら言いたくてたまらなかった、しかし今の状況ではあまりに言い出しにくい『真実』を口にした。
「この部屋を出るには……俺と、アリス様が、えーと……その……セ、セックス……しないといけないんです」
言った。
言ってしまった。
沈黙が流れる。
暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく響く。
俺は身を縮こまらせた。
「不潔!」「死ね!」と罵倒されるか。
あるいは勇者の剣で、一刀両断にされるか。
どちらにせよ、俺の平穏な人生はここで終わるかもしれない。
だが。
「……ほう」
アリスから漏れたのは、怒号でも悲鳴でもなかった。
それは、何か「非常に興味深い理論」を聞いた時の、学者のような感嘆の声だった。
「なるほど。これほど強力な時間停止空間を維持するためには、相応の莫大なエネルギーが必要ということか。それを『生命の根源的な結合』、すなわち性交によって供給させるシステム……。実に合理的だ」
「……え?」
アリスは立ち上がり、顎に手を当てて考え込み始めた。
「いわば、出口の鍵を開けるための魔力供給というわけだな? その儀式を行わなければ、部屋の維持コストが支払われず、位相空間が固定されたままになると。ふむ、ユニークスキル特有の等価交換という奴か」
「いや、あの、アリス様? そんな難しい話じゃなくて、もっとこう、男女の恥ずかしい感じというか……」
「カイト、貴様を誤解していた。そんな顔を赤くして、申し訳なさそうにするな」
アリスが、俺の肩に優しく手を置いた。
その目は、聖者を見るような清らかな輝きを放っている。
「貴様は自分を犠牲にして、私の修行のために、自らの精気を分け与えようとしてくれているのだな。その献身的な姿勢、騎士の鑑と言える。……わかった、承知した」
「……え、承知した?」
「ああ。時間は一秒たりとも無駄にできないと言った。それはこの『儀式』においても同じだ」
アリスは無造作に、訓練着の首元に手をかけた。
「おい、突っ立っていないで早くしろ。一分で済ませて、私はすぐ修行に戻るぞ」
「いっ、一分……!?」
「不満か? ならば三十秒でも構わん。私の集中力が切れないうちに、速やかに魔力供給を完了させるのだ。さあ、横になれ」
アリスが有無を言わせぬ手つきで、俺をベッドへと押し倒す。
違う。
俺が夢見ていたのは、もっとこう、お互いに見つめ合って、「好きだよ……」「私も……」みたいなやり取りがあって、じっくりと時間をかけて愛を育むような……。
「……あの、アリス様。もうちょっとムードというか、段階を……」
「段階? 前戯のことか? 無用だ。心拍数を上げ、血流を促進させるなら、スクワットで代用できる。それよりも効率だ。効率を重視しろ」
アリスは訓練用のスパッツを脱ぎ捨てながら、ビジネスライクな口調で続けた。
「これは世界を救うための『必要なコスト』だ。カイト、貴様もプロなら、余計な感情に流されず、事務的に、かつ迅速に作業を遂行しろ。いいな?」
事務的。
作業。
俺の脳裏で、これまでの「甘い新婚生活」のような妄想が、パリンと音を立てて砕け散った。
目の前には、白く輝くような、彫刻のように美しいアリスの肌がある。
しかし、その瞳にあるのは情熱ではなく、ストップウォッチを睨みつけるような冷徹な「効率」への意志だった。
「……あ、あの」
「黙れ。一秒経ったぞ。残り五十秒だ」
アリスが俺の上に跨り、宣言した。
この日、俺は悟った。
このスキルは、俺の欲望を叶えるための天国などではない。
ストイックすぎる勇者にとって、この密室は単なる「高効率なブラック合宿所」であり、俺はその『入退室管理システム兼・充電器』に過ぎないのだということを。
「あっ……ちょっ、アリス様、激しすぎっ……!」
「気にするな! これなら十秒短縮できる! さあ、出すもの(魔力)を早く出せ!」
俺の絶叫は、豪華な密室の中に虚しく響き渡った。
――そして数分後(アリスの予定よりは少し長引いたが)。
外の世界では、アリスが俺を訓練場の隅に連れ出してから、一秒も経っていない。
しかし、現れた勇者アリスは、どこか清々しい表情をしていた。
「……素晴らしい。カイト、この部屋は最高だ。精神の集中がこれまでになく研ぎ澄まされている」
「そ、それはよかったです……」
俺は膝をガクガクと震わせながら、地面に這いつくばっていた。
体力も魔力も、そして男としての尊厳のような何かも、すべて吸い尽くされた気分だ。
「これで魔法の習得に目途が立った。だが、まだ足りない。カイト、明日も同じ時間にここへ来い。……次は三十秒短縮を目指す」
「えっ、明日もですか!?」
「当然だ。魔王を倒すまで、毎日だ。……感謝するぞ、カイト。お前のおかげで、人類は救われるかもしれん」
アリスは晴れやかな笑顔で俺の背中を叩くと(痛い)、再び剣を手に取って猛特訓を再開した。
俺は空を見上げた。
沈みかけの夕日が、俺のこれからの「ブラック」な毎日を暗示しているかのように、赤々と燃えていた。
こうして、俺の「全然イチャラブじゃない」異世界生活が、幕を開けたのである。




