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空想、科学、エントピア(4)

1987年11月13日 リーフ共和国 アジール 大統領官邸

 初代公使であったジョセフ-ウィラードの後任として任じられた愛国党出身のエメット-ライリーが前職であるプエルトリコの総督職の中でかつてのスペインによる植民地建築様式に魅了されていたこともあり、リーフ共和国大統領官邸は隣接するアメリカ大使館とともにプエルトリコ人建築家であるラファエル-カルモエガの手によってスペイン植民地リヴァイヴァル様式とネオムデハル様式を組み合わせたものとなった結果、皮肉にもスペインと戦って独立を勝ち取ったにもかかわらず、極めてスペイン文化の影響が強いものになっていた。


 このことからわかる通り欧州諸国とアメリカの駆け引きの結果成立したリーフ共和国にとってアメリカという国家は単なる同盟国以上の存在だった。


 建国当初はその名の通りリーフ地方を治めていただけだったその領域は旧モロッコスルタン国領の北西部を占める領域にまで拡大していたが、それでもリーフにとってその領域はあまりにも狭かった。何しろ、リーフには主にフランス領北アフリカから、"反抗的"とみなされたベルベル人たちが次々と移送されてきた。


 当然、リーフは彼らを同胞として歓迎こそしたが、その存在はいまだ貧しい経済を圧迫していた。似たような事例はフランス領を挟んで南にあるリベリアについても言えたが、そこに移送された"黒人"たちの中には最低程度ではあったが教育を受けた者たちも多かったことやアメリカあるいは植民地出身者たちの多くがキリスト教徒であったことから、建国当時からアメリカ出身の解放奴隷たちが先住民を支配していたという構造もあり、非キリスト教徒の現地民を差別する形で問題はあれど一つのアイデンティティを構築したのに対し、リーフはそもそもそれ以前、つまり国家としてのアイデンティティの構築に失敗していた。


 イスラームという宗教でまとまろうにも、その中心地の過半はフランスの支配下あるいは影響下にあった—ムスリムならだれもが知る聖地の数々や半ば傀儡とはいえカリフ(ハリーファ)さえもだった—し、ベルベル人という民族意識をもとにまとまろうにも慣習法は村ごとに違い、言葉さえも部族ごとで差異があった。そのため幸いにもアメリカおよびその同盟国のオーストラリアから"黒人"として太平洋のメラネシア人やアボリジニを押し付けられたリベリアと違い、ベルベル人でまとめられてこそいたが、その統合は容易ではなかった。


 だが、希望が全くないというわけではなかった。リーフには大戦期に構築されたとある"産業"があった。それこそが密輸出だった。アメリカ勢力圏のものを大協商陣営に運ぶ、あるいは逆をする、そうするのに大西洋と地中海に面したリーフはうってつけだった。


 だからこそ、アメリカの崩壊はリーフにおいてはより致命的な影響をもたらした。アメリカから追放されたテクニカル-アライアンスやそれに近しい者たちの指導の下それなりの産業を築くことに成功していたリベリアと違ってリーフにはそうした基盤は何もなかったため、アメリカの崩壊はリーフ経済の崩壊を意味していた。


 そしてこの日、開票作業が進んでいた大統領選挙ではその影響が如実に表れていた。


「9の州すべてを失ったか」

「はい、選挙人はすべて向こうに流れました。無念です」

「仕方ないさ、経済悪化の対策に失敗した時点でな…ああ、祝電を適当に送っておいていてくれ」

「…はい」


 それまでたちながら秘書官の話を聞いていた与党である『ユリュズ(7月)5日運動』—1919年にリーフの国父といえる人物であるアブド-エル-クリムが蜂起した日付であるグレゴリオ暦でいう7月18日をベルベル人の農業歴で表記したものに因んだ名称であり、クリム自身がそう名付けたものだった—の党首にしてこの国の大統領であるアミルーシュ-アイット-ハムーダは返事をしてから去り行く秘書官の背中を見ながら疲労感に身を任せるように椅子にどっかりと座った。基本的にリーフの制度はアメリカの模倣ではあったが大統領が政党の、つまり『ユリュズ(7月)5日運動』の党首を兼ねるのはクリム以来の慣例となっており、そしてそれは建国以来破られないはずであった。


