ヘンリー-ジョージの鏡(6)
1998年2月5日 大清帝国 南京 玄武区 総理大臣官邸
そこは、北清事変の混乱が収まった後の1905年から1998年現在に至るまで大清帝国の中枢部だった。
かつて南京に首都が移る以前から置かれていて、初代総理官邸となった江南総督府の建物は一部が保存されているのみでほとんど取り壊されていたが、それでもそこが清国の中心であるという事実は変わりなかった。
「はぁ…」
そんな中でこの日、総理大臣を務める蘇鋳はこの日何度目か分からない溜息を吐いた。
そのきっかけは海を隔てたアメリカ合衆国からの外交書簡だった。内容は清国との平和条約の締結に関するもので、旧極東の残骸の上に作られた北アジア共和国すら未承認であるのは、清国でのアメリカへの恨みがいかに深いかを示していたが、それでも進行中の対テロ戦争のことを考えるとそのまま放置するというわけにもいかなかった。
すでに、対テロ戦争の影響は世界的に広がっており、戦闘地域こそ"テロリスト"が潜伏しているとされた旧フィリピンとその南部、それにその故郷であるとみられたアラビア海沿岸部に留まっていたが、報復テロは世界中で日清両国をはじめとする東亜協同体加盟国の企業または一般国民に対する攻撃という形で全世界規模で行われていた。
さらに言えば、戦闘地域における攻撃にしても決して成功したとは言えなかった。戦闘地域には攻撃開始後からしばらくして"義勇兵"の姿が見られるようになっていた。こうした"義勇兵"は公式には戦闘地域における各国企業の資産保護のための傭兵だったが、その実態としては日清両国の言う"テロリスト"とともに動くことはなかったとはいえ、明らかな敵対行為を行っていた。要するに"テロリスト"に味方するわけではないが、日清両国をはじめとする東亜協同体の躍進を好ましく思わない諸国が送り出した、或いは勝手に駆け付けたロシア内戦時の反ユダヤ主義者によって構成された国際旅団のような者たちだったが多くが元軍人であり、無視できぬ損害を与えることもあった。
だが、一方で欧州諸国あるいは南アジア連邦の影響下にあるアフリカから東南アジアも含めたインド洋地域への進出に失敗したために東アジア市場を求めるアメリカは"まやかし戦争"終了後の軍縮によりそれなりの痛手を被っていたにもかかわらず傭兵行為を厳しく禁止していた。そのことは、欧州とは違うというある種のメッセージととらえることもできた。だが、かつての苦い記憶から清国が関係改善へと動くことは決してなかった。儒教の聖都たる曲阜への化学兵器攻撃をはじめ台湾府への上陸作戦の後に行われた住民の虐殺と"アメリカ化政策"そして現在は北アジア共和国と名を変えた旧極東への支援などとにかく対立事項が多すぎたという過去の記憶が足を引っ張っていたのだった。
こうしたことからアメリカ生まれのジョージズムを信奉する大日本地公党が政権を獲得した際には日清両国の間では未だかつてないほどの外交的危機となったほどだった。
もっとも原因はそれだけではなかった。
清国において第二世界大戦後の経済復興が進む中で、戦中より経済復興の構想を練り、戦後は実際にその指揮を任されていた政治家で哲学者でもある張君勱はドイツの哲学者にしてノーベル文学賞受賞者でもあるルドルフ-オイケンに師事していた経歴を持ち、張はその息子であるヴァルター-オイケンの提唱した秩序ある資本主義自由経済を清国に導入しようと考えた。張がヴァルターの思想に引かれていたことに加えて相次ぐ友人たちの社会主義への転向(中でも、アルフレート-ミュラー=アルマックのオイケン批判は激しいものだった)によって大きな精神的打撃を受けて、張を頼って清国にいた、類まれな才能を持つかつての師の息子に活躍の場を与えたいという個人的な思いがあったからだった。
だが張は清国に秩序ある資本主義自由経済を導入するにあたって、ヴァルターの言うような理論だけでは必要な秩序をもたらすには足らないと考え、パン-アジア主義の勢いに乗ろうと考えていたこともあり、完全競争の土台としての国民配当制度(これは国民配当の理論的基礎である社会信用論において、常に価格は賃金に外部費用を加えたものからなる為、自由主義的経済学の言う完全競争は成り立つことは決してないとされていたことを考えるとある意味皮肉であった)の実施を訴えた。結局、それに反発し、自身の理論に固執したヴァルターと張は絶交することになってしまったが、それでも清国においては張の路線をもとに経済改革が行なわれたという歴史があった。
しかし、そうした政策は工業などの分野に留まり、昔からの地主層に支配された農村部では完全競争の実現どころか、国民配当の存在を理由に今まで以上に絞られ続ける日々が続いていた。そのため、ジョージズムがそうした状況の打開策として注目されており、かつての日本同様に清国も警戒していたという事情があったが皮肉にも、その関係改善の舞台となるはずだったカタガルガン共和国において発生したテロによって共通の敵を見つけた日清両国の関係は急速に改善していた。
それでも、やはりアメリカとの関係改善というのはかなり勇気のいる決断だった。アジアにおける反米感情がどれだけ強いかは2年前、訪日したアメリカ大統領が日本側の警備要員に銃撃された事件でもわかるとおり相当なものだった。もっとも日本の場合は第二次世界大戦への参戦後は艦隊保全を貫いており、せいぜい通商破壊"程度"しかしていなかったのにいきなり北は旭川から南は横須賀までの軍事施設がある都市とはいえ民間人も暮らす都市に化学兵器を撃ち込まれるという体験が影響していたのだが。
とはいえ、蘇鋳の側に切り札がないというわけでもなかった。
60年前に味わった化学兵器という科学の力による鉄槌になすすべもなかった屈辱を日清両国は決して忘れず、日夜研究を続けた結果として両国は彼等なりの"最適解"に辿り着いていた。忌むべき化学兵器ではない。そういう心情的反発を別にしてもその種の兵器に対する対処は世界中で試みられていたからだ。
両国の"最適解"、それは欧州でキリスト教的価値観から禁じられた研究である(イスラーム圏でもそうであるため正確にはアブラハムの宗教的にと言いたいところだが、皮肉にも日清両国やその両国以上にユダヤ人を積極的に受け入れていたシャム王国に居住するユダヤ系科学者は数多く研究に参加していた)遺伝子研究の産物としての新たな生物兵器だった。既存の生物の免疫系を回避する鏡像生命体の合成などによる新技術に基づいた生物兵器は、日清両国の新たな切り札だった。
この切り札がある限り、清国が完全にアメリカに対して劣位にあるということはなかったし、そうであれば交渉をうまく進めることも可能ではないか、最終的に蘇鋳はそう考えを改めた。
結局、清米両国の平和条約の締結はなかったが、それでも関係は劇的に改善していくことになるのだが、それはアメリカの周辺国に無視できぬ影響を与えることにつながったのだった。
張君勱がルドルフ-オイケンに師事してたのは史実ですが、そのあとベルクソンとか割とフラフラしてオイケン一筋だったわけではないし、ヴァルターの方とは特にかかわりもなく、むしろ社会民主主義者になってたりしてます。とはいえドイツ愛は変わらなかったみたいですが。
ミュラー=アルマックは史実でもナチ党に入党してたし革命後に転向してもそこまでの違和感がない…




