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『ゲロ味の錠剤』  作者: kar777


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2/14

第2話 手にした夢。夢だけ。

「あなた、昨日うちにいました?」

「い、いや、その……」

 声が裏返る。自分でも驚くほど情けない声が。

「あ、あれですよ。ほら、昨日……道を歩いてるときに、音が、聞こえて……」

 言い訳にすらなっていない誤魔化しが、彼女の目を細めさせる。

 もっとましな言い訳をすればよかった。終わった。

「……そうですね。カーテン、開いてたし……音が漏れてたのかも」

 彼女はニコリとほほ笑んだ。

 ばれて……ないのか? あんなバレバレの噓なのに? 

「あ~えっと……小説家なんですよね。……すごいですよね!」

「いや……誰でもなれますよ。小説家なんて」

 彼女は少し間を開けて言葉を継ぐ。とても、悲しそうな顔で。

「……ピアニストよりは」

「夢、だったんですか? ピアニスト」

「……もう、夢破れましたよ」

 その言葉が、冷えた空気みたいに薄くて、痛かった。何も言えずに立ち尽くしていると、独り言みたいに、ぼそりと彼女が続けて呟いた。

「本当に誰だって……あなただってなれますよ。小説家なんて……」

 瞬間、風が止まり、街の音が遠のく。

 その一言が、胸の奥で爆発した。心配も、消え去るほどに。

「本当に、俺でもなれるんですか」

「え? ……ええ」

 彼女は気づいていない。

 その言葉が、俺の中でどれだけ大きな意味を持ったかなんて。


 夢は最悪だ。叶わないし、破れるし、持つだけで苦しい。

 ずっとそう思っていたはずなのに……

 俺は今、初めて夢を持った。与えられた。たった一言、

「あなただってなれる」

 それだけで。いや、そんなものかもしれない。

 偶然見た光景、音が、作品が、感情を生み出し、夢を生み出す。

 みんな、小さな事で夢ができるのかもしれない。そう。きっとこれは、みんなが経験している小さな一歩。……でも、そんな皆と同じに、俺はなれた。

 なれたんだ。そう思った瞬間に、

「ありがとう」

 そんな、単純な言葉がこぼれた。

「はい?」

 未だ話がつかめていなさそうな彼女に、宣言する。

「俺……書きます。小説、書いてみます。それで、小説家になります。そんな、夢ができました。あなたのおかげで」

「……」

 彼女はしばらく黙っていた。

 そして、一言。

「そう。いいと思いますよ」

「それで、あの……名前を聞いてもいいですか」

 彼女は少し間を置いてから、

「……千景」

 それだけ答えた。


 錠剤を飲み込む。

 作用は集中力の向上で、副作用は吐き気。特に副作用は強烈なんだ。俺の体質にはどうにも合わない。だけど今日は、錠剤を飲み込む。

 なぜなら……

「俺は今日から、夢を追う」

 夜の闇の中、俺には似合わないはずの言葉を吐き出した。




 防犯カメラの映像を再生する。画面の中で、玄関のドアがゆっくりと開く。

 そこに映っていたのは昨日、私の家に入り込んだあの男。

「全部知ってんだよ。変な言い訳しやがって」

 そんな私の言葉が、部屋の闇に消え入る。

 ……それは私も同じか。

 画面の中で私が帰ってくる。男は、ピアノの影に潜り込むようにして息を殺している。よく、これで逃げれたものだ。

 昼間のあの言葉が頭の中で蘇る。

 ――俺……書きます。小説、書いてみます。それで、小説家になります。そんな、夢ができました

 思い出しただけで、気が重くなる。

 夢、か。

「……夢なんて、簡単に叶うもんじゃないのに」

 呟きは、自分自身に向けた言葉でもあった。

 私は立ち上がり、防音カーテンをきっちりと閉め切った。

 そして、叫んだ。言葉はない。ただ叫んだ。

 

 荒い息が静かな部屋に響く。喉がイガイガと痛む。

 ……ピアニストになりたい。そんな夢を持っていた。

 けど、私には……才能がなかった! 努力では超えられない壁があった! その代わりに……私には文章の才能があったんだ。

 ……それだけが、私に。

 夢は、夢だけじゃ叶わない。そして必ずしも、夢の方向に才能があるとは限らない。小説家だってそうだ。甘くない。書きたいだけ、なりたいだけでなれるほど、優しい世界じゃない。

 それなのに、あの男は簡単に、軽率に、私の一言だけで夢を持った。

 あんな軽い一言だけで。

 きっと、何も知らないんだ。夢の重さも、痛みも、現実も。

 ……馬鹿だな。

 心の中で響くその言葉はきっと、誰にも向けて言ってはいない。


 ピアノの椅子を引いて、腰を下ろす。鍵盤に触れると、軽やかな音が部屋に広がった。

 軽やかなのに、私の心は重く沈んでいく。ピアノの黒い表面に映る自分の顔は、昔と違って楽しそうでも、誇らしげでもない。

 ――俺、書きます。

 もう、小説のネタにしようという気はない。

「……あいつの夢なんて、ぐちゃぐちゃに潰してやる」

 押し殺した、か細い声でそう呟く。

 夢だけが詰まっているピアノは、今日も軽やかに音を奏でていた。




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