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『ゲロ味の錠剤』  作者: kar777


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1/7

第1話 夢詰まるピアノ

 錠剤を飲み込む。

 作用は集中力の向上。副作用は吐き気。

 特に副作用は強烈で、俺の体質にはどうにも合わないらしい。飲んだ瞬間、胃の奥がざわつき、喉の奥が反射的にきゅっと縮む。すぐに吐き気が襲ってくる。

 俺はこの薬が嫌いだ。嫌いだが…飲まないと頭の中の雑音が暴れ出す。これは、ADHDの俺は飲まなきゃいけない。それはわかってる。

 それでも、嫌いだからできるだけ飲まないようにしてきた。

 今日は違う。

 錠剤を飲み込む。吐き気を押し殺しながら、ゆっくりと、息を吐く。

 なぜなら…

「俺は今日…犯罪を犯す」


 俺がその犯罪…空き巣をしようと思った理由。

 別に金が欲しかったわけじゃない。

 …いや、金は欲しい。

 生活保護の支給額は、毎月ギリギリ。でも、それだけじゃない。

 もっと、どうしようもない理由わけがある。

 昔から俺は“普通のこと”ができなかった。

 学校では忘れ物ばかりで、授業中は落ち着かなくて、ノートは白紙か、意味のない落書きで埋まっていた。


 それは、大人になっても変わることはない。

 仕事は続かない。注意されると頭が真っ白になり、同じミスを繰り返す。

 そして気づけば、クビ。

「努力が足りない」

「やる気がない」

「邪魔でしかない」

 そう言われ続けて、自分が壊れている側の人間だと理解した。

 そんな時…ADHDの診断がついた。

 だけど診断がついたところで、人生が急に良くなるわけじゃない。

 薬を飲めば集中できる。でも、吐く。

 飲まなければ集中できない。それはそれで吐く。どっちにしろ吐く。

 そんな状態で働けるわけがない。

 俺は生活保護を受けて、家にこもった。

 きっと俺はもう…“普通の人間の世界”には戻れない。

 それはもういい。許容できる。

 でも戻れないならせめて、生き延びる方法を探したい。

 俺の心が、生き延びる方法を。


 空き巣をしようと思い至ったのは、そんなときだった。

 テレビのニュースを見ていた。

「空き巣犯の卑劣な手口!」

 そのテロップを見た瞬間、思った。

 俺でも、できるんじゃないか。普通になることよりは、できる気がした。

 ――普通の世界で生きるのが無理だった。

 だから、普通じゃない方法に手を伸ばした。俺にも何かできるという…俺の心が生き延びる方法に手を伸ばした。

 それが理由だ。それだけだ。


 自宅のアパートから徒歩五分。そこに建っている一軒家。そこを標的にすることを決めた。見た目からして裕福な家だった。

 ドアの前にしゃがみ込み、ピックを取り出し、鍵穴に差し込む。

「確か、こうやって…」

 ガチャガチャと動かすも、いい感触はない。

 いつまでやっても、あの日のニュースのようなカチリという音がしない。

「…くそっ」

 俺は思わずドアを拳で叩いた。ドン、と鈍い音が響く。

 ドアノブを傾け、引っ張る。

 ギィ…と、拍子抜けするほど簡単にドアが開いた。

「え?」

 自分でも驚くほど乾いた声が漏れた。鍵が開いていたんだ。

 …不用心だな。

 中を覗くと、暗闇が広がっている。まだ夕方だというのに、なぜこんなにも暗いんだ。

 吐き気がまた、込み上げる。

 でも、薬のおかげか…頭の中は静かだ。

 一歩、家の中に足を踏み入れた。


 ドアを閉めると、より一層闇が深くなる。そしてこの暗さの理由が、閉め切ったカーテンのせいだと気づくのに、さして時間はかからなかった。

 土足のまま、夕日漏れるカーテンに向かい、力を込めて開け放つ。

 光が差し込む。部屋の輪郭がゆっくりと浮かび上がった。

 散らかったリビング。生活感のある家具。

 そして、部屋の中央に、黒い塊のようなものがあった。

「…ピアノ?」

 ピアノなんて、テレビでしか見たことがない。

 ただ確か、聞いたことがある。車より高いとか、そんな話をテレビから。

 これを、持って帰れたら…

 そのとき。

 ジャコっ!

