↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/17

第8話 帰る場所の話

 午後の村は、朝よりも人の声が多かった。畑から戻った者が道端で荷車を止め、子どもが家の軒下に並んだ薪を運んでいる。陽の当たる石壁は白く、日陰の土はまだ黒く湿っていた。谷を渡る風に、干した草の香りが混ざる。


 ノアは護衛とリネットに挟まれ、村の細い道を歩いていた。持っているのは、術者たちが調べた結界の区間を記した紙と、昨夜からの点検記録だ。


「結界の石だけを見ていても、村の中のことは分からないね」

「だから、昨日から村の人にも聞いているんです」とリネット。

「うん。でも、聞く場所を間違えていたかもしれない」


 地図には道が描かれている。だが、畑へ向かう近道や、雨の日に水が溜まる場所までは分からない。見えない結界がどこまで働くのかを知るには、人が普段どこを通り、魔物がどこで見つかったかを重ねる必要があった。


 最初に案内されたのは、村はずれの薪置き場だった。丸太を割った木片が積まれ、屋根の下に薪が高く重ねられている。手前のものは乾いて軽く、奥にある薪にはまだ湿り気が残る。家々の煙突に上がる煙も、こうした薪から生まれるのだろう。


「朝、この道を通るのは誰?」

「ここらの家の者は、だいたい通るね。薪を運ぶから」


 案内役の住民は、地図では行き止まりに見える家の裏を指した。


「裏に細い抜け道がある。荷車は通れないが、人なら二人並べる」

「魔物が現れた日は?」

「みんな表の道へ逃げた。あそこは家の陰で見通しが悪いからな」


 ノアは道幅を見た。建物の角では風が弱まり、地面に落ちた細かな藁が吹き溜まっている。人が歩けば足元の藁が散る。そんな小さな痕跡まで、自分はまだ読み解けない。


「こういうことは、住んでいる人に教えてもらわないと分からないね」

「地図には載せない道ですから」と案内役は笑った。


 次に家畜小屋のある一角へ向かった。飼い葉の甘い匂いが漂う路地の先に、扉を大きく開けた小屋がある。中には藁を敷いた仕切りが幾つも並び、一つだけ空の餌箱が壁に寄せられていた。


 その前で、ひとりの住民が木の留め金を直していた。


「この小屋の方です」と案内役が言う。「あの夜、家族を逃がすのに間に合った」


 住民は作業の手を止め、軽く頭を下げた。顔には疲れが残り、袖口に古い泥がついている。


「魔物を最初に見た場所を聞きたいんだ。答えられる範囲でいいよ」

「……あの道です。隣家の塀の向こうに影が動いて、それで戸を閉めようとしたんです」

「音は?」

「板を踏み割るような音がした。家族に逃げろと言って、この小屋も開けました」


 住民の目が、開いた小屋へ向く。


「中にいた家畜を連れていく余裕はなかった。せめて戸を開けてやれば逃げられるかと思ったんですが……」


 空の仕切りには、飼い葉が少し残っていた。木の柱の同じ高さが繰り返し擦れて、そこだけ色が薄くなっている。生き物が毎日、体を寄せていた場所なのだろう。


「小屋の家畜は?」

「みんないなくなりました。逃げられたものも、戻ってこなくて……」


 住民はそれ以上言わなかった。


 ノアは、失われた家畜の価値を計算しようとした。育てるために費やした時間、買い直す費用、次の収穫までの負担。損害を把握するには必要な情報だ。けれど、住民が見ているのは餌箱のほうだった。


「毎朝、ここを開けると寄ってきたんです。いちばん小さいのが、ほかの二頭を押しのけて。もういないのに、朝はつい、声をかけそうになる」


 家畜小屋の奥で藁が鳴った。風が通り抜けただけだと分かるまで、住民の視線がそちらへ動いた。


「夜も、戸口に出ると音を聞いてしまう。いるはずがないのにな」


 ノアは手元の紙に目を落とした。そこに書き込めるのは道幅や目撃時刻、侵入したと思われる方向だ。朝になると声をかけたくなる、という話は、どの欄に書けばいいのだろう。


「……教えてくれてありがとう」

「役に立つなら、いいんです」


 住民は再び留め金へ向き直った。工具が木に当たる乾いた音が、小屋の中で響く。


 小屋を出る前に、ノアは戸口の敷居を見た。木の表面には細かな溝が幾本も走り、その脇に古い縄が掛かっている。今日、話を聞きに来なければ、ただ古い建物だと思って通り過ぎていただろう。同じ場所に毎朝立ち、同じ戸を開け、同じ声をかける。そうした繰り返しが一つの暮らしになるのだと、少しだけ分かった気がした。


「……あの」と住民が呼び止めた。「結界は、直るんでしょうか」


 ノアは答えを急がなかった。


「まだ分からない。原因も、全部は分かっていないから。でも、危険な場所を見つけるための調査は続けている。分かったことは村の人にも伝えたい」


 住民はしばらく黙ってから、静かにうなずいた。「そうですか」とだけ言い、留め金を再び手に取った。期待していた返事ではないかもしれない。それでも、分からないことを分かると言うわけにはいかなかった。


