第5話 二度目の外の世界
「左に見えるのが、王都の外壁です」
「思ったより、高いね」
「……その高さが必要な理由まで、今から聞かないでくださいね」
「本当は聞きたかったんだけどね」
「顔に書いてあります」
リネットが言うと、ノアは小さく笑った。朝の門を出た馬車は、王都を離れていく。石畳の道はやがて土の道に変わり、両側には低い畑と、遠くまで続く草地が広がった。
窓の隙間から風が入る。
都の中では荷車と人の声に紛れていた車輪の軋みが、街道へ出るとはっきり聞こえた。車体が土の窪みを越えるたび座席が小さく跳ね、馬の蹄が少しずつ違う間隔で地面を打つ。道沿いの草は風の向きにそろって傾くのに、畑の葉は別の揺れ方をする。ノアは何度も窓の外を見て、その違いを追った。
草と土の匂いがした。
庭で嗅いだ湿った土とは違う。日の当たった乾いた草の香りが強く、遠くからは家畜らしい匂いも漂ってくる。目の前の景色と同じように、匂いにも場所があるのだと知った。ノアは窓枠に指を置き、その感触を確かめる。
ただし、身を乗り出したりはしない。
前後には護衛がつき、馬車の向こう側にも、剣を携えた人影が見えている。視線が自然と、護衛たちの位置へ向いた。
「……気になることでも?」
リネットに聞かれ、ノアはうなずいた。
「前に外へ出たときは、護衛の人たちがどこを見ているか、あまり気にしていなかった」
「今回は?」
「気になる。道の両側も、曲がり角の先も」
リネットは窓の外へ目を向けた。
「怖いですか」
ノアはすぐには答えなかった。
石の通路。近づいてきた刃。手を動かそうとしても、動かなかったこと。
その記憶は、消えていない。
「同じことが起きるのは、避けたい」
「それで十分ですよ」
「でも、景色も見たいんだ。……両方は難しいね」
「ですから、護衛がいるんです。見るべきところは私たちが見ます。ノア様は、ちゃんと座っていてください」
「分かった」
ノアは素直に背もたれに寄りかかった。
リネットは少し拍子抜けした。
「……ずいぶん聞き分けがいいんですね」
「約束したから」
「何をです?」
「無事に帰ったら、焼き菓子の店を案内してくれるって」
「…………」
リネットは顔をそむけた。
いくらでも他に理由はあるだろうに。
それを、わざわざ覚えている。
「……覚えていてくださったんですね」
「うん。楽しみにしてる」
短い返事。
昔のように、その店の位置や菓子の材料まで尋ねてこない。
静かになったのはありがたい。
ありがたい、はずなのに。
リネットは少しだけ、調子を崩された。
*
昼前、隊は街道沿いの広い場所で休息を取った。護衛たちは交代で周辺を見回り、馬の様子を確かめる。ノアは護衛の一人に声をかけられ、馬車の近くから小さな魔法の実演を見ることになった。
調査に同行する術者が、片手を持ち上げる。
掌の上に、淡い光が浮かんだ。
日差しの下では目立たないほど小さな灯りだったが、術者が手をかざすと指の影がわずかに揺らいだ。火ではない、と教えられても、ノアはその光に熱があるか、風に影響されるかを尋ねた。術者は笑わず、一つずつ確かめながら教えてくれた。
「これは灯りを作る、比較的基本的な術です。ただし、安定させるには慣れが要ります」
「きれいだね」
「ありがとうございます。賢者様も試してみますか?」
「いいの?」
「危険のない範囲で、私がそばにつきます」
ノアはリネットを見た。
「……私を見る前に、隊長の許可を取ってください」
「そうだった」
指示された手順を踏み、短い練習の許可が出た。術者は自分の掌に光を灯したまま、ゆっくり説明する。
「私たちは、こうして魔力の流れを意識します。ですが、何が分かりやすいかは人によって違うんです。言葉だけで説明するのは難しいでしょう」
「うん。まず君のやり方を教えてほしい」
ノアは術者の手元をじっと見つめた。
光が生まれる直前の間。
指先が動く幅。
術者が意識を向けるタイミング。
