空想、科学、エントピア(2)
1980年4月18日 ブルガリア第三帝国 アドリアノープル
古代ローマ帝国以来の歴史を持つアドリアノープルはオスマン帝国の占領後はエディルネと改名されたが、対オスマン帝国戦争後はブルガリア(当時は王国)領となり再びその名に戻されていた。
そのアドリアノープルではブルガリアに加えてバルカン半島のツルナ-ゴラ《モンテネグロ》=セルビア王国、ルーマニア王国、そしてオーストリア=クロアチア=スラヴォニア帝国によって構成された地域統合組織であるバルカン連盟の会議が開催されていた。オブザーバーとしてアルバニアと旧クロアチア領の地中海沿岸部を支配するイタリア王国も参加したこの組織は文字通り、バルカン諸国の政治および経済の統合を目的としたものだった。
第二次世界大戦中のバルカン経済会議に始まったこの試みは完全な統合こそ、いまだ成ってはいなかったが、それでも地域統合組織としては十分成功にしていたといってよかった。その理由の一つが第二次世界大戦を生き抜いたギリシア=トルコ連合への恐怖だった。彼らは社会主義を捨て去ったといったが、それでも君主制国家主体のバルカン諸国は疑念を捨てておらず、緊張状態が続いていた。
それ以外の仮想敵としては同じく元社会主義国家のハンガリー民主共和国とオブザーバーであるはずのイタリアがあったが、前者に関しては社会主義ドイツによって大打撃を受けたスイス、ボヘミアに代わる工業国家としての地位を確立していたことから依然として工業化が遅れたバルカン諸国にとって、経済面でなくてはならない存在であったことや、ハンガリー自身もその立場を理解しており、かつてのスイスを彷彿とさせる中立国家としての政策をとっていたことから歴史的に因縁のあるルーマニア以外は特に問題にしておらず、逆に後者に関してはイタリア領アルバニアの一部と旧クロアチア領の沿岸部の一部もまた南スラブの地であるとみなすツルナ-ゴラ《モンテネグロ》=セルビアが仮想敵としていたが、逆にバナト及びヴォイヴォディナ地域の領有をめぐりツルナ-ゴラ《モンテネグロ》=セルビアと対立関係にあったルーマニアは及び腰であるなど、それぞれ対応に差があり一致団結してあたれるのがギリシア=トルコぐらいしかいなかった。しかし、そうした背景がありつつもバルカン連盟は決してギリシア=トルコとの本当の戦争に踏み切ろうとはしなかった。正確にはできなかった。
何しろ様々な対立を乗り越えて、ようやくそれなりの統合を実現したところで1960年のロシア帝国の崩壊による難民危機によって大きく混乱(ロシア本土以外のロシア領土としては同君連合という形で組み込まれていたボヘミア王冠領や飛び地であったテッサロニキがあったが、前者については領地の返還を求めるリヒテンシュタイン侯爵家などのオーストリア系貴族との問題やロシア人と現地人との摩擦もあって騒乱が多発しており、後者については租借されていたブルガリアとロシアの関係は友好的だったが、難民すべての居住は不可能であり、逆にここからバルカン半島各地へと離散することになる)した。
また、それ以上に少しずつではあるが進展していた工業化によって増えていた高学歴の若者などからは、どこの国も君主の影響力の強かったバルカン諸国においても政治的権利の拡大を求める声が上がり、そうした内政への不満に加えて各地でくすぶっていた少数民族の問題も爆発した結果、60年代から70年代はどの国も内政面での混乱が続き、外征など考える余地もなく、そしてそうした混乱が落ち着くと遠いアジアでの東インド介入の余波で日清両国の援助によりギリシア=トルコ連合が急速に発展するなどしてことごとく機を逃していたのだった。
そんな、バルカン連盟にとってギリシア=トルコが新たに掲げたエントピア主義なる構想はいくら異なるものだと説明されても、決して警戒心を緩めてはいけない危険思想だった。にも拘らず従来ならば社会主義的と即座に制裁に動くはずの各国は何も動かなかった。エントピア主義が掲げていたものが都市部、農村地帯、そして自然地帯に分けた地域計画による環境保護や国家の適正人口への移行など、世界の流れよりも急進的か逆にそれと真逆の発想によるものだったからだった。
