11月の危機~終幕~
1952年11月10日 フランス共和国 コルシカ島 アランド
かつて、独立運動家のパスカル-パオリが首都と宣言したコルテは『コルシカ独立国』を名乗る者たちによって再び独立したコルシカの首都とされていた。
その西に位置し、中世コルシカにおける農民反乱の指導者サンブクッチョ-ダランドの出身地であるアランドは鎮圧に乗り出したフランス軍の攻撃を受けていた。
まず、ブレゲー爆撃機が化学兵器を投下し、次に"戦車"が進撃した。まさにお手本のような衝撃戦だった。この"戦車"は奇妙なもので3つの小型戦車がつながったような連接構造をしていたが、これはドイツ占領時の抵抗運動との市街戦あるいは村落の掃討戦での戦訓から生まれた、対人戦車とも言うべきものだったが、量産開始と同時にドイツからの撤退が決まったため、警備用車両として使われてそのまま役目を終えると思われたが、意外なところで本来の役目を果たす機会を得たのだった。こうして反乱者の一掃は確実とみられたが、フランス軍にとっては意外なことに市街に入るといくらかの"戦車"が撃破された。
反乱勢力は主にユニオンコルスを通じてアメリカ製の多数の余剰となった物資を入手しており、その中には対戦車火器や地雷、大戦中に作られた民間向けのガスマスクなども多数含まれており、加えて言えばフランス軍での戦闘経験もあるものたちが皮肉にもフランス軍の戦術とその対処法を熟知していたため、ただの反乱者と侮ったフランス軍に痛打を与えたのだが、その程度でフランス軍が止まるはずもなく、早くも翌12日にはコルテに空挺部隊が降下し、激しい戦闘の末に鎮圧を宣言した。
このようにコルシカ島蜂起から始まった一連の混乱に対するフランスの対応は早く、蜂起自体はすぐに鎮圧されたのだが、その後が問題だった。周辺各国との間で外交危機を引き起こすことにつながったのだった。なぜならば、反乱勢力がつながっていたのはアメリカだけではなかった。隣国であり、文化的にも近いイタリアとも秘かにつながりを持っていたのだった。そのため多くのコルシカ島出身者たちがイタリアへと難民となって押し寄せたが、彼らはフランス軍によってもたらされた惨状を口々に語り、そしてそれはイタリアの世論を刺激した。あるイタリアの新聞は、
『未開なアジアでも、アフリカでもない、ヨーロッパにおいて行われた驚くべき蛮行』
との見出しで、コルシカ島難民に対するインタビュー記事を掲載した。
対するフランスはそうした難民たちをユニオン-コルスの構成員であり犯罪者として非難することで乗り切ろうとする一方で交渉による解決を模索したが、イタリア首相であるラウロ-アドルフォ-デ-ボシスは過激なパフォーマンスを武器にのし上がった政治家であり、譲歩のためにはそれなりの対価を要求し、具体的にはコルシカ島をフランス領と認めつつもニース(ニッツァ)、サヴォワ(サヴォイア)のイタリアへの割譲を求めた。
だが、フランスとしてはこれを認めるつもりはなく、それを知ったボシスは仏伊国境でのイタリア軍による大規模演習を行うことを発表するなど緊張が高まった。だが、その解決策は意外なところから来た。アルジェに拠点を置く今回の事態の元凶といえなくもない執行委員会だった。かれらはニース(ニッツァ)及びサヴォワ(サヴォイア)問題の解決策として上位組織である欧阿共同体を結成し、そこに両地方の統治を委ねるべきと発表したのだった。
突飛な解決策として片づけられるはずの解決策だったが、それに賛同する者たちがいた。サヴォワ(サヴォイア)の北に位置するスイスといまだローマへと帰れていない(もっともこれはイタリア政府も同様だったが)ピエンツァの教皇庁だった。
後者に関しては単にカトリック同士の争いを望まなかったためとロシアとの東西教会合同に関して支持を集めようとの狙いがあったが、前者とはフランス、イタリアともに因縁があった。
