第4話 賢者の予測
「正常、正常、正常……全部、正常ですね」
リネットが報告書をめくった。
「結界を破られた場所の点検記録なのに、ですか」
「そう。だから、もう少し前の記録が見たいな」
ノアは机の上に広げられた紙の束へ手を伸ばした。王宮の一室は、このところ小さな資料庫のようになっていた。
窓から差し込む斜めの光が、積まれた紙の端を照らしていた。新しい紙は白く、村から運ばれた古い報告には雨染みが残る。文字の大きさも、紙を留める紐の結び方もまちまちだ。ノアは同じ出来事を記した複数の報告を並べ、ときに紙の隅の追記を探した。
街へ行ったとき、彼はあらゆるものを直接見たいと思った。ここには、誰かが見たものを言葉に変え、何日もかけて運んできた記録がある。現場の風や土の匂いは届かない。それでも、記録した人が何を不思議に思ったかは、短い一行からうかがえた。
結界の点検報告。魔物の目撃記録。村からの嘆願書。神殿が集めた治癒術に関する聞き取り。書かれた日も、書き方も、内容の細かさも違う。
「ここまで資料が揃ったのは、ずいぶん珍しいことらしいですよ」
「集めてくれた人たちに感謝しないと」
ノアは書類を受け取り、しばらく読み進めた。
「……リネット。この『縁が一瞬ぼやけた』というのは、どういう意味だろう」
「どれです?」
彼女が肩越しに覗き込む。
「点検した人が、結界の見える縁に揺らぎがあったと書いています。ですが、その直後の点検では正常となっている」
「気のせいだと思われたんでしょうね。別の日の記録では『光の具合かもしれない』ともあります」
「その可能性もある。けれど、別の場所にも似た記述があるんだ」
ノアは紙を二枚並べた。
一枚には急いで書きつけたような乱れた字があり、もう一枚には丁寧な点検欄が並ぶ。異常なしの印が押されたすぐ横には、欄外へ小さく添えられた一文があった。どちらも、魔物が入り込んだ場所の記録だった。
「こっちは『境目が二重に見えた』。もう一つは『薄い揺れが見えた』。言葉は違うけれど、点検者が普段と違うものを見て、結局は正常扱いにした点が共通している」
「……でも、結界に異常がなくても、そう書くことはあるでしょう?」
「あると思う。だから、侵入がなかった場所も見たい」
リネットが目を細めた。
彼女は報告書の一行を指で押さえた。村の見張りが使う言葉と、王宮の術者が使う言葉は違う。現場では『薄くなった』と言っても、正式な記録には『異常なし』と書かれることがある。リネットが説明すると、ノアはその違いも書き留めた。
「異常が出た場所ではなく?」
「うん。似た環境なのに侵入が起きていない場所と比べれば、この記述に意味があるか考えやすい」
ノアは記録の余白を指で押さえた。
「それに、点検で『正常』と判断したことと、魔物を阻む働きが本当に保たれていたことは、同じじゃないかもしれない」
「結界は確かに維持されていた、と術者たちは言っていますよ」
「その観測は尊重したい。術者が見ていたものは正常だったのかもしれない。……だからこそ、何を見て正常と呼んでいるのか確かめたいんだ」
「でも、魔物を防ぐのが結界の役割でしょう?」
「そう聞いている。けれど、その結界は何を基準に『魔物』だと判断しているんだろう。そこを僕はまだ、きちんと知らない」
「……それは、術者の先生方に聞いたほうがよさそうですね」
「うん。知っていると思い込んで、聞かずに済ませるのは避けたいから」
リネットは黙った。
いつもなら、ここで「つまり」と長い説明が続いたはずだ。今のノアは、こちらの反応を見て言葉を止めてくれる。
「……なるほど。じゃあ、私の役目は?」
「書き手の癖を教えてほしい。『気のせい』と『異常なし』は、この国の報告書では同じ意味になる?」
「全然違います」
「よかった。そこから聞こう」
リネットは椅子を寄せた。
剣や足運びなら教えられると思っていた。まさか、役人の書きそうな曖昧な一言まで、役に立つ日が来るとは思わなかった。
*
資料を持ち込んだ宮廷の術者たちは、ノアの指摘にすぐ賛成したわけではなかった。
「結界の揺らぎなど、晴れた日にも雨の日にも見えることがある。報告者の主観を、危険の根拠にはできません」
「おっしゃるとおりです」
ノアは素直にうなずいた。
「その記述だけで危険だと決めるのは早いと思います。ただ、最近の侵入地点では、揺らぎの記述が実際の侵入より前に現れています。一方で、似た条件でも侵入がなかった地点には、同じ時期の記述がほとんど見当たりません」
「記録していないだけの可能性は?」
「十分あります。記録の欠落も含めて、確かめる必要があります」
術者は腕を組んだ。
「つまり、まだ確証はない」
「はい。ですが、警戒すべき地点を絞る手がかりにはなると考えています」
ノアは一枚の地図を差し出した。
川筋に沿って小さな集落が並び、山を越える道は一本しか描かれていない。ノアが指し示す監視所は、そこから少し外れた谷の口にあった。警戒を増やすにも、人を動かす時間がいる。予測が外れたとしても準備に意味はあるが、手当たり次第に兵を送れるわけではなかった。
「北東の谷沿いにある監視所です。先日、ここでも『縁がぼやけた』と報告されていました。現在、結界そのものの点検結果は正常です。ただ、これまでの事例と似た経過を辿るなら、数日以内に魔物の侵入が起きる可能性があります」
「数日以内に?」
