11月の危機~始まり~
今回の話は砲声は未だ鳴りやまずの中でも最も過去のもの(現状では)になります。
1952年10月10日 フランス共和国 アルジェ県 アルジェ
かつてベルベル人の王朝であるズィール朝が築いた町は1830年の征服以来フランス領アルジェリアの首府であり、第二次世界大戦後の自治化によって、地中海沿岸部のいくつかを除いてアルジェリア自治領として再編された際にもアラブ人の多い旧市街を除けばフランスにとどまっていた。
世界中が極東で初めてとなるオリンピックである東京オリンピックの開催に沸く中で旧市街とそれ以外を隔てる壁のように建設された著名なスイス人建築家ル-コルビジェが設計した高架道路兼用の住居の一角には男たちが集まっていた。その中心にいるのは黒人の男であり、さらに奇妙なことに部屋の壁に掛けられた旗はフランス国旗の青、白、赤ではなく、青、赤、白の並びの三色旗だった。
「モンネヴィル議員、やはりドルジェールは政策転換を拒否し続けると」
「私もそれとなく言ってはみたが…ダメだったよ。帝国《植民地》あってのフランスであり、同時にフランスあっての帝国《植民地》だというのにだ…こうなれば強硬策のほかないだろう」
黒人の男、ガストン-モンネヴィルはフランス領ギアナ出身の議員であり、黒人奴隷の子孫であったモンネヴィルは自らの祖先を縛り付けていた鎖から解き放った奴隷解放令を発布した第二共和政を賛美しており、部屋の壁に掛けられた旗はその国旗だった。
「まさか、フランス人同士の殺し合いを行うなどと…本当にほかの手段はないのかね?」
「教授。しかし、現状は…そうですな、貴方流にいうならば進化の増幅ではなく退化の増幅ですよ」
教授と呼ばれた男、ジャン-クーチュローは皮肉めいたモンネヴィルの言葉に何も言わなかった。
トランスヒューマニズムという言葉の生みの親であるクーチュローはある世代の発見を次の世代がさらに発展させることで最終的に人類全体を進化させるという考えを持っていたが、それは過去の否定や破壊を伴うものではないと主張し、また、自らもそう信じていたために流血を伴う体制変更には否定的だった。
モンネヴィルやクーチュローがアルジェの集合住宅に集まっていたのは、交通による騒音のひどさによって居住には全く適さないため無法者のたまり場になっているこの場所が、皮肉にもその騒音から盗聴の防止ができ、さらに黒人と白人という一見目立つ組み合わせでも、その場所柄から不審がられないという利点があったからだ。
ここに集まった者たちが話していることはそれほどまでに重大だった。何しろその目標は現体制の転覆だったからだった。
フランスは二度の大戦の惨禍を切り抜け、ヨーロッパではイギリスに次ぐ第二の国力を持つ列強の中でも上位に位置する国家だったが、その国内は混乱の極みにあったといってもいい状態だった。その原因は第二次世界大戦終結直後にまでさかのぼる。
第二次世界大戦を戦い抜いたアンドレ-タルデューに代わって首相となったアンリ-ドルジェールはもともと農民運動の指導者であり、したがって、フランス国内の農民たちからの支持を得るためにも、フランス国内への農作物の流入を阻止しようとしたが、一方で自らに献金をする企業家たちが困らないようにフランス国内以外つまり海外植民地や同盟国である大陸ヨーロッパ各国や大日本帝国などへは積極的に進出を推し進めるというある意味では矛盾した政策を行っていた。
もちろんイギリスに対抗することを考えていたドルジェールからすれば自らの国力を削るようなことはしたくなかったが、不満が自らに向くことを恐れていたため、工場などの施設やインフラの破壊などが行われなければ放置しており、そうしたことによりますますフランス資本は植民地へと逃避した。
こうして、ドルジェールの政権獲得から10年になろうとする現在ではフランス本土では公教育という理想が失われ、特に農村地帯では小学校に通っての最低限の教育すら受けられないものがいる一方で、フランス人の中でも高等教育を受けた若者は官僚として国家機構に組み込まれるか、植民地やイタリア、スペイン、ポルトガルあるいは遠くアルメニアや日本といった友好国で働くかの選択を強いられるという歪な社会が生まれたのだった。
そうした本土とは対照的に植民地は活況だった。これは前述のフランス資本の積極的な進出によって、工業化がなされたばかりか、フランス本土からの一定の統制こそあれど各植民地間での交易やその需要に応じた独自の製品開発を行っており、ドルジェールがイギリスの援助受けて徐々にではあるが回復しつつあるドイツ帝国を念頭に軍需産業に拘り続けるのを見ながら、各植民地は民需分野での生産と消費を行っていた。
その結果出来上がったのは、各植民地製の生産性と耐久性に優れた民需品とフランス本土から送られてきた一見優れてはいても工作精度が追いついておらず故障が頻発する軍需品という惨状であり、この事実は特に軍関係者を落胆あるいは憤慨させたが、そうした反応を示したのは彼らだけではなかった。
特に大きな危機感を持ったのは旧カナダ出身者だった。
ケベックをはじめとする旧フランス語圏出身者たちは愛国党政権に強い影響力を持つテクノクラートたちにより"同化不能"な存在であるとみなされており、占領下のカナダから真っ先に追放された人々であった。したがってアメリカに対する強い恨みを持っていたものの、凡そ2世紀に及ぶ本土との断絶を埋めることはできず多くは植民地に定住していたため、初めはドルジェール政権の政策による植民地への投資を喜び、またその中で才能を発揮していたのだが、徐々にフランス本土の"荒廃"ともいえる惨状を不安視するようになっていた。
そうしたカナダ出身者たちと軍関係者が結びつくのにはそう長く時間はかからなかった。
こうして、この日の翌日には国民衛兵を名乗る集団(その多くは旧カナダ出身者だった)によってアルジェ県庁舎が占拠され、第二共和制にちなむ執行委員会の樹立が宣言された。
後に11月の危機と呼ばれる危機はこうして始まったのだった。