 ベルベル人の主要部族であるカビール族として1926年にフランス植民地アルジェリアの寒村の貧困家庭で生まれ、地域の名家に奉公という名の事実上の農奴として働きながら勉学に励んでいたにも拘らず突然その血を理由にリーフに放逐されたハムーダのような難民にとっては政界入り、まして大統領などというのただの夢に過ぎないはずだったが、最初は軍人として次に政治家として積み重ねた努力の末に1960年の愛国党大敗の影響でクリムの後継者として自他ともに認めていたモハメド-セラム-アメジアンが失脚するという幸運もあり見事それを現実にしていた。だが、そうして勝ち取ったものは今、崩れ去ったのだった。


「…だがこれで良かったのかもしれん」


 そういうとハムーダは部屋に掲げられたクリムの肖像画を見た。


 民主的な統治をだれよりも望んでいたにもかかわらず、国家統合のために半ば個人崇拝に近い手段で国民を纏め上げたクリム以来の体制はリーフという国家を一つの型に嵌めることはできたがそれだけだった。ハムーダにしても自らの幼少期と同じように農奴として苦しんでいたものを解放することはできなかった。


 奴隷制度はトゥアレグ族をはじめとするベルベル人の多くの部族の中に残存しており、『ユリュズ(7月)5日運動』は国家統合を優先して社会に内包されていたそれらを解体するどころか、契約労働者と言い換えはしても投票権を与えぬままに"人間"とみなすことで選挙人の人口数に加算するというかつてのアメリカの1787年の妥協そのままの条項が、奴隷あらため契約労働者たちが地方部に多いことを理由に都市と地方の格差是正を名目に維持されていた有様だった。


 だが、近年、リーフ独自の道を目指す動きが少しずつだが出ていた。それが西のギリシア=トルコから始まったエントピア主義を信奉する者たちだった。『ユリュズ(7月)5日運動』の"独裁"を非難し、"放置されたままの悪しき慣行"である奴隷制の解体を叫んだ。


 クリムにしても、ハムーダにしても独裁をしたかったわけでもなければ、悪しき慣行を放置したかったわけでもなかったが、その運動は少しずつ支持を広げていき、ついにリーフの経済崩壊という非常事態による混乱もあって、今回の大統領選挙ではハムーダの対抗馬として新興政党である『リーフ-エントピア党』党首であるモハンド-アラヴ-ベザウドの下で対抗するまでになり、ついには勝利を収めたのだった。


 ハムーダは翌日の演説において、リーフの新たな時代の到来とエントピア主義に基づく新体制移行への協力を呼び掛けた。敗者が勝者に対しておくる儀礼的な意味合いが強いものではあったが、その顔はどこか晴れやかだった。それが大統領という大任を最後には負けたとはいえ果たし切ったためなのか、それとも演説の通りに新たな時代、そして新たな思想への期待感の表れだったのか、真相はわからないままである。


 なぜなら、放送後にハムーダは改革に反対する軍部隊により襲撃を受けて死亡し、彼らが起こした反乱、のちに言うリーフ動乱の最初の犠牲者となってしまったからだった。

史実ではべルベル歴はエジプト第22王朝のシェションク1世の即位を紀元としているのですが、これは1960年代にフランスで教育を受けたベルベル民族主義者がもともとあった農業歴に無理やり付け足したもので、本来の起源はユリウス暦に由来しますが不明です。


作中世界ではフランスと長く対立が続いている点やそもそもエジプトが古代エジプトとのつながりを前面に出すファラオ主義を掲げていることから、そのようなこじつけはできないだろうと考えて明確な紀元は設定せずに暦のみとしました。

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