第4話 向こう側
気づけば、タイプ音は止み、人はいなくなっていた。授業は終わったんだ…何も書けずに。視界が歪み、嗚咽が漏れる。
静かな夜の雰囲気だけが、俺をやさしく包む。
「泣いてんの?」
後ろから声。振り返ると、女性が立っている。
服装はぼやけていてもわかるくらいパンクで…スタッズのついたジャケットか、何か。
急いで顔を逸らし、目を拭う。
「いえ」
「なんで泣いてんの?」
女性の足音が近づいてくる。
「夢を……諦めたくなかった」
そう呟く。聞こえないくらい、小さく。
足音が止む。
「ここ来ない方がいいよ。あんた」
「……はい?」
もう一度、振り返る。
女性は、何故だか悲しそうな顔をしていた。
「どうしてですか?」
「ここは……金儲けのための、スッカスカの授業しかしないから」
「……」
「泣くくらい書きたいなら、来ない方がいい。こんな……ぬるい場所」
「でも……皆、書けてました。俺は――」
視線を戻す。白紙。手を握る力が強くなる。
「ダメなんです」
その時、ドアの方から声がした。白石さんだ。
「二人とも。もう、教室閉めるよ」
女性は少し嫌そうな顔をしながら、教室を出た。俺も少し遅れて荷物をまとめ、教室を後にした。
建物を出ると、さっきの女性が待ち構えていた。冷たい風が吹く中、寒そうな格好で。
「……何ですか」
「空、見ようぜ」
「いえ。そんな気分じゃ、ないので」
家へと歩を進める。三歩進んで――
「夢、諦めたくねぇんだろ?」
「……聞こえてたんですか」
「あぁ」
「じゃあ何ですか。夢を諦めないために……空を見ると?」
「あぁ」
「何の関係もないじゃないですか」
「関係あるさ。あんたには、必要だ」
女性は、強く断言した。空を指を指す。
その言葉に押されてか、俺は……空を見上げた。
白く、淡く。光っている星と月。
それらが目に映った時、久しぶりに空を見つめたことに気づく。
空は、綺麗だった。けれど、それだけだ。
「これが、何の関係があるんですか」
「見方がちげぇよ」
顔を下ろすと、いつの間にか近づいていた女性は俺の手を、空を遮るように固定した。
「こうすんだよ」
「え、でも……」
「いいから見ろ。向こう側に、何が見える?」
「そりゃ、何も見えないですよ」
「それを見るのが、想像だ」
「……え?」
「もう一度聞く。向こう側に、何が見える。何を……想像する」
もう一度、手のひらを見つめる。その向こう側を見つめる。
……でも。
「やっぱり、何も見えない」
「あんた、突飛なものを想像しようとしすぎ。身の程をわきまえないと」
「……」
「……あんた、名前は?」
「俺は、透。相川透」
「そう。あたしは、真柴凛」
女性、真柴さんはそう言って背を向けた。
「じゃあな。このスクール……辞めろよ」
そう捨て台詞を残して歩いて行く。俺の家と逆方向に。
「ちょっと待って!」
静かな町に俺の声が響く。真柴さんが背を向けたまま答える。
「なんだよ」
「なんで、こんな教えてくれたんですか」
「悲劇の主人公ヅラが鼻についたから」
「……このスクールは来ない方がいいって言いましたよね」
「そうだな」
「じゃあなんで……今、真柴さんはスクールに通ってるんですか」
「……」
初めて真柴さんが黙り込む。風が抜ける。
「なんでです」
もう一度、問い直す。
「ノーコメント。もう行っていい?」
「あとひとつ! ……聞かせてください」
ため息が聞こえる。
「なんで、小説を書くことができるんですか」
その問いに真柴さんは振り返り、笑顔で答えた。
「才能」
冷たい風が、体を震えさせる。
聞かなければよかった。
帰り道。空を見上げながら、回っていた。足取りは軽やかではなかった。
真柴さんの言葉がずっと、重い。
その重さが、アパートに着いてからも続いていく。
今日は、もう何もしたくない。
もう、寝てしまおう。
片づけられてないゲロを横目に俺は倒れこんだ。
目をつぶる。
「……」
いや、シャワーは浴びよう。来月には、水道が止まってるかもしれない。
全身に刺激が走り、なぞる様に水が流れる。
聞こえるのは、水音と俺の呼吸。
でも、その奥で反響する言葉があった。
――向こう側に、何が見える?
目を閉じる。けど……
「……分かってる。俺には才能がないことなんて。でも……諦めたくないんだよ」
水音に消されるくらい弱々しく響く。
強烈に面白い物語。
頭を回すも、何も思いつかない。
――あんたは、突飛なものを想像しようとしすぎ
目を開けた。前には鏡。
そこに映っていたのは……
水滴が背中を伝う。
「……俺だ」
――向こう側に、何が見える?
俺は受付を抜けて、教室に向かった。
机と机の間の道を通り、もうすでに椅子に座っている真柴さんの隣に座る。
一瞬驚いた顔をして、けれどすぐに表情を戻して真柴さんは口を開いた。
「なんで……来んなっつったろ」
その問いに答える代わりに、紙を机に叩きつけた。
目を真ん丸にしながら紙を手に取り、目を通す真柴さん向かい言う。
「書けましたよ。あなたのアドバイスのおかげで」
「……」
「だから、来たんです」
全て読み終わったのか、真柴さんは紙から顔を上げて、不敵に笑った。




