第6話 正常な結界の内側で
「最初の点検から、順番にお話ししましょう」
現地の術者はそう言うと、結界の境を示す石の前に立った。谷の向こうへ沈みかけた日が、石の角を赤く染めている。石は道に沿って等間隔に並び、その先で畑の縁を曲がり、木立の中へ消えていた。
ノアは立ち上がった。足元には魔物の爪跡が残り、溜まった水に夕空の色が映っていた。
「ここに立っていてもいい?」
「ええ。ただ、石の向こう側には出ないでください。こちらから確認できますので」
「分かった」
隊長が護衛たちに周辺の警戒を指示する。リネットもすぐ横で、石列と木立に目を配っていた。現地の術者は片手を石へ近づけた。
「まず、結界を維持するための供給が続いているかを確かめます。次に、隣の区間と術が途切れずにつながっているか。それから、確認用の術で結界の働きを見ます」
「確認用の術?」
「こちらから働きかけると、結界が応じます。その反応が返ってくるかを見るんです」
術者が短く言葉を唱えた。石の表面に薄い光が走り、そこから宙へ、糸ほどの淡い線が浮かぶ。線は風に揺られることもなく、やがて静かに消えた。ノアは思わず一歩近づきかけ、靴先を止めた。
「今の光は、確認用の術が見せたもの?」
「そうです。普段は見えない境目を、点検の間だけ分かりやすくしています」
「なるほど。結界そのものが常に光っているわけじゃないんだね」
石の向こうには、ただ夕暮れの草地がある。谷を渡る風が頬に触れた。光が消えると、危険を分ける境目など、どこにも見えない。
「それで、今の結果は?」
「供給は続いています。隣の区間とのつながりも保たれ、確認への反応も良好です。いつもの点検なら、正常です」
「いつもの点検なら、か」
術者は少しだけ眉を寄せた。
「……魔物が入りましたからね。正常と言い切るのが、私にも気持ち悪いんです」
疲れの混じる声だった。何度も調べ、同じ答えを見てきたのだろう。
「今までのやり方が間違っていた、と言いたいわけじゃないよ。ちゃんと整理したいんだ」
「それなら、私も同じです」
同行の術者が前へ出た。現地の術者から手順を聞き直し、自分でも同じ区間を確かめる。手の運びは少し違ったが、石の上には同じ細い光が現れた。
「供給、連続性、確認への応答。いずれも問題ありません」
「二人とも同じ結果なんだね」
「はい」
「じゃあ、ひとまず記録にはそう書こう。『異常なし』だけではなくて、今確かめた三つを、それぞれ」
同行の術者が記録紙へ筆を走らせた。現地の術者も、自分が使ってきた点検帳を開く。端の擦り切れた帳面には、日付と短い印がびっしり並んでいた。
「ずっと続けてきたんだね」
「毎日の仕事です。何も起きない日が一番いいんですよ」
術者は帳面を撫でた。
「この村では、結界があるのが当たり前でしたから」
ノアは石の列を見た。石の一つには古い欠けがあり、根元には小さな花が咲いている。人が長く頼ってきた境目は、見た目にはただの道端の風景だった。
*
点検が終わると、ノアは護衛の許可を得て、爪跡の周囲を見せてもらった。魔物が残した溝は、畑へ続く道を斜めに横切っていた。村人や、あとから駆けつけた者の靴跡が重なっている。
「魔物はこの方向から?」
「そう聞いています。ただ、最初に姿を見た人がいたのは、もう少し村の内側です」
隊長が答えた。
「目撃場所と通った場所は、必ずしも同じじゃないね」
「そういうことだ。今日は位置を控える。詳しい聞き取りと検査は明朝に回す」
谷の底はすでに薄暗い。山の上には日差しが残っているのに、足元の石は冷え始め、木立の葉が黒く重なって見えた。
「あと少しだけ、あの道も確かめたい」
「駄目だ。暗くなる前に宿へ入る。君の調査のために、護衛を夜の森へ散らすわけにはいかない」
「……そうだね。ごめん」
隊長はうなずくと、地面の跡を指した。
「必要な場所は分かった。明るいときに調べればいい。今夜は、見張りと術者の定時確認を続けさせる」
「観測した時刻と、何が見えたかも残してもらえる?」
「それは伝えておこう。ただし、危険があれば観測より退避を優先する」
