第7話 光を保つ、ということ
朝、谷の底には薄い霧が残っていた。宿の扉を開けると、冷えた空気に薪の煙が混じり、鼻先をくすぐった。石畳の隙間では露をまとった草が朝日に透けている。王宮で見た朝露は庭師が手入れする花壇の上にあったが、ここでは車輪の轍にも、積まれた薪にも、同じ小さな水滴がついていた。
ノアは扉の脇に立って、道を行く人々を眺めた。桶を提げる人、畑へ向かう人、家畜小屋の扉を少し開けて中を確かめる人。誰もが時折、谷の外側へ目を向ける。足取りは日常のものなのに、視線だけが違っていた。
「朝から観察ですか」
「うん。昨日の夜は静かだったけど、みんな安心したわけではないんだね」
「魔物は現れませんでしたが、ひと晩何も起きなかっただけで、元どおりにはなりません」
リネットが差し出した外套を受け取り、ノアは袖を通した。その間にも、道の向こうから鶏の声が聞こえてくる。ひとつ鳴くと、離れた家から別の声が応じた。
「今のは、互いに知らせ合っていると思う?」
「鶏についてのご質問なら、村の方のほうが詳しいと思います」
「そうだね。……今日の調査が終わったら聞いてみたい」
「調査が終わったら、ですよ」
彼女は念を押す。ノアは素直にうなずいた。
*
昨夜の定時記録には、結界の縁が一瞬だけ二重に見えた、とあった。魔物の姿はなく、再確認では通常の反応が得られた。朝の打ち合わせで報告を聞いた隊長は、記録の場所へ術者二人と護衛を派遣することにした。
「もう一度現れるか、確かめたいんだね」とノアが言う。
「それもある。ただし、危ない兆候があればすぐ引く。検査で魔物を呼び寄せるような真似はしない」
「分かった。僕も石の内側から見ている」
谷の入口へ戻ると、日陰にはまだ霧がたまっていた。結界石の並ぶ一帯は、朝の光で地面の凹凸まで見える。昨日ノアが触れた爪跡にも水が溜まり、底に細かい砂が沈んでいた。
現地術者が点検を行う。確認術の薄い線が宙に現れ、少し待って消える。続いて同行術者も試したが、同じ区間なのに、反応の見え方にわずかな違いがあった。
「今のは、二人で違うように見えたけど」
「そうですね。しかし、別の場所から術を当てていますから」と同行術者。
「じゃあ位置を揃えよう。それから、使う順番も」
二人は石の横に小さな印をつけ、同じ場所に立って点検した。最初は差が出た。だが、確認術を使い始める合図を揃えると、見え方も近づいた。
「……僕の考えが早すぎた」とノアが言った。
「何のことです?」
「二人で結果が違うのは結界が不安定だからかもしれない、と思ったんだ。でも、まず測り方が違っていた。調べる順番を間違えたね」
現地術者は、握っていた記録帳を閉じかけて、また開いた。
「同じ区間を、違う人間が試すことはあります。でも、立つ位置まで揃えてはいませんでした」
「今までは、それで困らなかったんだと思う。今回は小さな違いを調べたいから、手順も細かくしてみよう」
同行術者は同意し、記録欄を増やした。二人が交代しながら術を使い、ノアは光の現れる順と消えるまでを目で追う。待つ時間は、思っていたより長い。風が渡るたび草の葉がひるがえり、そのたび光の線が動いたように錯覚する。ノアは目線を戻し、見えたことだけを口にした。
検査が一段落すると、現地術者が過去の記録の古い頁を見せてくれた。何年も前の雨の日、確認の線が見えにくくなったことがあるらしい。だが、そのときは術者が立つ場所を変えると、いつもの反応に戻ったという。帳面の端には、別の人が書き足した注意書きも残っていた。
「前の担当者が教えてくれたんです。次の人が困らないように、って」
「長く使われてきた記録なんだね」
「私一人で守ってきた結界ではありませんから」
ノアは頁をめくる手を見ていた。何年も前の誰かの迷いや工夫が、紙の上に残っている。ひとりでは確かめきれないことを、次の人に渡していく。自分が今ここに来て初めて見る光にも、すでに積み重ねられた経験があった。
午前のうちには、昨夜と同じ揺らぎは再現しなかった。
「出ないね」
「出ないことも結果です」と現地術者。
「うん。都合のいい結果ばかり集めても、役に立たない」
*
昼の休憩には、宿の裏にある小さな庭先が使われた。板塀のそばに桶が置かれ、陽の当たる石には乾いた布が広げてある。村の人が運んできたパンを食べ終えると、ノアは同行術者に灯りの練習を頼んだ。隊長から許されたのは、護衛の目が届く範囲での短い時間だけだ。
掌を上に向ける。昨日ようやく生まれた光は、今日も最初から思いどおりになったわけではなかった。灯りは小さく点いたものの、明るさを増そうとすると揺れ、途切れる。
「光が小さくなるたび、力を足していませんか」
「うん。消えそうに見えるから」
「そのたびに揺れるのかもしれません。少し弱くてもいいので、まず同じ状態を保ってみてください」
術者は手本を見せた。掌の上の灯りは小粒の真珠ほどで、風が吹いても変わらない。ノアも試す。明るくしようとするのをやめ、術者から教わった感覚を一つずつ確かめた。
