空想、科学、エントピア(3)
1985年6月14日 ザパドスラヴィア自治州 モラヴィア ホズラヴィチェ
「187年前にここで生まれたパラツキーはチェコという一つの民族ではなく人類全体のことを考え、敢えて帝国に隷属するように理想を説いた。だが、その結果私たちは今も自らの国家の主人となれてはいない。諸君らの中には、一昨年亡くなったリヒタのことを覚えている者もいるかもしれない。あの時私は躊躇したが、今ならばわかる。今こそ理想ではなく現実を、西スラブによるエントピアを目指すべきなのだ」
哲学教授にして詩人でもあるカレル-ヒルシュルは1798年にホズラヴィチェに生まれ、チェコの民族運動に貢献しながらも、偏狭な国民国家ではなく平和的かつ平等な理想主義を前提とはしたものの当初はオーストリア、次にロシアといった大帝国による支配を肯定し、その実現を目指したフランティシェク-パラツキーを引き合いに、大国に支配されたユートピアではなく独立した、|現実的に存在する良き場所を目指すべきと演説を締めくくり、聴衆はそれに拍手で答えたのだった。
ハンガリー革命とドイツ革命およびその余波によってオーストリア=ハンガリー帝国はクロアチアの山間部の亡命政権を除けば、粉々に打ち砕かれたが、それはこの地に住んでいた人々に自由を与えるものではなかった。続いて始まったのはドイツ自由社会主義共和国による圧制だった。国外に逃れたチェコ人たちは独立を求めて動いており、第二次世界大戦勃発後にはまだ10代だったヒルシュルを含む地域内の抵抗運動も活動していたが、大戦終結後はチェコとスロバキアに加えてシュレージェンやラウジッツ、カルパト-ルテニアを含んだモラヴィア王冠領としてロシアとの同君連合を強いられた。
それでもはじめ多くの人々はこれを歓迎した。何しろ国内は末期のドイツによる焦土作戦によって荒れ果てていたため大国の傘下であれば復興に弾みがつくと考えたためであり、また、南に目を向ければ事実上滅びたはずだったオーストリア=ハンガリーが大戦の結果としてオーストリア=クロアチア=スラヴォニアという名で復活しており、それに対する抑えとしての役割を期待した結果でもあった。
そして、ロシアは後者の役割こそ十分に果たしたが、前者つまり領土内の復興については十分な役割を担うことはなかった。これはそもそもロシア国内でさえ、ドイツとの戦いにおいて甚大な被害を受けておりそこからの復興の途上にあったこともそうだったが、それ以上に皇帝であるアレクセイ2世は来るべき極東の社会主義者との戦いに備えて軍需産業を優先していたからだった。こうした姿勢に対してチェコ人たちからは疑問の声が上がったが、アレクセイ2世は無視した。正確には楽観視していた。
熱烈な反共主義者だったアレクセイ2世にとって社会主義政権下における圧制を経験していたチェコの人々は自らと同じように社会主義打倒のために動くだろうと考えていたためだが、チェコの人々にとってはオーストリア=ハンガリーとその後の社会主義ドイツという2つの体制を共に"ドイツ人"による支配というある意味で地続きのものだと認識しており、社会主義という特定の思想との闘いではなく民族主義的な視点で解釈していたため、遠い極東の社会主義との闘いなどはどうでもいいものだった。
こうして、お互いに分裂したままでロシアとモラヴィアは運命の1960年を迎えたのだった。
1960年のロシア帝国消滅に伴って始まったのは混乱だった。とりあえずは駐留ロシア軍と各地方の代表者たちが集まったうえで臨時政府が作られたが、あくまでもロシア帝国として振る舞うことを辞めず、夢想的にも思える"国土奪還"のための戦いを強要しようとするロシア軍に対して代表者たちは反発し、衝突した。
だが、そうした混乱を見て動き出した者たちがいた。1つはオーストリア=クロアチア=スラヴォニアであり、かつての革命によって領地を含む財産を不当に奪われたままいまだ返還されていないとするリヒテンシュタイン家をはじめとした貴族たちがモラヴィア臨時政府を提訴した。そしてもう一つは東のポーランド連邦共和国だった。常々、ロシアを敵視していたポーランドは治安維持を名目に東進していたが、挟撃を恐れたポーランドは同時に西、つまりモラヴィアに対する軍事侵攻を開始したのだった。だが、それは逆にモラヴィアの人々の敵意を燃え上がらせる結果になった。
