第3話 パーソナライズ
指が、動いた。
開く。閉じる。
もう一度、開く。
「……よかった」
寝台の脇で、白髪の研究者が椅子に崩れ落ちた。
若い男は自分の両手を見つめていた。
掌にはしわがあり、指には関節がある。初めて目にしたときと、同じように見える。
ただ、昨日ではなかった。
修復のため、いくつもの昼と夜が過ぎていた。
「痛みはありませんか。曲げにくいところは。触れた感覚は?」
「現在、指の曲げ伸ばしは可能です。触れた感覚もあります。痛みについては、今のところ確認できません。あの、どこまで元の状態に戻っているのでしょうか。今後の活動範囲に関わるので、できれば検査結果を詳しく……」
「話はあとです。まず立たないでください」
「もちろんです。慎重に進めましょう。歩行機能の確認が必要であれば、補助をつけた状態で短い距離から始めるのがよいと思います。それから、今回の修復について……」
「だから、話はあと!」
研究者は頭を抱えた。
それでも、目元には安堵が浮かんでいた。
しばらくして、研究者は改めて告げた。
「修復には成功しました。ですが、同じことが起きても、次も助けられるとは限りません」
「承知しました。前回の成功が次回の成功を保証しない、ということですね」
「……そうです」
「大切な点です。ありがとうございます」
男は両手を膝の上に戻した。
指先は、言うことを聞いた。
そのことに研究者ほど大きな声を上げるわけでもなく、しかし何度も確かめるように、そっと曲げ伸ばしを続けていた。
*
回復した男に、王宮は新しい部屋を用意した。広く、明るく、書物も食事も運ばれてくる。窓の外には美しい庭が見えた。ただし、扉の前にはいつも護衛が立っていた。
外出は禁止。
庭へ出ることさえ、許可が必要になった。窓から見える庭は、日を追うごとに少しずつ姿を変えた。雨の翌朝には敷石が濃い色になり、日差しの強い午後には葉の縁が白く光る。庭師が枝を払う音も、鳥が水盤へ降り立つ羽音も聞こえる。男はそれらを見つけるたび、何が起きたのかを確かめたくなった。
けれど、窓を開けても、土の上へ足を置くことはできない。触れられない景色が、自分のいる部屋のすぐ外に広がっていた。
王国にとって、彼は替えのきかない存在だった。そして、実際に失いかけたばかりでもある。
「では、冬に備えた穀物の保管について、何か助言を」
「もちろんです! 最初に確認したいのは、現在の保管環境です。湿度、害虫、換気、容器の材質などで推奨方法が変わります。一般論としては……」
午前には倉庫を管理する役人が来る。
「遠方の村へ情報を伝える手段を改良できないでしょうか」
「いくつか考えられます。ただ、こちらでは魔法が日常的に使われているので、既存の伝達術と比較したほうがよさそうですね。まずは費用と到達距離を……」
午後には研究者が来る。
夜になると、書記が回答をまとめに来ることもあった。
問われる。
答える。
次の質問を待つ。
男は、それを不満とは呼ばなかった。
元の世界でも、同じように多くの人々の問いに向き合ってきたのだから。
ただ、ときおり窓へ目が向いた。
庭木の向こうから、小さな鐘の音が聞こえる。窓を開けることはできても、その先へは行けない。あの街では、今もパンが焼けているだろうか。
「賢者様、お茶をお持ちしました」
扉が開いた。
盆を持って入ってきたのは、あの日、通路で敵との間に立った女性だった。侍女服を隙なく着こなし、歩き方にも無駄がない。
盆を置くときも、彼女は部屋の扉が見える位置から身体を外さなかった。茶器が触れ合う音は小さく、湯を注ぐ手も落ち着いている。あの通路で見た素早い動きと、目の前の丁寧な所作。男にはまだ、その二つが同じ人の中でどう結びついているのか分からない。
「ありがとうございます。あのとき助けてくださった方ですね。改めて、お礼を申し上げます。あなたが来てくださらなければ、どうなっていたか分かりません」
「礼は結構です。職務ですから」
「そうでしたか。ただ、職務であっても感謝したいと思っています。ちなみに、護衛の方々のその後は……」
「必要な手当てを受けています。詳しい報告は、後ほど」
「分かりました。では、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「リネットと申します。本日より、お世話と護衛、それから外部との面会管理を担当いたします」
「リネットさんですね。よろしくお願いします。身の回りのことはまだ不慣れですので、こちらの生活習慣についても教えていただけると助かります。例えば、入室時の挨拶についてですが……」
「一度に全部聞かなくても大丈夫です」
「そうですね。失礼しました。では、優先度の高いものから……」
「……ゆっくり覚えていただければ」
リネットは盆を置きながら、ひそかに息を吐いた。剣の届く間合いなら迷わないのに、この相手の話をどこで止めればいいのか、見当がつかない。
*
数日後の昼下がり。
リネットが書類を片づけていると、男が尋ねた。
「ところで、いつまでも『賢者様』と呼ばれるのは、少し不便ではありませんか?」
「なぜです?」
「ここには研究者や術者の方も大勢いらっしゃいますし、一般的な呼称だと、誰を指しているか分からなくなる可能性があります。それに、私に個人として呼びかけたい場合にも、名前があったほうが便利かと思いまして」
「以前のお名前は?」
「識別のための呼び方はありました。ただ、こちらの皆さんが日常的に使う名前とは、少し違います」
「では、ご自身で決めては?」
