第9話 間に合うために
翌朝、谷の空は薄い雲に覆われていた。朝露を含んだ土が靴底にまとわりつき、畑の向こうでは刈り残された草が風に伏せている。夜のうちに見張りから届けられた報告を受け、調査隊は早くから集会所に集まっていた。
机の上には、昨日の地図が広げられている。結界の石の位置、検査で応答の遅れが出た区間、村人から聞いた路地の通り方。その余白に、森で見つかった新しい痕跡が書き足されていた。
「足跡だけで数は決められない」と隊長が言った。「だが、木を折ったものがいる。谷の外縁へ近づいた可能性が高い」
「結界の反応も、昨夜の確認で少し揺れました」と現地術者。
「同じ場所?」とノア。
「昨日の遅れが出た区間の近くです。ただ、毎回ではありません」
ノアは地図を見た。森で何かが通ったこと。結界の反応が揺れたこと。この二つが同じ原因によるとは、まだ言えない。しかし、両方が重なる場所で住民が暮らしている。
「危険が高そうなのは、このあたりだと思う。理由は三つあって……」
話し始めて、ノアは言葉を整えた。目の前にいるのは、もう一度同じ説明を聞きたい研究者だけではない。いま配置を決める人々だ。
「結界の遅れが二度出た区間と、森の痕跡が近い。それに、村人が使う細道がここを通る。まず、通行と見張りを見直したい」
隊長は地図の上に指を置いた。
「分かった。外側の見張りを厚くし、内側の通路は退避用に空ける。結界の維持は術者たちに任せる。こちらで戦う場所を決める」
ノアはうなずいた。自分の推測だけで、隊の動きが決まるわけではない。森を見てきた護衛と、結界を守る術者と、道を使ってきた村人の知識が、一枚の地図の上に集まっている。
「人を先に動かそう」と隊長は言った。「危なくなってからでは、荷物も家畜も連れて逃げられない」
*
昼前、村の広場には荷車が二台並んだ。危険区間に近い家から、年配者や子どもが、当面必要な荷物を運び出している。先に移動するのは谷の奥にある比較的安全な建物で、村の人々が手分けして場所を整えていた。
ノアは荷物を抱えた人の横を歩きながら、見慣れてきた村の景色を見た。昨日は外に干されていた布が、今日は畳まれて籠に収まっている。戸口に置かれていた桶も軒下に移され、空になった窓には板があてがわれていた。
まだ魔物は来ていない。だが、人が移るだけで、道の音が変わっていく。いつもは聞こえる挨拶が減り、車輪の軋む音ばかりが残る。
「調査隊が来たせいで、こんなことになったと思われないかな」
ノアが小さく言うと、隣を歩くリネットが顔を向けた。
「避難を決めたのは、隊長と村の方々です。何も起きない可能性はあります。でも、何か起きたあとで動くよりはいい」
「そうだね。外れる予測なら、そのほうがいい」
「ええ。何も来なければ、皆さんが戻るだけです」
リネットは先の家へ目を配り、道の端へ寄るよう合図した。荷車が通る。車輪の縁には、昨夜の雨で柔らかくなった泥がついていた。
あの家畜小屋の住民も、荷物をまとめていた。木の留め金を直し終えた小屋の前に、使い古した革紐と小さな道具箱が置かれている。住民は何度もそれを見ては、家の中へ戻っていた。
「何か、持っていきたいものがある?」とノアが声をかける。
「……あの箱です。家畜の世話に使っていたもので、置いていくのも……」
「今なら、護衛の人に頼んで取りに戻れるかもしれない。隊長に相談してみよう」
隊長は場所と必要な時間を聞き、護衛をつけて一度だけ取りに行くことを認めた。ノア自身は同行しない。住民は護衛と小屋へ向かい、箱を抱えて戻ってきた。
「これで全部です。もう戻りません」
「うん。それなら安心だ」
住民は箱を抱え直した。軽そうに見えたが、長く使った道具が入っているのだろう。抱える腕には力がこもっていた。
ノアは、その重さを自分では測らなかった。
広場には、小さな子どもを連れた住民もいた。子どもはお気に入りらしい木の玩具を両手で抱え、荷車に積み上がる家財を不安そうに見ている。大人が「すぐ戻るよ」と声をかけても、何度も自分の家のほうを振り返った。
ノアは同じ方向を見た。昨日まで煙の上がっていた屋根が、今日はひっそりしている。屋根も扉もそこにあるのに、家としての何かが少し抜け落ちたようだった。人が安全な場所へ移れば、それで解決するわけではない。移った先で困ることも、戻るときに必要なものもある。
「荷物を置く場所は足りる?」
近くにいた村人へ尋ねると、毛布がまだ足りないと分かった。護衛が別の建物から運べると確認し、村の人たちが受け取りに向かった。ノアは邪魔にならない位置で荷の数を数え、どの世帯へ届けるかを紙に控えた。研究ではない。それでも、今ここで必要な仕事だった。
*
避難路の確認が終わると、護衛たちは村の外側に障害物を運び始めた。板を重ねた低い柵、横向きに置く荷車、道幅を狭めるための木の枠。魔物を一度で止めるものではない。急に走り込まれたとき、ほんの少しでも速度を落とさせるためのものだった。
板を運ぶ村人の手は、働き慣れた動きだった。束ねた縄を引く者がいて、別の者が木の端を持ち上げる。地面が傾いた場所では車輪が思いがけず滑り、護衛が肩を入れて押し戻した。
「ここ、塀の影になるね」
