東インド介入(7)
1977年1月15日、東インド諸島の片隅にある島国であるココス諸島で突然爆発が起きた。その様子は島内のどこでも観測できるほど大きなものだったが、一番の問題はそこではなかった。問題はここがイギリス領であり、爆発したのもまたイギリス軍の施設であるという点だった。
南国に自分だけのハーレムを築くことを夢見て無人島だったこの島に入植した初代入植者アレキサンダー-ヘアを追放したション-クルーニーズ-ロスの子孫が王を名乗った後にイギリスの保護下に入って、ココナッツ栽培などで何とかやってきたココス諸島だったが、5年ほど前では東インド情勢の緊迫化に伴い多機能三次元電波探知機などが設置されていた。
北のクリスマス諸島にも同じものが存在していたが、それと合わせてこの多機能三次元電波探知機がイギリスの国家戦略上重要なものであるのは事実であり、数少ない島民たちの誇りでもあった。
しばらくして発表されたイギリス政府の公式調査結果によると爆発の原因は日本陸軍航空隊が防空網制圧に使用している対電波探知機用の空対地誘導弾であり、東インド諸島での作戦の際に発射されたものによる誤射ということであり、もちろん日本側はすぐに否定したのだが、これを受けたイギリスの世論は沸騰した。もともとイギリス国内では東インド諸島連邦に対する同情論が強く、南アジアの介入に関しても好意的な意見が強かったためだった。
だが、それを受けた日本側の動きは鈍かった。
外務省があまりに突然の動きに対処しきれなかったというのもあるが、日仏分裂から日が浅いということもあり、イギリスが動けば、対抗心を燃やしたフランスが当然動くだろうという希望的観測もあったとされるが、その希望はすぐに打ち砕かれた。
フランスはすぐに不介入を宣言したのだった。
これには日仏協商の関係で第一次そして第二次大戦と血を流した歴史を持つ日本の側は怒り狂ったが、フランスとしてはそれまでの、大陸ヨーロッパではフランスとイタリアしか保有していなかったロケットや軌道施設を含む宇宙技術の供与や自治領と名を変えた植民地への財閥たちの市場参入の承認、対アメリカを見据えた国土要塞化に必要な莫大な費用の融資などで十分に恩を返したと考えていた。
それよりフランスにとっては、関係が冷却化した"かつての"同盟国よりも、産業化にしたがってアメリカのコントロールを離れつつあるリベリアがフランス植民地の"解放"を目指す北進か、イギリスのナイジェリア自治領への西進のどちらを選ぶかわからない以上アフリカ方面に力を入れる必要があったため、ともにリベリアに対処するイギリスとの緊張を高めないためにも不介入を選択したのだった。
フランスの不介入を見た日清両国としては"同胞"の解放をあきらめる気はないが、かといってこのままでは手詰まりとなるのは目に見えていたため、別の手を模索した。具体的には友好国ではあっても未参戦を貫いてきたシャム王国への参戦要請だった。
長らくシャム政府としては国内で反南アジアの動きが盛り上がるのを歓迎する一方で、それを現実的な政策に結び付けることを拒否していた。シャム経済はイギリスとフランスの緩衝国であったという歴史から現在でも南アジアとフランスの2つの経済圏に取り込まれており、日清両国と南アジアと敵対していて、フランスが距離を置き始めた以上、深入りをして両国との経済的関係を捨てるという選択をできなかった。それでもなお日清両国との友好関係を保ち続けていたのは全方位外交を標榜してきたシャムとしては日清両国との関係もまた捨てきれなかったためだった。
そこに目を付けた、日清両国はシャムを自陣営に引き込むべく直接的な手を用いることにした。それはドゥシット-ターニを利用することだった。ドゥシット-ターニとはシャムに存在していた議会の一つであり、各国における議会にあたるものだったが、各国のものとは違う特徴があった。それは国内から抽選で選ばれた代表者が専門家などの説明を受けて議論をし、最終的な決定を下すというものだった。
ドゥシット-ターニの始まりは1919年にいずれ国会の開設を行おうと考えていたラーマ6世がドゥシット宮殿に模擬議会を設置したことだった。その後1922年に国会の早期開設を求める立憲派のクーデター未遂を鎮圧されると、そのままクーデターが成功していれば虎部隊と同じように国王の道楽として廃止されていたであろうドゥシット-ターニは存続した。あくまでラーマ6世はシャムに国会は必要ではあるが時期尚早と考えていただけだったからだ。しかし、1925年にラーマ6世が道半ばで病死すると跡を継いだラーマ7世はラーマ6世の路線を引き継ぎつつ基盤を固める必要に追われたが、それこそがこのような複雑な制度の誕生のきっかけとなった。ラーマ7世の即位後すぐに問題となったのがそれまで通りの権力を保ちたい王族たちとかつてのようにクーデターこそ起こすことはできなかったが、依然として活動を続ける中で勢力を盛り返しつつあった立憲派との間で板挟みとなった事だった。
王族たちは1922年のクーデターをもとに『無知な民衆に政治を任せることはできない』と言い、立憲派はそれに反発を強めていったが、イギリスへの留学経験を持つラーマ7世はそうした立憲派の声を無視し続けることはやがて、ドイツで起こった社会主義革命のような事態に直結しないかと恐れた。そして悩んだラーマ7世が下した決断が、ドゥシット-ターニを模擬議会ではなく、無作為に選ばれた国民が専門家から正しい知識を授けられたうえで判断するという形式により、王族たちの主張するような『無知な民衆』の政治への参入を回避し、一方で立憲派の主張するような単純な議会を作らないことにより、数の暴力で押し切られることを回避することだった。
この試みは日本ではシャム式民本主義として知られるようになっていたが、日清両国はそれを逆に利用した。つまり国民に助言する立場である専門家たちに対して特務機関を使った大規模な工作を行ったのだった。こうして"正しい知識"を与えられた人々がドゥシット-ターニにおいて対大マラヤおよび南アジア連邦への宣戦の必要性に関する決議を採択、国王であるラーマ8世に上奏したことによりシャム国内では参戦論が盛り上がり、かつてのシャム領土であるケダなどを奪還すべきという論調が盛り上がることになったが、意外なことに優秀なことで知られるイギリス諜報部はこれを放置していた。これは当時イギリスとしては南アフリカでの三つ巴の対立への対処に忙殺されていたためそうした工作に対処できなかったとされている。
こうして、シャムもまた東インドへの"介入"を模索し始めていたが、工作において出遅れたとはいえ、黙って敵が増えることを放置するほどイギリスという国家は甘くはなかった。
ドゥシット-ターニの設立の経緯に関しては史実ですが、その後については完ぺきな創作です。




