番外編、私はオデット
ご無沙汰しております。(いつもこればかりで恐縮です)
時系列は本編「決意」からあたりの、どうしたら政敵を葬り去れるかと思い悩むアーラです。
「飴の目」はゼファですが、今回はジルが登場します。
どうしようもない気分に陥る日が、月に一日や二日はあるものだ。
自身が設けた目標すら達成できず、無力さにさいなまれる。役立たずと自分を罵倒し、罰したくなる。
不穏な考えがひたひたと、聞いたこともない死神の足音を思わせて忍び寄り、影色の指先で不安をあおるのだ。
時折、夢想する。
剣で己れの胸を貫いて死を招くのは、なんて甘美なのだろうと。
愛する人を殺すことができずに短剣を抱き、船べりから身を投げた人魚姫や、敵に無様な姿をさらすまいと裾を縛り、短刀で自害した戦国や幕末の姫君たちのことが思い浮かぶ。
それらはとても美しくて、悲しくて切なくて――あこがれてやまない。
けれどそれは、あこがれにすぎないと知っている。
可憐で一途な人魚姫がそうするから美しいのだし、力持つ者の子女として生まれた姫君だからこそ、選ばざるを得なかった結末であり、哀切なのだと。
――私が自分の胸に剣を突き立てたところで、自分が痛い思いをして、見苦しい死体が転がるだけ。
見目が可憐でもなければ、落城の姫君のわけでもない。
誰も同情などしないし、美しいなんて感想はついぞないだろう。
――ただ、逃避にはなる。
無様な亡骸を片づけなければならない気の毒な誰かのことを思い遣る必要がないのなら、とりあえず、「私」が「私」について思い悩む機会を消滅させられるのはたしかだ。
己れの無力さ、足もとの不確かさ、大切な人たちに被らせる迷惑――……そういったあれこれにさいなまれることは、なくなるのだ。
――胸を突くのと、ここから飛び降りたあとの死体では、どっちが見苦しいだろう?
……そりゃあ、胸を一突きのほうが、片づけは簡単に違いない。実行は、飛び降りるほうが簡単だけれども。
推理小説が好きで読み漁るうちに、知らず知らずの間に、死に至る手法のバリエーションと死体のバリエーションが知識として積み上げられていった。それも善し悪しで、重力や衝突の衝撃による物理的な結果や、生命活動が終わると筋肉が弛緩してどうなるかなど、美しくない現実に想像がおのずと及んでしまう。
「うちの姫君は、いったいどんな物騒なことを考えているのかな?」
心臓が、ドリフト走行のような無茶な音を立てた気がした。
パワーショベルで夢の残滓ごと現実世界へ掻き出さされた心地で、アーラは血のつながらない兄を見上げた。
「ジル――私、そんなに物騒なこと考えてる顔してた?」
「今にも身投げをしそうではあったね」
――ああ。
「うん。半分正解」
ジルフィスの観察眼に感心しつつも、人けのない窓辺で風に吹かれているさまは、誰の目にも身を躍らせそうに見えるものかもしれないとも思う。
「じゃあ、もう半分は?」
「教えなくちゃならない義務はないでしょう」
「俺は心配してるんだよ?」
「知ってる。だから、話したくないの。……せっかく、勇気をかき集めていたところだったのに」
「余計な勇気を奮おうだなんて、ついぞ思わないでおくれよ」
何のための勇気をとは、ジルは訊かなかった。
「そうだ。オフェーリアという選択肢もあるわね」
「お、おふ……?」
「ううん、ひとりごと。美しく哀しい姫君の名前」
絵画的な美しさで言えば、花と水に抱かれて永眠るオフェーリアの死にざまは随一だ。――オフェーリアその人が美しいからこそでは、あるけれど。
「で、兄さんは私に何の御用?」
「御用はないさ。ただ、姿が見えなかったから探しただけで」
アーラはジルフィスをまじまじと見返した。
「君の頭脳はめまぐるしく忙殺されていて、俺の入りこむすきまもないかな? そうでなければ、物語りをしてくれたらうれしいよ。うるわしの姫君の話でも」
アーラを見つめる蜂蜜色の双眸は、いつも――今も、甘やかであたたかい。まさに見守る目であり、その両腕は、さまざまなものからアーラを守ってくれようとするだろう。
そのまなざしに、腕に、己れのすべてをゆだねることができたならどんなに楽だろう?
数々の童話の姫君は、さしのべられた騎士や王子の腕に運命と命をゆだね、二人は幸せに暮らしました……の大団円に至る。
しかし残念ながら、アーラは童話の姫君とはちがって、幼くも世間知らずでもないのだった。
自身の“すべて”を、どうしたらゆだねることなどできるだろう?
白雪姫も眠り姫も、王子がクーデターによって王座を追われたら、どうするつもりだろう? 共に戦うつもりなのか、共に逃げるつもりなのか――それとも、王子がこうしよう、ああしようと言うことにただ従うだけで、考えることすらしないのか……。
アーラは、考えてしまうのだ。
自分はどうすべきか、自分に何ができるか、何をすることが最善なのか。
――こんなにも無力な私に、いったい何が変えられる?
