11月の危機~波及~
アルジェでの騒乱の勃発に対してドルジェール政権はうまく対応できなかった。オリンピックの開会式に合わせて最高権力者であるドルジェールが遠く日本にいたことが原因だったが関節的にはドルジェール自身のせいでもあった。
ドルジェールが率いるフランス農民同盟においてはピエール-プシャードを中心とする従来の支持層である農民に加えて中小規模の商工業者も支持層に取り込もうとする改革派が台頭していたが、ドルジェールはプシャードを儀礼的な権限しかない大統領職に押し込めていた。以前の第三共和制ならば大統領の権限は凍結されただけであり、このような不在時であれば何らかの行動を起こせたのかもしれないが、新憲法下の第四共和政では不可能だった。
だが、そこで問題が起きた。
急遽フランス本国に取って返そうとしたドルジェールを乗せた政府専用機は近隣のインドシナのハノイのウベール-リヨテ国際空港に給油のため着陸しようとした。これは政府専用機がブレゲー社製のジェット爆撃機を改造したもので政府専用機としての機能に加えて映画館などの豪華な設備を欲したドルジェールの要請に応じた結果、元になった爆撃機以上に重量過大となり結果として大出力ジェットエンジンを搭載した結果頻繁な給油が必要だったためだったが、政府専用機は着陸に失敗して炎上、生存者なしという異常事態となった。
原因はハノイの都市計画にあった。1920年代のシトロエン計画と呼ばれたル-コルビュジェ発案の都市計画は基本的にはパリの改造を目的として建てていた計画の引き写しであり、その中にあったセーヌ川の空港建設計画を、ホン河にて行ったものだったため、航空機の性能が不十分であった20年代ならまだしも今では航空機の発着陸に使うには不十分な代物だったため、着陸に失敗したのだった。
だが、それを知ったプシャードはインドシナにいた親クーデター派によってドルジェールは爆殺されたと演説して、動揺する国内の締め付けを狙った。
一方でクーデターを起こした者たちにとってはドルジェールの死亡は想定外のことだったし、さらにプシャードの素早い動きについてはさらに考えてもいないことだった。これは基本的にはドルジェールの排除を想定していてもあくまで追放を目的としたからだ。何しろ本国にはいまだドルジェールの支持者たちは健在であり、それらを一から掃討する間に改革は止まってしまう、そのためドルジェールを政権の座から引き下ろしつつも穏便な形で済ませたかったのだが、よりにもよって最悪な形へと物事は動きつつあった。
さらにそうした混乱に拍車をかけたのがパリの破壊をはじめとした社会主義ドイツの蛮行に衝撃を受け、それを非難する中で生まれた"フランス-イソノミズム"の信奉者たちだった。
これはオーストリア=クロアチア=スラヴォニア帝国において共通外務次官などを歴任したエリック-マリア-リッター-フォン-キューネルト=レディンの提唱した、
『社会主義ドイツの蛮行はフランス革命以来の革命の当然の帰結であり、そうした蛮行を避けるためには再び中世のような階層社会に戻るしかない』
という学説やそのキューネルト=レディンの友人でオーストリアにとどまってルーデンドルフの粛清の犠牲となったオトマール-シュパンの提唱した精神的共同体を核として、最終的には国家以上の世界規模の階層的な経済システムを構築しようとした経済イデオロギーである"普遍主義"に刺激を受けて、キューネルト=レディンと同じくオーストリア=クロアチア=スラヴォニアの外交官であったフリードリヒ-アウグスト-エドラー-フォン-ハイエクが打ち立てた革命、特に暴力的な市民革命を否定するが同時に人権に基づく個々人の自由といった近代的な概念も取り入れた、公共としての有機的な階層社会と私的領域の区別を特徴とする思想である"イソノミズム"から派生したものだった。
古代アテナイにおける法の下の平等を意味するイソノミアから派生した語であるとおり、暗黒時代とも呼ばれる単なる中世への回帰とは一線を画したはずの"イソノミズム"だったがフランスではナショナリズム的観点からフランス革命が称揚されていたため"革命の否定"は政教分離などの反カトリック的なものへの批判に留まった一方で近代的な文物や制度への批判などまるで本物の暗黒時代へと戻そうとするかのような動きが始まっていた。
こうした動きは本家の"イソノミズム"からは別物とされ"フランス-イソノミズム"と呼ばれていたのだが、そうした者たちからすれば今回のアルジェで蜂起したものたちが唱えるフランス本国の近代化などは、そうした動きに逆行するものだったため認められるわけがなかった。
さらに自治領と名を変えつつある植民地での動きも問題だった。
日系移民が多数暮らすインドシナ、敵対国家となったイギリスの勢力圏に近すぎるマダガスカル、良港ジブチを要するフランス領ソマリランドにかつてのフランス王国の遺産であるフランス領インドなどはいまだ態度を決めかねており、アルジェにほど近い西アフリカと北アフリカを除けば蜂起した執行委員会が掌握できている地はなかった。
そこで早期に混乱を終結させるべく、執行委員会はオラン県のオラン軍港に停泊していたフランス海軍の地中海艦隊に目を付けたのだが、その接収に失敗、何とか撃沈あるいは撤退させることに成功したが執行委員会は海を渡ることはできず(フランス本土の防空網は強固であり、空からの突破は困難を極めると予想されていたため、本土の制圧のためには海路しかなかった)戦略的には敗北だった。この時の戦闘においてはクーデター部隊傘下のフランス空軍の運用する空対艦誘導弾により駆逐艦サハラが撃沈され、従来の魚雷や大砲とは違う新たな種類の空対艦兵器に対する注目が集まるきっかけとなったものの、そんなことは何の慰めにもならなかった。
だが、問題を抱えていたのは執行委員会だけではなかった。パリのプシャードもまた決め手を欠いていたのだった。
フランス農民同盟内部ではポール-アンティエを中心とする保守派が本来ならばプシャードには何の権限もないことを力説して追い落としにかかっていたほか、地方からの反発も強かった。その原因は第二次世界大戦後から続く、フランスの分権化政策だった。パリの壊滅という教訓からパリへの一極集中から分権に舵を切ったフランスだったが、結果として盛り上がった地域主義をドルジェール政権は徹底的に弾圧していたため、その死によって各地ではデモや場合によっては暴動が頻発していた。
そしてついに、最悪の事態が起こる。
11月1日、地中海のコルシカ島において独立派が蜂起し、独立を宣言したのだった。
独立派の背後にはハーストまでの愛国党政権下においてアメリカ政府との強い結びつきで財を成し、その関係は内戦によるハーストの死亡という形で終わったもののそれでも依然として裏社会では大きな勢力を持った犯罪組織ユニオン-コルスの存在があった。
こうして10月のアルジェのクーデターから始まった騒乱は11月の危機と呼ばれるフランスのみならず周辺各国にも影響をおよぼす危機へと発展することになったのだった。
なんか、ハイエクが外交官を経て思想家みたいになってますが元が外交官志望だし、史実での師であるミーゼスはポーランドにいるので接点はないし…ということでシュパンの思想的後継者みたいな感じに落ち着けましたが、公共圏と私圏の区別はありつつも変に個人主義的に配慮していたり、イソノミアを称揚していたりと改めてみると史実に流されてる感が強いので、そのうち改定する…かもしれませんが、その時は活動報告で触れるつもりです