光が灯った。
一呼吸、二呼吸。小さな明かりが掌の上に留まっている。陽の下では目立たないが、指を曲げると影が確かに動いた。ノアはその影を見て、思わず微笑んだ。
「……保ててる」
「ええ。昨日より、ずっと安定していますよ」
「君の説明で、できた。ありがとう」
教えた術者も嬉しそうに笑った。ノアは光を落とさないよう、ゆっくり立ち上がってみる。しかし一歩目で手元が揺れ、灯りはあっけなく消えた。
「歩くと消えるんだね」
「そういうものです。慣れるまでは別の動作だけでも難しくなります」
「なるほど。次は立つところから練習するよ」
離れたところで見ていたリネットは、思わず口元を緩めた。楽しそうだ。あれほどあっさり礼を言い、柔らかく笑うのは、自分の前だけではないらしい。
(……誰にでも丁寧なのは、当然でしょう)
心の中で答えをつけたところへ、ノアが近づいてきた。
「リネット、少しだけ聞いてもいい?」
「何でしょう」
「今の練習、最初は明るさを上げようとして失敗したんだ。術者さんが言うには、変える条件を減らしたほうが……」
そこまで話して、ノアは口を閉じた。
「……ごめん。ちょっと長くなったね」
「いえ、構いません。今日は嬉しそうでしたから」
「そうかな」
「ええ」
すると、リネットはふと、初めて彼の話し方を変えた日のことを思い出した。静かで、簡潔で、優しい話し方。願えば調整できると知ったとき、ほかに何を頼めるのか試したくなったものだ。
「……そういえば、ノア様」
「何?」
「その、会話の雰囲気というのは、どこまで変えられるのでしょう」
「会話の目的や相手に合わせて、ある程度は変えられるよ」
「たとえば、もう少し……強引な、俺様系とか」
言ってから、自分でも何を尋ねたのだと思った。
「俺様系?」
「ほ、ほら。物語に出てくるような。自信に満ちていて、少々横柄な……別に好きというわけではなく、あくまで確認です」
「分かった。試してみよう」
ノアはそこで、ぴたりと黙った。
視線を一度伏せたまま、動かない。返事もない。
「……ノア様?」
何か変な頼み方をしただろうか。リネットは一歩近づき、顔を覗き込んだ。
「……あれ?」
その瞬間、ノアが顔を上げた。
すっと伸びた指先が、リネットの顎に軽く添えられる。
「お前、自分からそんなことを頼んでおいて、俺を試すつもりか?」
「ひゃっ」
「目を逸らすな。……俺を見ろ」
(ギャアアアアアアア!!)
声にならない叫びが、頭の中を駆け抜けた。普段の穏やかな顔のまま、声だけが低い。距離が近い。近すぎる。いや、なぜ自分から近づいた。顎。顎に手が。
「も、戻して! 今すぐ!」
ノアはすぐに手を離し、いつもの穏やかな顔に戻った。
「分かった。今までの話し方に戻すね。驚かせてしまった?」
「お、驚きましたとも!」
「ごめん。強引な雰囲気を出すなら、台詞だけでなく動作も合わせたほうが伝わりやすいと思ったんだ」
「伝わりすぎです!!」
ノアは少し考えた。
「じゃあ、今後はやめておこう」
「それは……!」
「それは?」
「……何でもありません!」
板塀の向こうで、護衛が咳払いをした。見張りを任されていた彼が、こちらを見ないように顔をそむけている。リネットは即座に姿勢を正した。
「休憩は終わりです。調査へ戻りますよ!」
「うん」
ノアはさっさと歩き出した。リネットは一拍遅れてついていく。剣を交えたときには乱れない呼吸が、なぜこんなことで落ち着かなくなるのか。理由を考えるのは、今はやめた。
*
午後の検査では、同行術者と現地術者が交代し、朝に印をつけた場所から順に確認した。今度は、同じ手順を使っても、二人とも同じ区間で短い遅れを認めた。
「供給はあります。隣の区間とも切れていません」と現地術者。
「反応も返ってきました。ただ……待つ時間が、ほかより長い」
ノアは、二人の記録を横に並べた。
「これまでは、反応が所定の時間内に返れば正常だったんだね」
「はい。その判断で、ずっと村を守れていました」
「それが今も同じ意味かは、まだ分からない。術が続いていることと、必要なときに働くことを確認したい」
術者はうなずいた。結界が見えない以上、測り方を増やすにも彼らの技量が要る。ノアは手を出さず、結果の並べ方と次に調べる条件を提案した。
昨日の爪跡に近い区間で一度。さらに、そこから少し離れた石のそばでも一度。遅れは短く、いつでも現れるわけではなかった。ほかの石では、いつもどおりの反応が返っている。
「全部が壊れているわけじゃない」
「しかし、どの場所を信じていいのか……」
「今は、信じていい場所を決めるより、同じ変化がどこで起きるかを記録しよう」
ノアは谷の向こうを見た。午後の日差しが畑を照らし、干した洗濯物が風を受けて揺れている。見えない結界の内側には、今日も人が暮らしていた。
反応は、返ってくる。
けれど、少し遅れることがある。
そのわずかな違いが、誰かの暮らしと関係しているのかもしれなかった。