考えても答えが見つからない時が募れば募るほど、甘美な逃避に手招きされる。
だが今このとき、ふと、物語が羽ばたきとともに降りてきた。
「……では、オフェーリアではないけれど、美しい姫君の話をしましょうか」
あるとき王子は、湖で憩う美しい白鳥の群れを見つける。とてもみごとで大きな白鳥だったので、水鳥狩りを行おうとした王子だが、日没とともに白鳥たちに異変が起こった。優美な娘へと姿を変えたのだ。
多くの白鳥たちに守られるようだった大きな白鳥は、やがてひときわ美しい娘に化身した。王子は名乗りを上げ、娘たちになぜ白鳥の姿をしていたのかたずねた。
「わたくしと侍女たちは、魔王の呪いによって日中は白鳥の姿なのです。太陽がしずむと、ようやくもとの姿ですごすことができるようになるのです」
気品あるその娘はオデットと名乗った。オデット姫と王子は恋に落ち、王子は、どうすれば彼女らの呪いを解くことができるのか問うた。
「多くの人々の前で、わたくしとの愛を誓ってくださいませ。愛が認められれば、わたくしと侍女たちの呪いは解けるのです」
オデットこそが運命の相手だと直感した王子は、次の舞踏会に来てくれるようオデットにたのんだ。そして、国内外から招かれる大勢の前で結婚を誓おうと約束した。
オデットも侍女たちも手に手を取り合って喜んだ。
そして舞踏会の夜。特別美しく着飾ったオデットの姿に、王子は目を奪われた。
白鷺の羽根のように優美なその手を取り、壇上に導いて、王子は声高らかに宣言した。
「わたしはこの姫君と結婚します!」
そのとき、広間の扉から駆けこんでくる者があった。衛兵に止められながらも、彼女は声のかぎりにさけんだ。
「お待ちください! その人はわたくしではありません!」
たちまち不気味な笑いが舞踏会の広間にとどろいた。
「かかったな王子よ! 貴様はオデットとではなく、我が娘との結婚を誓ったのだ!」
窓を割り飛び込んできた巨大なコウモリは魔王となってマントをひるがえし、王子が抱き寄せていたオデットと思われた姿は、美しいがオデットとは似ても似つかない別の女性へと変わっていた。
「わたくしは魔王の娘オディール。王子様、なんて愚かでかわいそうなお人」
白鷺の羽根のように真白い指が王子の頬を撫でた。
オデットは涙を流し、広間を飛び出した。
これでもう、呪いが解けることはない――。
侍女たちに申し訳なく、王子がオディールの魔法を見ぬいてくれなかったことが悔しく、とても生きていられない気持ちで胸が張り裂けそうになったオディールは、断崖から湖へと身を投げた。
と同時に、その断崖に早駆けをした王子がたどりついた。
「オデット! 私は間違いを犯したが、この愛はあなただけのものだ。断じて魔王の娘に誓ったわけではない!」
王子は落ちゆくオデットに追いすがるように身を躍らせた。二人はもろとも、銀にかがやく湖へと飲みこまれた。
侍女たちは涙にくれた。呪いが解けないことはもちろん悔しいが、大切にお守りしてきたオデット姫が身を投げてしまったことが、何より悲しかった。
それでも失われたものを嘆くにふさわしい夜は立ち退こうと裳裾を引き、夜明けはやってくる。
投げかけられた太陽の一すじに、侍女たちは白鳥に変わる時間が来たことを知った。しかしどれほどたっても、涙にぬれた指先はそのままで、羽根に変わりはしなかった。
おどろいて顔を上げると、オデット姫と王子が、おたがいを支え合いながら岸辺に立っていた。天が二人の愛を認め、魔王の呪いは解けたのだ。湖にやさしく抱きとめられた二人は、怪我ひとつなかった。
白鳥の娘たちは歓声を上げ、オデット姫と王子の愛を祝福した。そして皆はいつまでも幸せに暮らしたという。
「これは、『白鳥の湖』というの」
ジルフィスは考えるように顎に指をそえた。
「幸せに暮らした……というのは、そのオデット姫が王子の妃になれたという意味なのかい? それとも、王族としての務めを放り出した王子が狩猟の腕か何かで食い扶持を稼ぎながら、つつましくも穏やかに暮らしたということかい?」
「そこまでは、私が読んだ絵本には書かれていなかったから。物語を受けとった人が、自由に想像していいと思う」
ジルフィスは納得しがたいような面持ちをしていたが、アーラは窓の外を見やり、想像した。
オデットが心から王子を愛していたならば――自分に従ってくれた侍女たちの呪いが解けなかったことは心残りだろうが――魔王の娘と間違えられたことも恨めしかっただろうが、身を投げたそのときには、王子がオディールと幸せになってくれることを願ったのではないかと思うのだ。
自分がいなくなった世界にも朝は来て、太陽は昇り、王子は生きる。王子が幸せに生きてくれる未来を祈りながら、ただ自分にはそれを見届けられるだけの自信がなくて、逃げ出し、消えてしまおうと思ったのではないか。
――私はオデットだ。ゼファが幸せになれるなら、それを祈りながら、ヴァーディスもろとも藻屑になれる。
ヴァーディスを消すならば、心中に見せかけて身を投げるのが、手っ取り早く確実だ。
「アーラ」
名前をよばれて、思考が引きもどされる。
「やっぱり、物騒なことを考えてる顔してる」
両手のひらで頬を包まれ、蜜色の瞳に見つめられた。
「筆頭騎士の妹というのは、物騒なことも想定しなくてはいけない立場ではなくて?」
ジルフィスの目もとが引きつる。アーラは頬に添えられた彼の手に、なだめるようにとんとんとふれた。皮肉を言ったつもりもなければ、困らせたいわけでもないのだ。
「さあ、休憩は終わり。私は執務室に行ってくるわ。ゼファが拗ねているといけないから。」
本当は、アーラがゼファに会いたくてたまらなくなったのだけれども。