もともと、サヴォワ(サヴォイア)はイタリア王家の発祥の地といっても、19世紀に入るころにはすでにその中心はトリノを中心としたピエモンテ地方に移っており、辺境ともいえる扱いを受けていた。そのため、サヴォワ(サヴォイア)の人々、特にスイスに近い北部ではスイスへの編入を求める地下組織が結成されていたが、それはフランス第二帝政とサルデーニャ王国との交渉の結果、割譲が合意された際も北部ではスイスへの編入を求める声が強かったという歴史があった。
だが、そんなことは遥か昔であり、突然スイスがこの問題に介入してきたことにフランスもイタリアも驚きと不快感を示し、11月21日スイスのベルンに代わる"臨時"首都であるゾロトゥルンにプシャードとボシスが乗り込んだ。アルジェの執行委員会の側もモンネヴィルを代表に交渉に参加しようとしてプシャードには反逆者と批難された。
そこで、何が話し合われたか、正確な議事録はいまだに公開されていないが、11月27日に事態は劇的に動いた。
まず、ニース(ニッツァ)については1861年のフランス-モナコ条約でフランスに売却されたマントン、ロクブリュヌは引き続き飛び地としてフランス領ではあり、モナコも依然としてフランスの保護領であるがそのほかはイタリアに割譲されること、サヴォワ(サヴォイア)に将来的には然るべき国際組織に委ねるとされたがしばらくはイタリア、フランス、スイスの共同統治が定められた。これだけ見ればフランスの一方的な敗北だが、この条件をプシャードが飲んだのには同時に締結されたゾロトゥルン協定の存在が大きかった。これは事実上の軍事同盟であると同時に兵器の規格統一、共同開発とそれに必要な技術支援なども盛り込まれており、ドルジェール政権下で立ち遅れたフランスにとっては必要なものだった。
そしてその締結と同時にゾロトゥルン協定は役目を果たすことになった。
殆ど事前に予想されていたことだが、プシャードに反対していた農民同盟内部の保守派が割譲に反対する軍内部の将校と組んでのクーデターをプシャード不在の隙をついて起こしたのだった。アルジェの蜂起の焼き直しを行なったようなものだったが、すぐに動き始めたプシャードによっていくらかの激しい抵抗を見せつつも鎮圧された。その主力となったのは皮肉にも執行委員会側に属していたはずのアルジェ駐留部隊だった。
プシャードはゾロトゥルン会議で表向きは執行委員会を非難しつつも裏では接触を図っており、改革の是非を問う選挙の実行を条件に執行委員会を懐柔していたのだった。それを輸送したのはイタリア空軍だったが、こちらについては外交上の問題を避けるため明かされたのは半世紀がたってからだった。
そして、今回の問題が波及するきっかけとなったコルシカ人については、フランスへの期間を拒んだものはほとんどがイタリアでの同化政策を受けることになったものの、ピエンツァでの教皇庁の衛兵という形でその文化と伝統を受け継ぐことが可能となった。
これは17世紀に存在していた(その解散の理由はコルシカ衛兵が1662年に教皇領フランス大使の護衛と乱闘を起こしうえにそのまま大使を襲撃しようとして、従者を負傷させたためにフランス王国との間で外交問題を引き起こしたからだった)を復活させたものとされた。
そして、なおも抵抗を叫び続けたものについてはイタリア政府からも公式にユニオン-コルスの構成員とされ追われることになった。
こうして、仏伊両国での戦争を引き起こしかけるまでにいたった11月の危機はその発端となった執行委員会とそれがきっかけで成立したプシャード政権の協調という意外な形で終幕を迎えたのだった。
意外とあっさり、終わらせてしまいましたが、これはカクヨムで投稿していた時には長い話を組み立てる能力が一時的に衰えていたためです(もともとないと言われればそうですが…)。
一応あともう一話だけ蛇足のような話があるのでお付き合いください




