空想、科学、エントピア 終章
1990年3月11日 デンマーク王国 ダウスヴァ自治領 サンクトトマス島 シャルロッテ-アマーリエ クリスチャン城
かつてデンマーク領西インド諸島と呼ばれていたこの地がダウスヴァ自治領と名を変えてから、もうすぐで半世紀がたとうとしていた。東からくるロシア軍に加えて南から社会主義陣営を離脱して独立したポーランド軍の攻勢を逃れてバルト海を渡ってきたリトアニア人難民の保護という善意と大西洋休戦協定においてヴァージン諸島がアメリカ領となったことから、プエルトリコとヴァージン諸島に挟まれたこの地を何としても維持したいという実利の2つから作られたカリブ海に浮かぶリトアニア人の自治領が誕生していた。
もちろんそれだけでは居住に適さないため、かつてのデンマーク植民地の建物などは観光資源として残しつつ、水域内に人工島や浮体構造物を建造するなどして居住空間を確保していたが、首都は植民地時代と変わらずシャルロッテ-アマーリエであり、当然、政府もそこにあった。
かつて社会主義ドイツを含む欧州各国とアメリカ、そして日清両国や南米諸国の首脳が集まったシャルロッテ-アマーリエ会議が行われた場所であるクリスチャン城は自治領政府の所在地だった。
「それで、クリスチャンスタッドの様子はどうかね」
「いつも通りでしょうか」
クリスチャン城と名前が同じため紛らわしいが、クリスチャン城の由来であるクリスチャン5世の孫にあたるクリスチャン6世にちなんで名づけられたサンクトクロイ島の都市クリスチャンスタッドにあるクリスチャンズヴァーン要塞には自治領議会が置かれていた—サンクトヨハン島には自治領最高裁判所が置かれていたため図らずも主要三島で三権の機関を分け合う形となっていた—ため、政治家がクリスチャンスタッドといえば議会を意味する言葉だった。
「まったく、"建築家"はおとなしく建物だけ作っていればよいのだ」
「まぁ、もともとエントピア自体が建築由来の概念らしいですし、親和性は高いのでしょうね」
苦い顔をした自治領政府首相ゲンナディオス-ブルブリスに対して秘書官は苦笑を返してからそう答えた。
"建築家"ことユルギス-マチューナスは遠く極東の大日本帝国で生まれ、南米で一大潮流を築き上げた建築運動であるメタボリズムをダウスヴァに持ち込んだ人物であり、2年前のハリケーンであるヒューゴによって自治領に大きな被害が出た際には復興のための寄付などを積極的に行っていた人物だった。現在は政治活動に積極的に取り組んでおり、その思想として掲げたのがギリシア=トルコで生まれ、ボヘミアを、リーフを席巻したエントピア主義だった。
「宣伝も…効果なし、か」
テレビに映っていたのは、ヘッセルマンエンジンを唸らせて迫る戦車に着の身着のままの市民たちが立ち向かう様子、廃墟となった大統領官邸前に集まった市民たちが手を挙げて降伏してきた兵士たちを私刑にする様子…暗転したのちに最後に浮かび上がる『これがエントピアです。あなたは住みたいですか?』の文字。
それは3年前にリーフ軍を主体とするクーデター部隊とエントピア主義を支持する市民が衝突したリーフ動乱の映像を編集してつくらせた反エントピア主義のプロパガンダであり最近、公共放送で繰り返し放送させているものだった。
にもかかわらず市民の反応は鈍いものがあった。これはアメリカの劇的な体制崩壊により、いよいよ持ってダウスヴァを維持する必要がなくなったと主にデンマーク本国で考えられ始めたことをダウスヴァの市民たちが自覚し、ならば新体制の下で新国家として新たな道を歩んでもいいのではないか、そう考えるものが増えていたからだった。つまり、ボヘミアやリーフでそうだったように、エントピア主義はその思想そのものが評価されたのではなく、どちらかといえば新奇性が評価されたようなものだった。
だが、そうした新思想の下での独立というのはそれまで支配してきた人々—自治領といっても本国の意向でその統治ははじめからリトアニア人たちに委ねられてきたためそういっても問題はない—ためからすれば受け入れがたいものだった。そのためこうして反エントピア主義の宣伝活動を積極的に行ない、さらに変化を示すためまだ、45歳のブルブリスを首相にすえていたにもかかわらず前述のとおり支持は得られず、来年に予定されている独立か自治のままかを問う住民投票の結果予測では9割が独立に賛成し、さらにその独立を支持したもののうちの7割がエントピア主義を支持しているだろうという予測が出ていた。
ただの学者の予想であれば一笑に付したかもしれないが、いまだ試験中であるがデンマークの誇る最新鋭の自動計算機の発展形である自動推論計算機に様々なデータを読み込ませた結果のかなり精度の高い予測であったため、その結果は容易に覆ることはないと思われた。
そして、翌年に行なわれた独立に関する住民投票及び同時に行なわれた自治領議会改めダウスヴァ共和国議会選挙においては予測通りにそれまで政権を担っていたダウスヴァ統一党が大敗し、もちろん、ブルブリスも首相の座を明け渡すことになった。
そして、この結果はさらに思わぬ場所に影響をもたらした。それが隣接していた米領プエルトリコだった。
プエルトリコは1917年の法律に基づきある程度の自治を認められてはいたものの知事の任免権は大統領にあり、さらに当初の草案にあった米本土への移住権は反移民の熱が高まる中で削除された結果、島外への自由な移動はできなかったばかりか、愛国党政権による国民化政策の下で第一言語としての英語の使用が義務化され、今や地名以外にスペイン語が残っていないという有様だった。
武力による抵抗も試みられたものの、第二次大戦後にアメリカに併合されたジャマイカでアフリカへの"帰還"を拒否し、抵抗活動を行なっていたイギリス時代の逃亡奴隷の子孫であるマルーンたちの拠点であったブルーマウンテン山脈を化学兵器によって絨毯爆撃し、汚染しつくしたことを見て武力抵抗を続けるものは少数派となっていた。アメリカの崩壊はまたとない独立への好機であったが、一方で長きにわたる同化政策の結果としてアメリカ国内に留まろうというものも多く、さらに新体制となったアメリカ内部でもそれまで激しい抵抗活動を行なっていたカナダの動向には注目が集まっていたが、プエルトリコは半ば放置されていた。
そんな、プエルトリコにとってはエントピア主義によって自治から独立へと移行したダウスヴァの存在はある種の希望でもあり、その刺激を受けてプエルトリコでもエントピア主義に基づく新世代の独立運動が始まることになる。
|現実的に存在できる良き場所を目指す動きはこうして旧大陸さえ離れて新大陸にも革新をもたらすことになった。それが一時の流行で終わるのか、それともその言葉の発案者であるコンスタンティノス-アポストロウ-ドクシアディスの目指した世界都市のようにいずれ世界を覆いつくすまでになるのか、それはまだわからなかった。




