第3話 足りない何か
「…っ!」
静かな部屋の中で嘔吐した。吐き気を押さえることが、できなかった。
床にぶちまけても、吐き気が収まらない。喉の奥が苦く、イガイガとした感覚が残る。
ゲロから目を逸らすと、床がゴミだらけ。
床からも目を逸らし、スマホの画面を覗く。
…あの日から、一週間が経った。本当に、一瞬で。記憶に残っているのは飲む量が増えていく錠剤。時間の間隔がないほど集中していた。
はずなのに、机の上に何も書かれていないチラシの裏紙。
何も書けない。何も思いつかない。
増えていく錠剤も意味をなさず、遂に吐いてしまった。
早く書かなければ。
俺が夢を持ったあの日、彼女…千景さんに、いつか書いたら小説を読んでほしいと言って、住所まで伝えてしまった。
勿論、来ないかもしれない。しかし…来るかもしれない。
あの日から、もう一週間が経つ。
けれど、頭の中は真っ白だ。焦燥感だけが心の中で暴れてる。裏紙も、白紙。
…もう一週間も経った。のに、白紙のまま。
何もかもが、真っ白だ。
青白い光に照らされたゲロを見ながら、そう思う。
小説を書く。その行為は彼女の言葉ほど甘くはなかった。
汚い部屋の惨状に、飲み込まれていくような錯覚に陥りながら。
薬のせいだろうか。思考が、進んでいく…多分、悪い方に。
必死。何も考えないようにまた、部屋を見回す。床には、吐いた跡が残っている。片付ける気力はない。
…部屋の空気が重くて、息が詰まりそうだ。
また、思考が―――
気づけば、外に出ていた。暖かい光が優しく体を包んでいる。遠くから聞こえる鳥の声。口に残る苦味。
どこへ行くでもなく、ただ歩いた。
三歩、歩く。くるりと回る。
夕方の空気を吸い込んで、ただぐるぐる回る景色を眺めて。嫌な思考も、言葉も、振り払うように。
深く息を吐いて、吸って。周りに耳を澄ませる。
段々と呼吸が整う。人の喧騒が耳に入ってくる。
ふと、視界の端に文字が入った。
回転を止める。あれだけ回ったのに、吐き気も気持ちの悪さもなかった。
小説スクール!
古びたビルの一階。色あせた看板。でも、その文字だけは妙に鮮明に見えた。
初心者歓迎!あなたの書きたいを形にします!
そう続いている。
俺は迷わずに一歩、前に進んでいた。
中に入ると、すぐに優しい笑顔を浮かべた男が出てきた。
「こんにちは。初めての方ですか?」
「…あ、はい」
「ではこちらへ」
建物の中は外見に反して綺麗。
案内してもらった受付?で、俺はそんな失礼なことを考えていた。
椅子に座り、向かい合う。
「どうやって、ここに?」
「えっと…歩いてきました」
男は少し困った顔をして、問いを付け加えた。
「…そうではなくて、どういった経緯でここに来たんですか?」
「あ…最近、小説に興味がわいたんです。でも、自分一人だけじゃ、何も作れなくて。そんな時、ここを偶然見つけて」
「なるほど…では、早速お値段の方、こちらのようになっているんですけど」
男が一枚の紙を出す。そこには、頻度によって変わる料金が記載されていた。
週3回、月3万円
週2回、月1万5000円
週1回、月5000円
…高い。
いや…でも、夢のためだ。
「週三回のやつに…」
俺の言葉を遮り、男が口を開く。
「これらが月々のお値段なのですが、入る月は入学金もありますので…五万円をプラスします」
…無理!
そんな…無理!!
男は、微笑んだまま待っている。俺の、次の言葉を。
「…」
「そういえば、どうして小説に興味を?」
そうだ。何のためにここに来た。考えるな。夢だけを見ろ。行け。
週三回って言え!
「…シュ、週一回のやつで」
男の顔がパッと明るくなった。
スクールから出ると、夕日は暮れて辺りは少し暗く、建物がその代わりをなしていた。
ちょうど明日から、スクールは始まるらしい。
とりあえず…新しく紙でも買うか。裏紙じゃ、かっこが付かない。
お金のことは、もう考えないことにした。
三歩歩く、回る。軽やかに。
俺はやっと、一歩進めた気がした。
次の日。待ちに待ったスクールの日。
俺は受付を抜けて、教室のような部屋に案内された。
複数の折り畳み式の長机と、そこに並ぶ椅子。教室の前の壁にはホワイトボードと時計。
もうすでに椅子に座っている人がいたが、皆若く、大学生くらいに見える。
机と机の間の道を通り、前から三番目の所に座る。
それと同時に、あの優しい笑顔の男が教室に入ってきた。
「それでは、今日は新しい人もいるので、自己紹介します。講師の白石です。よろしく」
教室の空気が一瞬だけ静まる。
白石さんは、笑顔のまま、淡々と続けた。
「では、まず書く前に。小説の書き方について話します」
…来た。
俺は持ってきたペンを構えた。
「小説の世界に才能なんてものは有りません。大事なのは、インプットです」
白石さんが、ホワイトボードにでかでかと、インプットと書き込む。
「ですが、インプットとは時に自分の物語の方向を固定してしまう枷となります。柔らかく、多面的に物事をとらえる力。それが小説を書くにあたって必要なのです」
白石さんはペンを置いた。俺は構えたままペンを離さない。
「では、まず…何か、書いてみましょうか」
「…え?」
声が、こぼれた。
何かって、何?
だけど、白石さんの言葉が終わるや否や、パソコンのタイプ音が教室中にこだまする。自分の手元を見ても、白い紙があるだけ。
時計が、鳴っている。
気持ち悪い。
「あれ?パソコン、持って来てないの?」
顔を上げると優しい笑顔。
「あっ…はい。パソコン、持ってなくて」
「…別に、強制ってわけじゃないですけど…パソコンは買った方がいいと思いますよ」
白石さんがそう言って背を向ける。
時間だけが、過ぎて行った。あの部屋と変わらない速さで。