かつての社会主義ドイツにおいていち早く革命に加わったポーランド人がモラヴィアに対して差別的な扱いをしたことをいまだ覚えているものは多く、モラヴィアの人々はかつてのそうした記憶からポーランドに立ち向かうことを選んだのだった。結果としてこの軍事侵攻がきっかけとなって、モラヴィアに関しては1962年にオランダ王国アーネムで開かれた国際会議によってその処遇が決定されることになった。
もともと、事実上の統治不能地域と見なされていた旧ロシア領土の処遇をめぐる国際会議であったはずのこの会議においてロシア本土に関しては亡命者の保護などを除いて事実上の放置が決定されたのに対して、モラヴィアについてはこの際に結ばれたアーネム協定において自治を認められ、1964年に公式に自治政府が発足した。一応は前世紀のブルガリア南部に設置された東ルメリ自治州に準じた形の自治領という名目だったが、当時の東ルメリ自治州と異なり宗主国であるはずのロシア帝国は消滅していたため、自治といいながらも事実上の独立を勝ち取ることに成功した。
だが、あくまでも名目としては自治であったため、その統治はアーネム協定署名国によって構成されたモラヴィア委員会の同意なくしては進まず、特にモラヴィア委員会の構成国として名を連ねていたオーストリア=クロアチア=スラヴォニアとポーランドの2国は時折、自らに優位な形で問題を解決をしようとした。旧オーストリア貴族への財産の完全な返還あるいは補償、ポーランドへの首都プラハ周辺を末期ドイツ軍による焦土作戦によって完膚なきまでに破壊されたモラヴィアにとって貴重な工業都市であるオストラヴァを含むシレジア全域の割譲などがそうだったが、そのたびにモラヴィア内部の不満は高まっていった。
そうした中でモラヴィアの内部ではチェコ人であれ、スロバキア人であれ、ソルブ人であれ、ロシアやウクライナとも、オーストリアに与する|クロアチアやスロベニア《南スラブ》とも違う西スラブなのだとする考えが生まれた(民族的にはポーランドも西スラブに属する民だったが、極端な自由主義を称揚し、かつての共和国の精神的後継者を自称するポーランド政府がサルマタイ起源説を持ち出していたことを逆手にとって除外した)のだった。
そうした民族運動であった西スラブ主義に政治的あるいは経済的な思想としてトルコ=ギリシア連合のエントピア主義を取り入れるように提唱していたのがヒルシュルの2歳年下の友人であった社会学者ラドヴァン-リヒタだったが西スラブ主義の指導者として名声を得ていたヒルシュルはそれを
『社会主義との同一視によって運動全体を危険にさらすことになる』
として拒絶した。リヒタとヒルシュルは絶交し、そのまま、2年前にリヒタは病没していた。
だが、自治から20年という節目が過ぎてなお、名前こそ西スラブ《ザパトスラブ》運動への"譲歩"としてモラヴィアからザパドスラヴィア自治州に代わっていたが、未だに委員会によって事実上支配されている現状はヒルシュルにとっても耐えがたく、この日、ヒルシュルは公式にエントピア主義を西スラブ《ザパトスラブ》主義の一部として取り入れることを宣言した。
これは、もはや社会主義との同一視を恐れずに、確固たる決意をもって独立を実現するとの決意表明でもあり、西スラブ《ザパトスラブ》が自由主義を掲げるポーランドとも、復古的にも見える階層国家であるオーストリア=クロアチア=スラヴォニアとも違う存在であることを示そうとする動きでもあった。
この日行なわれた、のちに言うホズラヴィチェ宣言によってエントピア主義はトルコ=ギリシア連合にとどまらないものだとされるようになったが、当時はまだ世界の多くの国々は混乱の続くアメリカ情勢を注視しており、それが認識されたのはもう少し先のことだった。
リヒタとヒルシュルは史実でも対ナチ抵抗組織のメンバーでヒルシュルはドイツ軍につかまって処刑され、リヒタはその後生き残って人間の顔をした社会主義を提唱することになりますが、両者とも面識があった程度の仲で親しい友人というのは創作です(そもそもヒルシュルは博士号をとることなく学生のまま死亡)。




