第2話 手にした夢。夢だけ。
「あなた、昨日うちにいました?」
「い、いや、その…」
声が裏返る。自分でも驚くほど情けない声。
「あ、あれですよ。ほら、昨日……道を歩いてるときに、音が…聞こえて…」
言い訳にすらなっていない誤魔化し。
彼女が、目を細める。
あ、終わった。
「…そっか。カーテン、開いてたしね…音が漏れてたのかも」
彼女はニコリとほほ笑んだ。
ばれて…ない?あんなバレバレの噓なのに?
「あ~えっと…小説家なんですよね。あの…すごいですね」
「……誰でもなれますよ。小説家なんて」
彼女は少し間を開けて言葉を継ぐ。とても、悲しそうな顔で。
「少なくとも、ピアニストよりは」
「その言いぶりからして…夢を、持っていたんですね」
「…もう、破れましたよ」
その言葉が、冷えた空気みたいに薄くて、痛かった。
何も言えずに立ち尽くしていると、独り言みたいに、ぼそりと彼女が続けて呟いた。
「あなただってなれますよ。小説家なんて…」
瞬間、風が止まり、街の音が遠のく。
その一言が、胸の奥で爆発した。心配も、消え去るほどに。
「本当に、俺でもなれるんですか」
「え?ええ」
彼女は気づいていない。
その言葉が、俺の中でどれだけ大きな意味を持ったかなんて。
夢は最悪だ。叶わないし、破れるし、持つだけで苦しい。
ずっとそう思っていたはずなのに…
俺は今、初めて夢を持った。与えられた。たった一言、
「あなただってなれる」
それだけで。
いや、そんなものかもしれない。
偶然見た光景、音が、作品が、感情を生み出し、夢を生み出す。
みんな、小さな事で夢ができるのかもしれない。
そう。みんなが経験している小さな一歩。
…でも、そんな皆と同じに、俺はなれた。
そう思った瞬間に、
「ありがとう」
そんな、単純な言葉がこぼれた。
「え?」
「俺…書きます。小説、書いてみます。それで、小説家になります。そんな、夢ができました」
「…」
彼女はしばらく黙っていた。
そして、一言。
「そう。いいと思いますよ」
「それで、あの…名前を聞いてもいいですか」
彼女は少し間を置いてから、
「…千景」
それだけ答えた。
錠剤を飲み込む。
作用は集中力の向上。副作用は吐き気。
特に副作用は強烈で、俺の体質にはどうにも合わないらしい。飲んだ瞬間、すぐに吐き気が襲ってくる。
俺は、この薬が嫌いだ。けれど、飲み込む。
なぜなら…
「俺は今日から…夢を追う」
夜の闇の中、俺には似合わないはずの言葉を吐き出した。
防犯カメラの映像を再生する。画面の中で、玄関のドアがゆっくりと開く。
そこに映っていたのは昨日、私の家に入り込んだあの男。
「全部知ってんだよ。変な言い訳しやがって」
そんな私の言葉が、部屋の闇に消え入る。
…それは私も同じか。
画面の中で私が帰ってくる。男は、ピアノの影に潜り込むようにして息を殺している。
よく、これで逃げれたものだ。
その瞬間、昼間のあの言葉が頭の中で蘇った。
「俺…書きます。小説、書いてみます。それで、小説家になります。そんな、夢ができました」
思い出しただけで、気が重くなる。
夢、か。
「…夢なんて、簡単に叶うもんじゃないのに」
呟きは、自分自身に向けた言葉でもあった。
ピアニストになりたい。そんな夢を持っていた。
けれど、私には才能がなかった。努力では超えられない壁があった。けれども私にはあった。…その代わりとなる、文章の才能が。
それは救いだったけれど、同時に、残酷な現実。
――必ずしも、夢の方向に才能があるとは限らない。夢は、夢だけじゃ叶わない。
小説家だって甘くない。書きたいだけでなれるほど、優しい世界じゃない。
あの男は、私の一言だけで勝手に夢を持った。
何も、知らないくせに。夢の重さも、痛みも、現実も。
…馬鹿だな。
心の中で響くその言葉はきっと、誰にも向けて言ってはいない。
最初はただ、小説のネタにしようと思っていただけだった。
でも…
私は立ち上がり、防音カーテンをきっちりと閉め切った。
ピアノの椅子に腰を下ろす。鍵盤に触れると、軽やかな音が部屋に広がった。
軽やかなのに、私の心は重く沈んでいく。
ピアノの黒い表面に映る自分の顔は、楽しそうでも、誇らしげでもない。
「…あいつの夢なんて、ぐちゃぐちゃに潰してやる」
押し殺した、か細い声でそう呟く。
夢だけが詰まっているピアノは、今日も軽やかに音を奏でていた。