問いかけては、答えを聞く。
「同じ動きをすれば、同じ結果になる?」
「必ず、とは言えません。動作だけを真似しても、灯らない人はいます」
「そうか。じゃあ、動作と、それ以外の条件。試してみる」
ノアは手を前へ出した。
昨日まで、魔法は物語の中の言葉だった。今は、目の前の誰かが光を浮かべている。自分の手でも、同じことが起きるのだろうか。
教えられた通りに試す。
何も起きなかった。
「……難しいね」
「最初はそういうものです。焦らないで」
術者が手の角度を直してくれる。
ノアは次に、力を込めるタイミングを変えた。指先に、ほんの一瞬だけ淡いものが見えた。
「あ」
「今のは、反応がありましたね」
術者の声が弾んだ。
「もう一度、同じようにできますか?」
「試してみる」
二度目は失敗。
三度目も、光は浮かばない。
ノアは術者へ尋ね、説明を聞き直した。そして先ほどの動きとの違いを、少しずつ確かめていく。
しばらくして、掌の上に小さな光が灯った。庭で見たものよりもずっと弱く、揺らぎも大きい。それでも、消えずに数呼吸ほど留まった。
「できた……」
「初めてにしては、驚くほど早いです」
術者は感心したようにうなずいた。
「ただ、今のままでは少しの乱れで消えます。実際に使うなら、光を保つ練習が必要ですね」
「うん。今のだけで使えるようになった、とは言えないね」
ノアは掌の上の光を見ていた。
小さい。
けれど、自分の手の上にある。
指を少し動かすと、光が揺れて消えた。
「……もう少し続けたいな」
「休息は終わりです」
リネットが告げた。
「えっ」
「『えっ』ではありません。調査に行くのが先でしょう」
「……そうだった」
術者が声を上げて笑った。
「帰りにも時間があれば、お教えしますよ」
「ありがとう。ぜひお願いしたい」
ノアは名残惜しそうに掌を閉じた。
*
異変が起きた谷筋へ向かう道は、午後になると森に近づいた。
木々の間から吹く風が、少し冷たい。
森の入口では明るかった街道が、枝の重なるあたりで急に暗くなった。濡れた葉の匂いが濃くなり、馬車の下で小石が跳ねる。ノアは木漏れ日が地面に作る細かな模様を眺めていたが、前方の護衛が手を上げた途端、その模様から目を離した。
先頭の護衛が、突然片手を上げた。
隊列が止まる。
「……何かいる」
短い声が伝わった。
ノアは馬車の窓から顔を上げた。
木立の奥で、枝が一本折れた。
続いて、低い唸り声。
「ノア様、窓から離れて」
リネットの声が変わった。
穏やかな話し方はそのままなのに、そこには一切の迷いがなかった。ノアが身を引くのと同時に、森の奥から黒い影が飛び出した。
四本足の、獣に似た魔物だった。
背の一部が硬く盛り上がり、長い爪が土を掻く。
先頭の護衛が盾を構えた。
「馬車を下げろ! 術者は後方へ!」
隊が動く。
護衛たちは一人で飛び出さず、互いの位置を確かめながら道を塞いだ。
魔物が吠え、盾にぶつかった。
鈍い音。
盾を受けた護衛の足が、土を削る。
「リネット!」
「そこにいてください」
彼女は短く答えた。
侍女服の裾が翻り、次の瞬間には馬車の前に立っている。
魔物が盾の横を抜こうとした。
リネットは正面から力比べをしなかった。踏み込む角度を変え、横合いから短い刃を走らせる。
魔物が身をよじった。
その隙に護衛が立て直し、道の中央へ押し戻す。
「右へ来る!」
ノアの口から、声が出た。
魔物の後ろ脚が沈み、身体が傾いていた。向きを変える直前の動きだと、分かった。
「分かってる!」
リネットが短く返す。
彼女はもう、そちらへ動いていた。
ノアが見て、考えて、声にするまでの間に。リネットは距離を詰め、魔物の進路を外へそらす。術者が後方から援護し、護衛たちが足場を奪う。
魔物は暴れたが、隊列を割れない。
やがて護衛の剣が急所を捉え、大きな身体が地面に倒れた。
唸り声が消える。
木々が揺れる音だけが残った。
「……終わった?」