じっさいエントピア主義を称賛したのはアメリカで勢力を増していたバイオテクノクラートの中でも異端的な人口削減を主張していたポール-ラルフ-エーリックなどの人物であって、世界的な技術革新による環境保護という考えからは逆行した人々が主流だった。だがしかしそんなことはバルカン諸国にとっては問題ではなかった。問題は必要な時にどこからも助力が得られないというのが問題だった。
「こうなると、ツラン主義なるものを掲げていたいたほうがマシだったかと」
「そうかな、首相?東洋人のものとはいえど、兵器は優れているのだから…」
「いえ、そうではなく、不和の種をまくことができるということですよ」
「ああ、なるほど」
会議の出席者として訪れていたツルナ-ゴラ《モンテネグロ》=セルビア国王ミハイロは《《元医師の経歴を持つ》》セルビア人首相であるゴイコ-ストイェヴィチの言葉に対し得心が言ったような表情で同意した。ギリシア=トルコの半分を占めるギリシア人はアジアとは何の関係もないからだ。
「それはそうとして、今後はどうあたるべきかですな。とりあえず十分な国力を持ち、ギリシア=トルコとも敵対するアルメニアに対して連盟への参加を要請してどうでしょうか?」
「いやしかし、そうなればせっかくの国内経済がアルメニアに食い荒らされる。おまけに関係の深い南アジアが入ってきたりなどしたらどうする」
「ですが…しかし、この状況で先制攻撃は…」
「そのとおり、さらなる愚策だ。連中に大義名分を与えることになる」
「結局のところ軍備増強を進めるほかはないといったところですな…であれば、陛下、一つ提案が」
「ほう?」
「ロシア難民をコンスタンティノープル国際委員会の管理下に移したうえで、武装化させるというのはどうでしょうか」
「それは、そう上手くいくのか?そもそも、管理下に移したとしても、難民問題を解決できるわけではない。むしろ国際的後ろ盾を与えるとして国内からのさらなる批判を招くことになる。やるならば、そうだな…キプロスだ。あそこならばいくら騒ぎ立てようと"正統なる権利"とそれに対する道義的な責任に基づいた援助で批判をかわすことができる」
「それは…さらに危険では?いまだ統治者はイギリスなのですから最悪彼らの不興を買う恐れも…」
「だが、それ以上に《《我ら》》が本気であると示すことができるはずだ。明日さっそく会議にかけるように」
「…御意」
クレタ島とともにイギリスの占領下におかれ、以後現在に至っているキプロス島にはギリシア=トルコから逃れてきた人々がいまだに数多くいた。トルコ人は対オスマン帝国戦争以来亡命しているオスマン家の帰還を願っていたし、ギリシア人たちに関しては共和派であれば共和制を、王党派であればギリシア王室の処刑によって断絶したグリュックスブルグ家(源流に当たるデンマーク王室は中立国家としての外交政策もあり、ギリシア王位の主張せず、また支持者からのそうした要求も拒否していた)に代わり、一代のみで廃位されたものの自身ではその後もギリシア王を名乗り続けていた初代国王オットー1世と同じヴィッテルスバッハ家による復位を目指していたのだった。
結果的に、翌日の会議で提案されたストイェヴィチ提案と呼ばれるキプロスへの援助案はイタリア王室であるサヴォイア家が伝統的にキプロス王を称していたことから、援助と引き換えのギリシア=トルコ現政権打倒後のキプロス併合をイタリアが主張したことにより、それを盛り込んだ形で修正が行われたもののギリシア系、トルコ系ともに支持するものは少なく、また混乱を望まないイギリスの意向もあって援助は失敗におわったが、こうした決議がなされたことによりギリシア=トルコに対して明確な対抗の意思を示したバルカン連盟はたとえ小規模であっても独自の勢力であるということを内外に示すことにつながったのだった。




