第1話 夢詰まるピアノ
錠剤を飲み込む。
作用は集中力の向上。副作用は吐き気。
特に副作用は強烈で、俺の体質にはどうにも合わないらしい。飲んだ瞬間、胃の奥がざわつき、喉の奥が反射的にきゅっと縮む。すぐに吐き気が襲ってくる。
俺はこの薬が嫌いだ。嫌いだが…飲まないと頭の中の雑音が暴れ出す。これは、ADHDの俺は飲まなきゃいけない。それはわかってる。
それでも、嫌いだからできるだけ飲まないようにしてきた。
今日は違う。
錠剤を飲み込む。吐き気を押し殺しながら、ゆっくりと、息を吐く。
なぜなら…
「俺は今日…犯罪を犯す」
俺がその犯罪…空き巣をしようと思った理由。
別に金が欲しかったわけじゃない。
…いや、金は欲しい。
生活保護の支給額は、毎月ギリギリ。でも、それだけじゃない。
もっと、どうしようもない理由がある。
昔から俺は“普通のこと”ができなかった。
学校では忘れ物ばかりで、授業中は落ち着かなくて、ノートは白紙か、意味のない落書きで埋まっていた。
それは、大人になっても変わることはない。
仕事は続かない。注意されると頭が真っ白になり、同じミスを繰り返す。
そして気づけば、クビ。
「努力が足りない」
「やる気がない」
「邪魔でしかない」
そう言われ続けて、自分が壊れている側の人間だと理解した。
そんな時…ADHDの診断がついた。
だけど診断がついたところで、人生が急に良くなるわけじゃない。
薬を飲めば集中できる。でも、吐く。
飲まなければ集中できない。それはそれで吐く。どっちにしろ吐く。
そんな状態で働けるわけがない。
俺は生活保護を受けて、家にこもった。
きっと俺はもう…“普通の人間の世界”には戻れない。
それはもういい。許容できる。
でも戻れないならせめて、生き延びる方法を探したい。
俺の心が、生き延びる方法を。
空き巣をしようと思い至ったのは、そんなときだった。
テレビのニュースを見ていた。
「空き巣犯の卑劣な手口!」
そのテロップを見た瞬間、思った。
俺でも、できるんじゃないか。普通になることよりは、できる気がした。
――普通の世界で生きるのが無理だった。
だから、普通じゃない方法に手を伸ばした。俺にも何かできるという…俺の心が生き延びる方法に手を伸ばした。
それが理由だ。それだけだ。
自宅のアパートから徒歩五分。そこに建っている一軒家。そこを標的にすることを決めた。見た目からして裕福な家だった。
ドアの前にしゃがみ込み、ピックを取り出し、鍵穴に差し込む。
「確か、こうやって…」
ガチャガチャと動かすも、いい感触はない。
いつまでやっても、あの日のニュースのようなカチリという音がしない。
「…くそっ」
俺は思わずドアを拳で叩いた。ドン、と鈍い音が響く。
ドアノブを傾け、引っ張る。
ギィ…と、拍子抜けするほど簡単にドアが開いた。
「え?」
自分でも驚くほど乾いた声が漏れた。鍵が開いていたんだ。
…不用心だな。
中を覗くと、暗闇が広がっている。まだ夕方だというのに、なぜこんなにも暗いんだ。
吐き気がまた、込み上げる。
でも、薬のおかげか…頭の中は静かだ。
一歩、家の中に足を踏み入れた。
ドアを閉めると、より一層闇が深くなる。そしてこの暗さの理由が、閉め切ったカーテンのせいだと気づくのに、さして時間はかからなかった。
土足のまま、夕日漏れるカーテンに向かい、力を込めて開け放つ。
光が差し込む。部屋の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。
散らかったリビング。生活感のある家具。
そして、部屋の中央に、黒い塊のようなものがあった。
「…ピアノ?」
ピアノなんて、テレビでしか見たことがない。
ただ確か、聞いたことがある。車より高いとか、そんな話をテレビから。
これを、持って帰れたら…
そのとき。
ジャコっ!
玄関から音が響く。明らかに、鍵が差し込まれた音。あの独特の金属音だった。
「鍵かけるの忘れてた…あれ?カーテンあけっぱじゃん」
女性の声。
俺はピアノの影で、息を殺したまま固まっていた。ピアノの脚が、目の前に黒い柱のように立っている。
そのすぐ向こう側で、住人が動いている気配がする。
「閉め忘れてたのかな」
そんな呟きが聞こえる。
俺の心臓が、バレるんじゃないかと思うほどうるさく鳴っていた。緊張のせいか薬のせいか、吐き気が喉までせり上がる。足音が近づく。
…ばれる!
椅子が引かれる音と共に。ぽん、と鍵盤が鳴った。
頭上から、音が落ちてくる。
まるで、ピアノの内部に閉じ込められたみたいに、音が直接、身体に触れてくる。
住人が、ピアノを弾き始めたのだ。
音が連なる。
その音色は軽く、柔らかく。でも、迷いがない。
上手い。
素人の俺でも、そのことだけはわかった。
今度は耳を澄まして名前の知らない曲を聴く。
ただただ、楽しそうに、響く。見てはいないが、きっとこの女性は楽しそうな顔をしてるのだろう。
夢を、叶えてるんだろう。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
俺は夢ってものが嫌いだ。なぜなら、破れるものだから。
夢が叶うのは、一握りの者たち。きっと俺が夢を持ったとしても、その中に…俺はいない。
だから俺は夢を持たないし、夢がたまらなく嫌いだ。
なのに、頭上から降り注ぐこの音は、まるで“夢そのもの”みたいに輝いていた。
眩しくて、気持ち悪くて。
…吐き気がするほど綺麗だった。
少しして、音が止んだ。慌ててまた、息を止める。
椅子を引く音がして、足音が部屋の奥へ遠ざかる。
今だ!
頭の中で誰かが避けぶ。すぐに身体が、勝手に動いた。
俺はピアノの影から這い出し、できるだけ音を立てないように、玄関へ向かって走った。
ドアを開ける。外の空気が一気に流れ込む。
夕方の光が目に差して、視界が白く揺れた。息がうまく吸えず、吐き気が喉までせり上がる。
それでも家から離れるように、夕日の方へと、ただひたすら走った。足がもつれそうになりながら。
そして、走りながら俺は…振り返ってしまった。夕日の当たったその顔を、俺の影の差す方向を。
ドアから住人が、身を乗り出すようにして外を見回している。
目が合った…気がする。
俺はまた、走り出した。
三歩、歩く。くるりと回る。
これは、昔からの癖。一回転回りきるとまた、街中を歩き出す。予定も、目的地もなく、ただ歩く。
昨日のことは…まだ身体に残っている。
あの音と、夕日と…あの照らされた顔。思い出すたび、気持ち悪さが走る。なのに、体が妙に熱い。
三歩、歩く。くるりと回る。振り払うように。
そのときだった。
「あの、すみません」
肩がびくっと跳ねる。
聞き覚えのある声だ。いや、忘れるはずもない。
俺は振り返った。
そこに立っていたのは、やはり昨日の住人だった。
昼間の光の中で見るその顔は、夕日の光の元で見たときよりもずっと、普通。
「あなた…」
心臓が跳ねた。
「私の小説のキャラにそっくりですね…つい声かけちゃいました」
「え?ピアノは?」
「…どうして、それを?」
…今、猛烈に自分をぶん殴りたい。
彼女は一歩だけ近づいてきた。光の中で、その表情がはっきり見える。
「ねえ……あなた、昨日うちにいました?」