「まだ、動かないで」
リネットは魔物から目を離さず答えた。
護衛たちが周囲を見回す。
倒れた魔物が動かないことを確かめ、ようやく警戒が少し緩んだ。
「もう大丈夫です」
リネットが戻ってきた。
ノアは、彼女の足元を見た。
土に靴跡がついている。
魔物の爪が通ったすぐそばにも、彼女の足跡があった。
「さっき、右へ動くのが分かったんだ」
「ええ。声は聞こえました」
「でも、君は僕が言うより先に動いていた」
「慣れです。足の運びと、目線を見れば分かることもあります」
リネットは簡単に言った。
「もちろん、いつも当たるわけではありませんけど」
「……そうなんだ」
ノアは自分の手に目を落とした。
昼には、小さな光を作れた。
さっきは、魔物の動く方向を見抜けた。
それでも、自分で戦おうとしたらどうなっただろう。
答えは、あまり考えたくなかった。
「さっき、退避してくれて助かりました」
リネットが言った。
「正しい判断です。今は、守られてください」
「……うん」
「ただし、見えたことを伝えてくださったのは助かります。あれなら、邪魔にはなりません」
ノアは顔を上げた。
「そう?」
「ええ。でも、次はもっと短く。『右』だけでも分かりますから」
「分かった。練習するよ」
「そこは、そんなに熱心にならなくても……」
リネットが苦笑する。
「それに、魔法も学びたい」
「まずは安全に使えるようになってから、です」
「うん。今日の光も、まだ安定していなかったから」
ノアの答えを聞き、リネットは少しだけ安心した。
できたことばかり数えない。
できなかったことも、ちゃんと覚えている。その素直さは、今の彼の強みかもしれなかった。
*
日が傾き始めるころ、隊は目的の村へ到着した。谷を横切る道の先に、結界の境を示す石が並んでいた。村の人々は、護衛の姿を見てようやく肩の力を抜いた。
石造りの家々の間には洗濯物が揺れ、道端には使い込まれた桶が伏せられていた。炊事の煙も上がっている。暮らしは続いているのに、家の扉はどれも半分ほど閉められ、子どもたちは大人の後ろから調査隊を見ていた。王都の賑わいとは違う静けさが、谷全体に沈んでいるようだった。
魔物が入り込んだあとも、結界の維持を担当する術者は点検を続けていたという。
「現在も術は保たれています。見ていただければ分かりますが、点検で異常は出ません」
現地の術者が説明した。
同行した術者も慎重に確かめ、同じようにうなずく。
「私の見る限り、確かに維持されています」
ノアは二人の話を聞き、地面へ目を落とした。結界の境を示す石の内側に、深い爪の跡が残っている。避難を急いだ人々の足跡とは、明らかに違う。
ここに、魔物がいた。
それは疑いようがなかった。
「記録では、術が正常だった。今も正常に見える。……でも、魔物は通ったんだね」
「そうです」
現地の術者が悔しそうに唇を噛んだ。
「何度点検しても、原因が分からないのです」
ノアはしゃがみ込み、爪跡のそばへ手を伸ばした。
土はまだ少し湿っている。
指先に、ざらついた感触が返ってきた。
すぐ隣へ、リネットもしゃがんだ。
「何か分かりますか?」
「まだ。まず、ここで何が起きたのかを、教えてほしい」
ノアは結界を守ってきた二人の術者を見上げた。
「皆さんが何を確かめて、何を正常だと判断しているのか。そこから一緒に調べたいんだ」
術者たちは顔を見合わせた。
そして、一人がゆっくりとうなずいた。
「……分かりました。最初の点検から、順番にお話ししましょう」
ノアは立ち上がった。
傾きかけた日差しが、石の列を照らしている。最初にこの世界へ来た日、彼は自分の指が動くことだけで、何度も驚いた。
あれから、指は一度動かなくなった。
今はまた、目の前のものに触れられる。
知っていることは、まだ少ない。
知らないことは、いくらでもある。
「じゃあ、始めよう」
二度目の外の世界で、ノアの調査が始まった。