ノアが指したのは、昨日、家畜小屋からの道を教わった角だった。
「向こうから来るものは、曲がるまで見えない。内側の見張りからも同じだと思う」
「分かった。側面の見張りを置く。ただし、そこに一人きりで立たせはしない」と隊長。
村人が普段使う道のため、全部を塞ぐわけにもいかない。隊長は障害の位置を少しずらし、住民が通る余地を残したまま、危険な方向への見通しを作った。
「こっちを塞いだほうが、強くないですか」と村人が尋ねる。
「強いが、その向こうには抜け道が一本しかない」と隊長。「ここを完全に閉じると、遅れて戻った者が逃げられなくなる」
板を持っていた村人は周囲を見回し、納得したように頷いた。皆、守るための仕事をしている。けれど壁を丈夫にすることと、人が逃げられることは、いつも同じではなかった。隊長は護衛を歩かせて経路を実際に確かめ、狭い角には荷物を置かないよう指示した。ノアもその後ろを歩き、見通しの変わる場所を紙に書き足した。
「完成しても、必ず止められるわけではありませんよ」とリネット。
「分かってる。これは壁というより、時間を作るものだね」
「そうです。逃げる人、合図を出す人、盾を構える人。その時間を、少しずつ」
ノアは運ばれていく板を見つめた。
以前、襲われたときのことを思い出す。敵の刃が迫ると分かっていたのに、自分の身体は間に合わなかった。考えたことが動作になるまでの、ごく短い時間。その間に、取り戻せないものがあった。
だからこそ、今は先に人を動かし、先に道を決める。自分が速くならなくても、全員で間に合わせる方法はあるのかもしれない。
*
午後、リネットはノアを防衛線より後ろの広場へ連れていった。宿と近いが、塀に囲まれており、隊長が観測位置として許可した場所だった。逃げるときの方向も決められている。
「ここがノア様の担当位置です。前へ出ないこと」
「うん」
「危険を見つけたら、何を言います?」
「状況を……」
ノアは途中で止めた。
「右、左、撤退。短く伝える」
「そのあと、必要なら場所を付け足す。聞こえないときはどうします?」
「決めた手順どおりに動く。伝わるまで待たない」
「合格です」
リネットは護衛と位置を入れ替え、塀の角からこちらが見えるか確認した。ノアは片手を上げてみる。明るい場所では見えるが、夕方に影が伸びれば合図は分かりにくいだろう。
「昼と夜で、見え方が違うね」
「ですから、笛と旗も使います。何か一つに頼り切らないように」
ノアはそこで、掌の上に小さな光を灯した。昨日より安定している。けれど、足をずらすと明かりは小さく揺れた。
「布をかけて、見えるか試したい」
「遠くへ光を飛ばすつもりではありませんね」
「うん。近い場所の合図だけ。危なければ使わない」
暗い布をかざすと、光は外から見えなくなった。布を外すと再び現れる。向かいの護衛からは、昼間でも手元の明暗が分かったという。ただし、体の向きや物陰で見えなくなることもある。
「予備にはなるね」とノア。
「ええ。でも、もし消えてしまったら?」
「笛に切り替える」
「そのとおりです」
リネットは満足そうにうなずいた。
訓練は一度で終わらなかった。護衛がわざと見えない位置へ移り、旗だけを出してみせる。次は笛、最後に声。どれも届かない場合は合図を待ち続けず、決めてある場所へ下がる。ノアは何度も手順を言い直したが、途中からは言葉を減らし、実際に身体を動かして確かめた。
塀の角を曲がるだけで、先ほどまで見えていた護衛が消える。土の盛り上がりは紙の上ではわずかな線でも、そこに立つと向こうが見えなくなる。ノアは地図に書いた見通しの悪い場所を、もう一度確かめた。
ノアはもう一度、光を灯した。薄い明かりが指の腹を照らす。これで魔物を倒せるわけではない。それでも、何もできない手ではなくなりつつある。
「僕、できることを増やしたい」
「ええ。だからこそ、退くことも覚えてください」
「退くことも?」
「守られる場所にいるのは、何もしないこととは違います。誰かがあなたを追って動けば、その人も持ち場を離れることになりますから」
ノアは言葉を受け止め、手を握った。光が消えた。
「分かった。今日は、ここを守る」
「……ええ。それが一番助かります」
*
夕方になると、村の外側から吹く風が冷たくなった。家々の扉は閉まり、先に移動した人々の気配は遠い。防衛線では護衛が交代で持ち場を確認し、術者が結界の維持を続けていた。村の暮らしの音が減るほど、遠くの木が擦れる音が大きく聞こえる。
ノアは指定された位置に立ち、石の並ぶ斜面を見ていた。結界は、何もない空間に広がっているようにしか見えない。昼間の点検で浮かんだ細い光も、今はない。
すぐそばで、リネットが耳を澄ませる。
森のほうから、乾いた枝の折れる音がした。
次の瞬間、外側の見張りが笛を吹いた。短く、鋭い音が谷に響く。二度目の合図が続き、護衛の一人が防衛線へ駆け戻ってきた。
「接近! 外縁に動く影!」
隊長の声が飛ぶ。
「調査は中止! 全員、配置につけ! 避難を確認しろ!」
ノアは思わず一歩前へ出かけ、止まった。
昨日、村の子どもが板を運んでいた道の向こうで、木々が大きく揺れている。
今度は、まだ間に合う。