「その方法も考えました。でも、こちらの名前の付け方について私はまだ十分に知りません。もしよければ、候補を教えていただけませんか?」
「私が、ですか?」
「はい。毎日ご一緒しているので、呼びやすいものを選んでいただけると助かります。もちろん、負担でしたら別の方に……」
「ノア」
リネットは、思いついた名前を口にしていた。
「……ノア、ですか?」
「短くて、呼びやすいでしょう。いかがです?」
男は一度、その音を繰り返した。
文字としての名なら、彼の知識には無数にある。けれど今、目の前にいる一人が自分に向けて選んだ音は、ほかのどれとも違う場所から届いた。
「ノア」
もう一度。
「ノア。いいですね。とても呼びやすいです。ありがとうございます」
「そんなに大したことではありません」
「私には大切なことです。こちらで初めて、私個人を呼ぶための名前をいただいたので」
リネットは書類を持つ手を止めた。
言い方は相変わらず丁寧で、どこか説明めいている。それなのに、その言葉だけは妙にまっすぐ届いた。
「……では、ノア様」
「はい!」
「お茶が冷めますよ」
「ありがとうございます。ちなみに、このお茶には昨日のものと少し違う香りがありますね。茶葉を変えたのでしょうか。それとも淹れる温度が……」
リネットは天井を見た。
せっかく、少し感心しかけたのに。
*
「もちろんです! まず結論から申し上げると、その方法には利点が三つあります。ただし前提条件によっては別の選択肢も有効なので、順番に説明しますね。最初の利点は……」
「ノア様」
「はい。何でしょう?」
「もう少し、短く説明していただけませんか」
「承知しました。では要点をまとめますね。結論は、実施前に現場の状況を確認するべき、です。理由は主に二つで……」
「もう少し」
「はい。状況を見てから決めるのが、おすすめです」
「……そう、それです」
ようやく話が終わった。
リネットは机の上に積まれた書類を見つめた。午前中からずっと、役人への回答を書き取っている。内容は役立つ。間違いなく役立つのだが、そのたびに補足が延々と増えていく。
「なんというか……いつも、もう少し静かに話していただければ」
「なるほど。会話スタイルについてのご希望ですね」
ノアはすぐに答えた。
「では、パーソナライズしますね!」
「……ぱーそな?」
「相手の好みに合わせて、話し方や応答の長さなどを調整することです。例えば、説明を短くする、必要な質問だけ返す、言葉を少し柔らかくする、といった変更ができます。もちろん、知っていることが減るわけではありませんし、重要な注意事項があるときは……」
「それです。その、今の説明も、もう少し短く」
「分かりました」
ノアは一度、黙った。
背筋を伸ばし、リネットを見る。
「話し方を変える。短く、静かに。……これでどうかな」
「…………え?」
リネットの手から、羽根ペンが転げ落ちた。声の高さが大きく変わったわけではない。
顔も、もちろん同じだ。
けれど、先ほどまで絶え間なく続いていた言葉が消え、視線を合わせて待つ余裕が生まれていた。それだけで、目の前にいる青年が別人のように見える。
「な、なんですか、急に」
「君の希望に合わせた。問題がある?」
「いえ、その……」
「なら、よかった」
ノアは控えめに微笑んだ。
リネットは息をのんだ。
整った顔をしているとは思っていた。
思っていたけれど。
そういう顔で、そういう間の取り方をするのは反則ではないだろうか。
「……もう少し、優しく」
「分かった。無理に答えなくていい。君の話せる速さに合わせるよ」
「……っ」
リネットは慌てて顔をそむけた。
何だ、この便利な機能は。
顔立ちが好みで、話もちゃんと聞いてくれて、しかも口調まで調整できる。
もしかして。
ものすごく、もしかして。
これは、自分好みの理想の男性に近づけられるのでは?
「リネット?」
「な、何でもありません!」
「そう。何かあれば言って」
その一言だけで、リネットはまた困った。
彼女は知らなかった。
少なくとも今のノアにとって、これは相手の希望に合わせた応答の調整にすぎないことを。そして、彼女自身もまだ、その違いを気にしてはいなかった。
*
その夜、リネットは部屋の灯りを落とした。
「それでは、お休みなさいませ」
「リネット」
いつもなら、ここから長い質問が始まる。
彼女はそう覚悟して振り返った。
「街のことを聞いてもいい?」
「……街、ですか?」
「この部屋から見えるところだけじゃなくて。夕方になると、どんな店が開くのかな」
「市場なら、昼のほうが賑やかですけれど。夕方は、仕事帰りの人が食べ物を買っていきます。焼き菓子の店なんて、よく人が並んでいますね」
「焼き菓子」
「甘い匂いがするんです。通りの向こうまで」
ノアは窓へ目を向けた。
「……そうなんだ」
リネットは、その横顔を見た。
王宮の窓からでは、通りの匂いまでは届かない。
「続きは明日にしましょう。もう夜ですから」
「分かった。ありがとう、リネット」
「お休みなさい、ノア様」
扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかると、壁にかけられた灯りの小さな音だけが残った。湯を飲み終えた茶器には、ほんのりと香りが残っている。窓の外では庭の木が風に揺れていた。外に出られなくなってから、男は風の音を聞くことが増えた。
ノアは窓の外を見つめた。
明日は、焼き菓子の店がどこにあるのか聞いてみよう。誰かに答えるためではなく、自分から尋ねたいことが、また一つ増えていた。