 玄関から音が響く。明らかに、鍵が差し込まれた音。あの独特の金属音だった。


「鍵かけるの忘れてた…あれ?カーテンあけっぱじゃん」

 女性の声。

 俺はピアノの影で、息を殺したまま固まっていた。ピアノの脚が、目の前に黒い柱のように立っている。

 そのすぐ向こう側で、住人が動いている気配がする。

「閉め忘れてたのかな」

 そんな呟きが聞こえる。

 俺の心臓が、バレるんじゃないかと思うほどうるさく鳴っていた。緊張のせいか薬のせいか、吐き気が喉までせり上がる。足音が近づく。

 …ばれる!

 椅子が引かれる音と共に。ぽん、と鍵盤が鳴った。


 頭上から、音が落ちてくる。

 まるで、ピアノの内部に閉じ込められたみたいに、音が直接、身体に触れてくる。

 住人が、ピアノを弾き始めたのだ。

 音が連なる。

 その音色は軽く、柔らかく。でも、迷いがない。

 上手い。

 素人の俺でも、そのことだけはわかった。

 今度は耳を澄まして名前の知らない曲を聴く。

 ただただ、楽しそうに、響く。見てはいないが、きっとこの女性は楽しそうな顔をしてるのだろう。

 夢を、叶えてるんだろう。

 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

 俺は夢ってものが嫌いだ。なぜなら、破れるものだから。

 夢が叶うのは、一握りの者たち。きっと俺が夢を持ったとしても、その中に…俺はいない。

 だから俺は夢を持たないし、夢がたまらなく嫌いだ。

 なのに、頭上から降り注ぐこの音は、まるで“夢そのもの”みたいに輝いていた。

 眩しくて、気持ち悪くて。

 …吐き気がするほど綺麗だった。


 少しして、音が止んだ。慌ててまた、息を止める。

 椅子を引く音がして、足音が部屋の奥へ遠ざかる。

 今だ!

 頭の中で誰かが避けぶ。すぐに身体が、勝手に動いた。

 俺はピアノの影から這い出し、できるだけ音を立てないように、玄関へ向かって走った。

 ドアを開ける。外の空気が一気に流れ込む。

 夕方の光が目に差して、視界が白く揺れた。息がうまく吸えず、吐き気が喉までせり上がる。

 それでも家から離れるように、夕日の方へと、ただひたすら走った。足がもつれそうになりながら。

 そして、走りながら俺は…振り返ってしまった。夕日の当たったその顔を、俺の影の差す方向を。

 ドアから住人が、身を乗り出すようにして外を見回している。

 目が合った…気がする。

 俺はまた、走り出した。


 三歩、歩く。くるりと回る。

 これは、昔からの癖。一回転回りきるとまた、街中を歩き出す。予定も、目的地もなく、ただ歩く。

 昨日のことは…まだ身体に残っている。

 あの音と、夕日と…あの照らされた顔。思い出すたび、気持ち悪さが走る。なのに、体が妙に熱い。

 三歩、歩く。くるりと回る。振り払うように。

 そのときだった。

「あの、すみません」

 肩がびくっと跳ねる。

 聞き覚えのある声だ。いや、忘れるはずもない。

 俺は振り返った。

 そこに立っていたのは、やはり昨日の住人だった。

 昼間の光の中で見るその顔は、夕日の光の元で見たときよりもずっと、普通。

「あなた…」

 心臓が跳ねた。

「私の小説のキャラにそっくりですね…つい声かけちゃいました」

「え?ピアノは?」

「…どうして、それを?」

 …今、猛烈に自分をぶん殴りたい。

 彼女は一歩だけ近づいてきた。光の中で、その表情がはっきり見える。

「ねえ……あなた、昨日うちにいました?」

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