空想、科学、エントピア
1978年12月4日 トルコ=ギリシア連合 ズミルニ=イズミール コルドン地区 評議会議長官邸
古代ギリシア人の植民都市スミルナとして始まり、トルコ人による征服後にはイズミールと名を変えた都市は現在ではその2つを合わせた二重名であるズミルニ=イズミールとなっていた(もっとも"公的には"そう呼ばれるというだけでトルコ系は断固としてイズミール=ズミルニと呼ぶし、公的の場であってもトルコ系の者たちが"うっかり間違えて"しまうことがあったが"単なる言い間違い"として処理されていた)。
そんな、ズミルニ=イズミールはギリシア=トルコ連合の首都であり、そこに集まっているのは文字通りのこの国を動かしている者たちであり、この日そこにいたのはトルコ=ギリシア連合の事実上の首相である評議会議長ミュベッツィル-ギョクトゥナとその唯一の政党である民主社会労働党の党首コルネリウス-カストリアディスだった。女性であるギョクトゥナの就任は近東の周辺各国では驚きをもって受け入れられたが、国内ではさほどの衝撃はなかった。それは対オスマン帝国戦争、メキシコ風邪、そしてその後のアルメニアとの紛争によって建国当初から、絶え間ない戦乱と疫病による男性の不足から国内において女性の進出が進んでいたからだったが、それでも評議会議長にまで上り詰めたのはギョクトゥナが初めてだった。
ギョクトゥナがカストリアディスを呼んだのは国内における西はアナトリアから東は日本、北はフィンランドから南はシャム(シャムの主要民族であるタイ族は日本人と同じく正確な起源は不明とされていたために、いつの間にか"そういうこと"にされていた)に至るまでの諸民族はツラン人種という同族であるという、"ツラン主義"の信奉者たちの取り締まりに関してだった。
「…つまり、各地で"ツラン主義"の信奉者たちが活動している、と?」
「報告によればアンカラ、イェニ-ドリュライオンなどでの活動があるみたい。すぐにでも取り締まらなければ」
「いや、それはまずい。ここで"ツラン主義"を否定してみろ。日清両国からの支援が途絶えることになる。我が国は再び暗黒の時代へと逆戻りだ」
「だからといって、このまま放置すれば国家分裂の危機。だいたい、向こうだって"公的"なものではないはず。だったら問題はずでしょう?」
「いや、だめだ」
国家分裂の危機を招く運動の鎮圧をギョクトゥナは求めた。それはギョクトゥナにとって"ツラン主義"とはトルコ系とギリシア系の融和という統治方針に背き、国民の連帯を引き裂く危険思想であると考えていたからだったが、あくまでも"ツラン主義"が日本国内の運動であり、国内に漢民族という最大規模の非ツラン民族を抱える清国は常にそこから一歩引いていたし、日本政府にしても公的に支援したことなど一度もないことを知っていたからだった。だが、カストリアディスは否定した。
「"公的"でなければいいというものでもない。駐日大使館からの報告によれば"ツラン主義"に代わるものとしてすめら主義が注目を集めているようだし、もとより清国は消極的だった。そうなれば支援はどこに行くと思う?」
「…クウェートの地下組織ね。結果としてアラブ帝国が動揺すればアルメニアを利するかもしれない」
「そうだ。南アジアにも打撃を与えられることだし、フランスと仲たがいした今、彼らは嬉々としてやるだろう」
すめら主義とはツラン主義より少し遅れて発生した学説であり、日本人の祖先はスメラつまり古代メソポタミア文明を築いたシュメール人であり、皇尊という天皇の雅称こそがその証拠であるという突飛な学説だったが、近年では少しずつ支持者を増やしていたのだった。
そのように起源が古かったにもかかわらず、近年まで支持者が増えなかったのは日本政府がこれを抑え込んでいたからだった。なぜならばその対象となるメソポタミアの北部では日本とアラブ帝国の共通の同盟国フランス共和国の影響が強かったし、南部ではイギリスの影響下にあるクウェートが半独立状態を維持していたが、"対立"はともかく"戦争"についてはドルジェール政権下でのアラビア紛争で懲りていたフランスは余計な火種を持ち込まぬように日本に対して釘を刺していたためであった。
だが、今や状況は変わっていた。日本とフランスの関係は東インド介入による国際情勢の変化により断絶し、日本の一般大衆の間でもそうした変化もあって近東地域に注目が集まっていたこともあり、すめら主義に関する著書が出版されたし、日本政府もかつてのように抑制しようとはしなかった。さらに言えば、クウェート領内のメソポタミア南部に暮らすアフワリと呼ばれ、差別されてきたアラム語の影響の強いアラビア語方言を話す少数民族たちの間では、このところ首長などのアラブ系やイギリスに代わって今や経済を支配している南アジア系との格差是正や政治的な権利の平等を求めてデモなどを行なっていたが、それだけでなく独立を目指す、過激な派閥においては、自らがアラブ人と異なる"証拠"として、海を越えた、遥か彼方の"同胞"である日本の存在が喧伝されていた有様だった。
「それでも先ほども言った通り国家分裂の元凶を見過ごすわけにはいかない。私としては"ツラン主義"は取り締まるべきだと考えている」
「しかしだな…」
「もちろん、我が国は友邦である日清両国との対立は望まない。だからこそ、両国内の農民運動などへの支援はこれまで通り一切行わない。けれど、それは国家分裂の危機を容認するものでもない」
「だが…」
「…それに、そろそろ新しい道を歩んでも、と前々から思っていたの」
「…それは社会主義に戻るということかね。やれやれ、イェニ-ドリュライオン建設のための借款も返済し終わっていないのにか…それで名前は?」
「名前?」
「主義主張に名前は必要だし、馬鹿正直に社会主義ともいえまい」
イェニ-ドリュライオンはかつてのエスキシェヒルが対オスマン帝国戦争の折にドイツ帝国の使用した化学兵器によって壊滅させられたのちに作られた街であり、エスキシェヒルに対してトルコ語の新しいとかつてのビザンツ時代の名称を組み合わせた名の新都市として再建されていた。
「…そうか、イェニ-ドリュライオン」
「なんだって?」
「エントピア。偉大なる国家建築家の言葉にならいましょう」
イェニ-ドリュライオンは国際的なコンペによって都市計画案が選ばれたが、そこで激賞されたのがコンスタンティノス-アポストロウ-ドクシアディスだった。ギリシア人建築家のドクシアディスは人間中心の都市計画を提唱し、その人口規模に応じた余裕ある都市計画を目指した。ドクシアディスは最終的に人類の人口は500億に増加すると予想しその状態の都市をエキュメノポリスと名付けていたが、その達成を見ることなく2年前に亡くなっていた。
そんなドクシアディスが提唱した概念にエントピアというものがあった。これは空想の場所と悪い場所の中間に位置する場所のことであり、現実的に存在できる良い場所といった意味だった。もちろん、ドクシアディスは都市計画を含めた建築的な意味で使っていたのだがギョクトゥナはそれを政治的な意味で使おうと考えたのだった。
こうして、空想の場所から科学に移行した結果、多くの蛮行とともに自滅したはずの社会主義は、|現実的に存在できる良い場所を目指す運動として、新たに生まれ変わることになるのだった。