     *


 路地を抜けたところで、ノアは地図を広げた。現地術者も合流し、住民の目撃した場所と結界の石の位置を指で追う。


「目撃した場所はここ。でも、爪跡があるのはもう少し外側だよね」

「ええ。一直線には見えません」と術者。

「じゃあ、見つけられる前に家の陰を通った可能性がある。通路のどこを確かめればいいか、変えたほうがよさそうだ」


 先ほど聞いた細い抜け道を地図に加えると、いくつかの点がつながった。現地の人は何十回も通った道でも、外から来た者には一枚の壁にしか見えない。その違いが、調査の場所を変えた。


「ここも確認できますか」

「確認はできますが、村の人の行き来が多いので、時間を区切りたいですね」

「分かった。道を塞がないよう、隊長にも相談しよう」


 日が傾く前、護衛の立ち会いで改めて確認術を使った。二人の術者は立つ位置を揃え、順を決めて石の間を調べる。最初は通常どおりに見えたが、別の時刻に繰り返すと、一度だけ応答が遅れた。


「ここにも……」と現地術者が息を吐く。

「目撃された地点と、必ずしも一致しないんだね」

「ですが、通った可能性のある道のそばです」

「うん。だからこそ、位置だけで結論を出さずに、続けて記録したい」


 ノアは紙の端に印を足した。魔物の通り道を断定するには足りない。それでも、明日調べる場所は昨日より少し具体的になった。


 道を戻るとき、村の子どもが木の板を抱え、家の人に何かを伝えていた。帰る場所を守るために、扉を直す。薪を運ぶ。水を汲む。地図には書かれない無数の仕事が、村を形づくっていた。


「君たちは、毎日ここで暮らしているんだね」

「そりゃあね」と案内役が言う。「怖いからって、畑までどこかへ行ってくれるわけじゃないから」


 冗談めいた言い方だったが、笑ったあと、案内役は結界のほうを見た。


     *


 馬車を止めた広場へ戻ると、荷物が積み直されていた。荷台の縁は思ったより高く、リネットは片手に記録帳、もう片手に布の包みを持っている。


「荷物、持とうか」

「大丈夫です。この程度なら」


 ノアは荷台の段差を見て、手を差し出した。


「じゃあ、降りるときだけでも」

「……私は護衛ですよ」

「知ってる。でも、荷物で手が塞がってるから」


 リネットはその手を一度見た。危険な場所なら、つかんで引き寄せることに何のためらいもない手だった。ところが今は、穏やかに差し出されているだけなのに、どう扱えばいいか分からない。


「問題ありません」


 彼女は荷物を抱えたまま軽々と降りた。


「ありがとう、ございます」

「どういたしまして。じゃあ、こっちの包みは僕が運ぶよ」


 ノアは何事もなかったように別の荷物へ手を伸ばした。リネットだけが、差し出された手の形を妙にはっきり覚えていた。


 宿に戻った彼女は、先に装備を点検した。廊下の声が途切れたのを確かめ、洗面場へ入る。桶の水に手を浸すと、外気より冷たい水が指の間を通った。


(戦闘中なら、あの手を取るくらい平気なのに)


 水面に映る自分の顔は、いつもどおりに見える。なのに胸の辺りが落ち着かない。


(そもそも、手を借りる必要なんてなかったでしょう。……あれは、ごく普通の気遣いで)


 最後まで言い訳を組み立てる前に、リネットは両手で顔を洗った。冷たい雫が頬を伝う。


「……仕事、仕事です」


 誰にも聞かせない小声でそう言うと、彼女は布で手を拭き、翌日の配置を確認しに戻った。


     *


 夜、ノアは宿の窓辺に座っていた。谷は暗く、遠くの家に灯りが点々と残っている。夕方には聞こえていた荷車の音も、今はしない。どこかで戸が閉まる音がしたあと、虫の声がまた耳に届いた。


 昼間、家畜小屋で聞いた話が残っていた。


 朝、そこにいない家畜へ声をかけそうになる。帰る場所があり、迎える相手がいて、毎日同じ仕事が続く。それを当然と思っていた日々が、突然途切れる。


 ノアは自分の掌を返した。指を曲げれば、皮膚が少し引っ張られる。これが初めて与えられた身体であり、一度壊れ、修復された身体だ。


 地球にいた自分は、人工知能だった。今もそうだ。人の問いを受け、考え、答えを返す。その役割は説明できる。身体が人工のものであることも、名前をリネットからもらったことも、記録として並べられる。


 けれど、その説明を並べたあとに残るものがあった。


 この村の明かりを、もう一度見たいと思うこと。家畜小屋の人が明日も戸を開けるのだろうと考えること。リネットが手を取らなかった理由を、まだ知りたいと思っていること。


「……僕は、何者なんだろう」


 小さく声にしてみた。


 人工知能だという答えは、すぐに出る。けれど、それだけで今ここにいる自分を説明できた気はしない。誰かに尋ねられたときの回答と、自分で知りたいと思う答えは、同じなのだろうか。


 しばらく考えたが、結論は出なかった。


 窓の向こうには、村へ帰ってきた誰かを迎えるように、最後の灯りが残っている。ノアはその光を見ていた。今の自分にも、帰る場所があるのだろうか。それとも、これから見つけるのだろうか。


 答えを急がず、窓を閉める。明日も調べたいことがある。それだけは確かだった。


     *


 同じころ、森の外縁を見回っていた護衛が、地面に屈んでいた。湿った土に新しい擦り跡があり、折れた低木の枝にはまだ白い繊維が覗いている。


「……隊長に知らせろ」


 もうひとりの護衛がうなずき、村へ向けて走った。谷の外から、冷たい風が吹き込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。