「うん。そのほうがいい」
ノアはもう一度、結界の石を振り返った。昼間なら道の先までよく見えただろう。けれど、今は草むらの向こうに何がいるのか分からない。明るいときと暗いときでは、同じ場所でも確かめられることが違う。
*
村の中へ入ると、夕食の支度をする匂いが漂ってきた。狭い道の両側には、石を積んだ家と木造の小屋が並んでいる。煙突から出た煙は、まっすぐ上がるものもあれば、屋根に沿って低く流れるものもあった。どこかで薪をくべる音がして、そのあとから、湿った木が燃える少し苦い匂いが届く。
「いい匂いだね」
ノアが言うと、リネットは周囲を見回したまま答えた。
「夕餉の支度でしょう。王宮の料理とは違うものが出るかもしれませんね」
「楽しみだ」
「食べ物の話になると、ずいぶん素直ですね」
「初めての味が多いから」
ノアは小さく笑った。家の窓から食器の音がした。戸口で薪を抱えた年配の住民が道を譲ると、通りかかった子どもがノアの顔を見上げた。
「……賢者さま?」
ノアが口を開くより先に、家の中から大人が出てきた。
「こら、こっちへおいで」
子どもの肩を引き寄せる手が、思いのほか強い。大人は護衛へ軽く頭を下げ、急いで扉を閉めた。木の板が枠に当たって、乾いた音を立てる。その音を聞いて、向かいの家の人も戸口へ顔を向けた。
「僕たちが怖かったのかな」
「それだけではないと思います」
リネットは声を落とした。
「ここでは一度、魔物が結界の内側へ入りました。扉が閉まる音にも、外から聞こえる足音にも、以前とは違う意味があるのでしょう」
ノアは閉じた扉を見た。地球で知っていた『避難後の警戒心』という言葉が浮かんだ。だが、板の向こうで子どもに何が語られているかは分からない。誰もいないと思っていた道に大きな影が現れる。その瞬間を想像しようとして、先ほどの森で聞いた唸り声を思い出した。
「……ここは、みんなの家なんだね」
「ええ。調査が終わったからといって、別の場所へ帰れる人ばかりではありません」
道の先では、家畜小屋の戸を締め直す人がいた。つっかえ棒を一度押し、もう一度引いて確かめる。飼い葉の匂いが風に混じった。この村にも、朝が来ればいつもの仕事がある。それが明日も続くのか、誰もまだ確かめられずにいた。
*
調査隊に用意された宿泊場所は、村の集会にも使われるという建物だった。奥の部屋には寝台がいくつか運び込まれ、広間には長い机が置かれている。護衛たちは荷物を降ろすと、外の見張りと室内の待機を分担し始めた。
ノアは入口の近くに掛けられた濡れた外套に目を留めた。裾から落ちる雫が床に小さな染みを作り、そばには乾かすための薪が積んである。壁に残る古い傷や、何度も磨かれて滑らかになった机の角まで、長く人が使ってきたものだと分かる。王宮の部屋とは違う。必要なものが、人の手の届く場所へ置かれている。
「何か珍しいものでも?」
荷物を運んできたリネットが尋ねた。
「この机、端だけ色が薄い。よく触る場所なんだろうね」
「……確かに。ですが、まずお荷物を置きましょう」
「うん」
ノアは素直に鞄を下ろした。やがて運ばれてきた夕食は、野菜を煮込んだ温かな汁物と、少し硬いパンだった。木椀を両手で持つと、熱が指に伝わってくる。汁の表面には刻んだ葉が浮き、口に含めば根菜の甘さと、馴染みのない香草の香りが広がった。
「……おいしい」
「よかったです。お口に合わないかと思いました」
配膳を手伝っていた村の住民が、ほっとしたように笑った。
「初めての味だから、余計に面白いんだ。これは何の葉?」
住民は香草の名前を教えてくれた。山の斜面で採れるものを干して使うのだという。ノアはうなずき、もう一口味わう。噛んだパンの香ばしさに、汁の温かさが重なった。そんなことを考えているうちに、村の住民が近くの席へ腰を下ろした。仕事帰りなのか、袖には乾いた土がついている。
「さっきの結界について、少し聞いてもいい?」
ノアが尋ねると、相手は匙を持ったまま顔を上げた。
「ああ、はい。分かることでしたら」