「正確な時刻までは分かりません。起こらない可能性もあります。それでも、今のうちに周辺の村へ警戒を伝え、結界の内外を普段より詳しく観察する価値はあるはずです」
「……外れたら?」
「何も起こらなかった理由を調べます。それも大切な情報ですから」
術者はしばらく考えたあと、地図を受け取った。
「警戒だけなら、取り返しはつく。上へ報告しましょう」
*
報告が届いたのは、それから三日後だった。北東の監視所付近で、魔物が結界の内側へ入り込んだ。
点検記録上、結界は維持されていた。
けれど、警戒を強めていた護衛たちが早期に異常を見つけ、近くの住民はすでに避難を始めていた。
被害を抑えられた。
詳細な報告には、夜明け前に見張りが異音を聞き、待機していた護衛が住民を谷から離したことまで記されていた。いつもの人数のままだったなら、知らせが村に届くころには魔物が道へ出ていただろう。ノアが選んだのは、正解を言い当てるための場所ではない。誰かが避難を始めるための、わずかな時間だった。
「当たった……」
報告を読み終えた役人がつぶやいた。
「場所だけでなく、時期まで」
部屋の空気がざわめいた。
リネットは横にいたノアを見た。
当の本人は、別の紙を手にしている。
「侵入が確認されたのは、結界のどの辺り?」
「……まず喜ばないのですか?」
「被害が少なくてよかったとは思う。でも、予測が当たっただけでは、原因は分からない」
ノアは報告書を机に置いた。
「ここからが、知りたいところなんだ」
*
国王への報告は、その日のうちに行われた。謁見の間に集まった者たちは、以前よりも静かにノアの話を聞いていた。
「そなたが予測したのは事実だ。今後も王宮で記録を読み、危険を知らせてほしい」
国王は厳しい顔で言った。
「その能力は、国にとって失えぬものだ。先日のようなことを、二度と起こすわけにはいかん」
「ご心配は理解しています」
ノアは頭を下げた。
「ただ、今ある記録だけでは限界があります」
「足りぬものは運ばせよう」
「ありがとうございます。でも、何が足りないのかを知るためにも、現地に行く必要があります」
場がざわついた。
国王の側近が一歩前へ出る。
「また襲われたいと申すか!」
「いいえ。避けられる危険は避けたいです」
ノアは静かに答えた。
「ただ、現地で結界を見たとき、何を測るべきか、その場で判断したいんです。普段と同じ結果が出たなら、測り方を変える必要があるかもしれません。離れた場所から指示を出すだけでは、確認する順番が遅れてしまう」
宮廷の術者が補った。
「結界の知識は、我々にあります。しかし、今回の異常については、何を見落としているのかさえ特定できておりません」
「現地の術者を遣わせればよいではないか」
「もちろん、彼らの経験は必要です」
ノアはうなずいた。
「だから、一緒に調べたい。私だけでは、魔法の仕組みをまだ十分に知りません」
国王は玉座の肘掛けに指を置いた。
高窓から差す光が、玉座の前の石床へ長く伸びていた。ノアのすぐ後ろには、護衛として控えるリネットの気配がある。彼女は何も言わないが、指先の力がわずかに強まったのが見えた。外へ出ることを許されれば、もう一度あの襲撃の危険を引き受けることになる。ノアの予測がなければ、村の被害はもっと大きかっただろう。
だが、その予測をした存在は、ひとたび襲われれば、容易に失われかねない。
沈黙のあと、国王が口を開いた。
「……よかろう」
側近が顔を上げる。
「陛下!」
「ただし、自由な旅ではない。行き先は定める。護衛と監視をつける。現地の指揮に従い、危険と判断すれば直ちに退く。そなた一人の判断で隊を離れることは許さぬ」
「承知しました」
「そして、リネット」
控えていた彼女が膝をつく。
「はい」
「そなたが近くで守れ。今度は、警報を待って駆けつけることのないように」
「かしこまりました」
その返事には、少しも迷いがなかった。
*
部屋へ戻ると、リネットは机に置かれた許可書を見つめた。
「……まさか、本当にお許しが出るとは」
「条件は厳しいけれど、調べに行ける」
「当たり前です。何があったか、もう忘れたわけではないでしょう?」
「忘れていないよ」
ノアはそう言って、自分の手を見た。
指を一度、開いて閉じる。
「だから、護衛の言うことは守る。できないことまで、できると思わないようにする」
「……それなら、よろしいです」
リネットは許可書を畳んだ。
「でも、不思議です。現地調査が必要なのは分かりますけど、そんなに外へ出たいものですか?」
「理由は、それだけじゃないんだ」
「それだけじゃない?」
「君が話してくれた街のことも、見てみたい」
リネットの手が止まった。
「焼き菓子の店とか。市場の人たちがどんなふうに暮らしているかとか。今度こそ、ちゃんと知りたい」
「……ノア様」
「危ないのは、分かっている。それでも、見たいんだ」
リネットは何か言いかけて、口を閉じた。役に立つための理由なら、いくらでも説明できる青年が。今は、ただ自分が見たいから、と言った。
「では、無事に帰ってからにしましょう」
「何を?」
「焼き菓子です。調査が終わったら、案内します」
ノアは少しだけ目を見開いた。
「……約束だね」
「はい。だから、無茶はしないでください」
ノアは、嬉しそうにうなずいた。
机の上の許可書には、護衛と監視について細かな条件が並んでいた。それでも彼にとっては、閉じていた扉の向こうへ続く、一枚の紙だった。