「魔物が来た夜、最初に何か聞こえたかな。それとも、誰かが知らせに……」
言いかけて、ノアは口を閉じた。住民の椀には、まだ食事がほとんど残っている。匙の先から、汁がぽたりと落ちた。
「……ごめん。食べ終わってからでいいよ」
「え?」
「今は夕食の時間だから。僕も、まだ食べたいし」
住民は少し驚いたあと、笑った。
「じゃあ、そうさせてもらいます」
ノアも匙を持ち直した。厨房から皿を重ねる音がし、薪の赤い光が壁に揺れる。隣の席では護衛が明日の道順を確認していた。ノアは問いを思い浮かべながら、相手の椀が空になるまで待った。質問は、あとでもできる。ただし、相手が食事を終えたからといって、答えたい気分になるとは限らない。そのことまでは、まだよく分かっていなかった。
*
夜が深まる前に、隊長は翌朝までの配置を決めた。屋外の見張りは交代制とし、結界の定時確認は現地の術者が担当する。異常があればすぐに知らせ、危険を感じたら検査を中断して引く。確認事項が一つずつ伝えられるたび、護衛たちが短く復唱した。リネットは最後の引き継ぎを済ませて、広間へ戻った。ノアは窓辺に立ち、暗くなった村を眺めている。
窓の外では、家々の明かりが点々と灯っていた。王都の夜景よりずっと少ない光だったが、その一つひとつの下に、食事を終えた誰かや、眠る支度をしている誰かがいる。
「そろそろお休みください、ノア様。明日は朝から調査です」
「分かった。君は?」
「まだ少し、確認することがあります。そのあと休みます」
ノアは窓から視線を戻した。
「君も、ちゃんと休むんだよ」
目が合った。柔らかい声だった。言い添える説明も、特別な理由もない。
「……ありがとうございます。ですが、私は自分の体調管理も仕事のうちですので」
「うん。頼りにしてる」
「それでは、お休みなさいませ」
リネットはいつもどおり一礼して部屋を出た。
*
自分に割り当てられた小部屋へ戻ったリネットは、旅装を外して椅子に掛けた。装備を確かめ、明朝すぐ手に取れる位置へ置く。それから上着のしわを伸ばし、机の端を指先で払った。ここまでは普段の仕事だ。なのに、手がふと止まった。
『君も、ちゃんと休むんだよ』
さっきの声が、妙にはっきり思い出される。静かに話してほしい。短く答えてほしい。もう少し優しく。言い出したのは、自分だった。
(短く、静かに、優しく。全部、私が頼んだことですけれど)
「…ん゛ん゛ん゛ん゛~…」
そう考えた途端、頬が熱くなった。何を今さら。希望どおりの言葉が返ってきただけではないか。むしろ、設定がきちんと働いている証拠だ。そうだ。何もおかしくない。
……では、なぜわざわざ思い出すのだろう。リネットは椅子に掛けた上着を、もう一度掛け直した。今度はさっきより少しだけ丁寧に。窓の向こうで見張りの足音がした。彼女は顔を上げ、決まった間隔で足音が遠ざかるのを聞いてから、机の上の引き継ぎ書を開いた。明日の仕事は多い。余計なことを考えている場合ではない。
*
そのころ、村外れの結界石では、夜の定時確認が始まっていた。術者が確認の術を使うと、暗がりに細い光の線が浮かんだ。周囲を警戒する護衛の横で、術者はいつもの手順どおりに供給とつながりを見て、最後に結界からの反応を待つ。線が、かすかに揺れた。一瞬だけ、境目が二本あるように見えた。まばたきする間に重なり、元の一本へ戻る。
術者は視線を動かさず、もう一度同じ場所を確かめた。今度は、いつもの線だった。
「何かあったか?」
護衛が尋ねる。
「短い揺らぎです。境目が二重に見えました。反応は返っています」
「魔物は?」
「見えません。周囲にも動きはありません」
護衛は木立へ目を向けた。谷の夜気は冷たく、草の中で虫が鳴いている。少し遠くで枝が擦れる音がしたが、そこから何かが出てくることはなかった。術者は記録帳を開き、時刻と場所、見えた現象を記した。今日からは、いつもなら書き落としていた短い変化も残すことになっている。その夜、魔物は現れなかった。ただ、記録帳の一行だけが、いつもの「正常」とは違っていた。




