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第2話 最適解は、間に合わない

「こちらが街路の灯りを管理している設備です」


「なるほど。先ほどの庭と違って、複数の灯りをまとめて扱うのですね。では、一つが消えた場合、周囲の灯りに影響はありますか?」


「仕組みは場所によって異なります。古い区画ですと、手作業で調整することもありますよ」


「同じ用途でも方式が違う、と。興味深いです。そうなると、点検記録の比較にも注意が必要ですね」


 案内役の術者は、もう驚かなくなっていた。


 通りの両側には店の軒先が張り出し、色の違う布が朝の日差しを受けていた。焼けた小麦の香りに、革をなめすような強い匂いが混ざる。井戸のそばでは水桶を抱えた女性たちが話し込み、荷車の御者が道を譲ってくれた子どもに手を上げた。王宮の窓から眺めたときには聞こえなかった声が、今は四方から重なって届いている。


 男はどの音も聞き逃したくなかった。靴音だけでも、石畳を踏む者と土を踏む者では響きが異なる。荷車の車輪が継ぎ目を越えるたび、足元から微かな震えが伝わった。


 賢者様と呼ばれる若い男は、朝からずっとこんな調子だ。王宮を出て一刻も経たないうちに、街路の舗装、建物の排水、商人たちの数え方にまで質問を重ねている。


 護衛たちは苦笑しながら、周囲への警戒を続けていた。見学には決められた順路があり、立ち止まれる場所も限られている。男が露店へ近づこうとすると、護衛がさりげなく前へ出た。それを見て、男は素直に道の内側へ戻る。


「すみません。皆さんの仕事を増やしてしまいましたね。つい、気になるものが多くて」


「お気持ちは分かりますが、約束した範囲でお願いします」


「もちろんです。では、あの店で使っている秤については、離れた場所から質問するだけにしますね」


 案内役は笑い、護衛は少し困った顔をした。男はそれにも気づかず、軒先に並ぶ銅の分銅を興味深げに眺めていた。


「では次の見学先に参りましょう。少し狭い道を通りますが、すぐ近くです」


「分かりました。ところで、先ほどのパン屋さんから、とても良い香りがしていましたね。戻る際に立ち寄ることは可能でしょうか。もちろん、警備上難しければ無理にとは申しません」


「……帰りに考えましょう」


「ありがとうございます!」


 男は満足そうにうなずいた。


 石畳の道に差しかかると、足を少し止める。王宮の滑らかな床とは違う。石の継ぎ目を踏むたび、靴の下から細かな凹凸が伝わってきた。


 道幅は荷車が一台通れるほどで、建物の壁が日差しを遮っている。表の通りの熱気が遠ざかり、ひんやりした空気が首筋を撫でた。どこかの窓から煮込み料理の匂いが漂い、二階で誰かが洗濯物をはたく音がした。見上げると、家と家の間に細長く切り取られた青空がある。こんな狭い場所からでも空は見えるのかと、男は一瞬だけ足を緩めた。


「昨日の床とは、ずいぶん違いますね」


「転ばぬよう、お気をつけください」


「はい。歩幅を調整します。こうして外を歩いてみると、人が普段どれだけ多くのことを、意識せずに処理しているか分かります。例えば……」


 言葉が途切れた。


 前を歩いていた護衛の肩が動いたからだ。


 その手が、腰の武器へ伸びる。


「下がれ!」


 短い叫び。


 同時に、通路の端に立っていた人物が動いた。


 そこにいたのは、いつからだろう。


 最初に聞こえたのは、金属の短い悲鳴だった。次いで護衛の靴が石を擦り、案内役の息が止まる。通路の奥で籠が落ち、中身の果物が転がった。何が起きたのか、音は順に届く。けれど、その順番で考え終わるころには、事態はもう次へ進んでいた。


 男の視界には確かに入っていた。人通りの少ない通路に、じっと立っている影。その一つにすぎないと判断していた。


 しかし今、その影は、護衛の懐へ飛び込んでいた。


 硬い音が響いた。


 護衛の剣と、相手の刃がぶつかる。


 剣を押し返すのではない。刃を滑らせ、身体をすり抜けさせるような動きだった。護衛が踏みとどまり、もう一人が横へ回る。後ろにいた護衛が男の腕を引こうとした。男はそれに従おうとする。だが、横へ寄るためには足を置き直す必要があり、背後には濡れた石の継ぎ目があった。普段なら意識もしない距離が、今はひどく長い。


 最も近い安全な場所は壁際。護衛の身体を遮蔽物にして下がるべきだ。判断は終わっている。あとは、身体を動かすだけだった。


「賢者様! こちらへ!」


 男は声の方向へ動こうとした。


 その瞬間、敵の顔がこちらを向く。


 目が合った、と思った。


 そこにあるものを、男は知識として知っていた。


 敵意。攻撃意図。殺意。


 けれど、今まで向けられたことのある言葉や質問とは、まるで違う。


「待ってください。私は、あなたと争うつもりは……」


 相手は答えなかった。


 護衛の剣が再び振るわれる。その隙間を抜け、敵がこちらへ来る。


 速い。


 男は刃の向きを見ていた。


 足運びと肩の傾きから、次にどこを狙うかも分かる。


 右へ退く。


 そう判断した。


 しかし、右足が地面を押すより先に、刃が届いた。


「っ……!」


 肩に衝撃が走る。


 衝撃は鋭い一点から始まり、遅れて身体の奥へ広がった。肩の布が引きつれ、右腕にかかっていた重みが急に変わる。男は傷の状態を確かめようとしたが、目を向ける前に次の攻撃が始まっていた。


 次いで、痛み。


 自分の腕が、考えていた位置にない。


 袖が裂け、持ち上げようとした右手は動かなかった。


「賢者様!」


 護衛が敵へ体当たりするように飛び込んだ。男は残った手で壁に触れた。立っているつもりだった。けれど膝が折れ、身体が傾く。


 相手の刃が、今度は脚へ向かった。


 避ける方向は分かった。


 間に合わなかった。


 足元から身体を支える感覚が消える。


 昨日まで歩くたびに返ってきた地面からの力が、片側だけ抜け落ちた。姿勢を直そうとしても、脚が予想したところにない。彼は重心の移動を理解していた。だからこそ、立っているために必要な支えが失われたことも分かってしまった。


 石畳が近づいた。


 頬が石にぶつかり、視界が一瞬白くなる。


 痛い。


 痛い、という言葉の意味を、昨日よりもずっとはっきり理解した。


 動かなければ。


 左手を伸ばす。


 手のひらが石に触れた。


 自分の身体を起こすために、地面を押そうとする。


 敵の足が視界に入った。


 あまりに近い。


 刃が振り下ろされる。


 左手にも、激しい衝撃が走った。


 指が開いたまま、返事をしなくなった。


 指先の位置は見える。だから動くように命じる。動かない。もう一度、別の動かし方を試す。結果は同じだった。昨日、彼を驚かせた小さな動作が、今はどれほど手の届かないことなのか、思い知らされる。


 男はその手を見つめた。


 昨日、初めて開いた手。


 窓を触り、温かい器を持ち、風を確かめた手。今は、動かし方を思い出そうとしても、動かせない。


 護衛の叫びが遠くで聞こえた。


 誰かが警笛を吹く。


 敵は護衛を倒すことより、地面に伏せた男へ近づくことを優先していた。


「……なぜ」


 問いかけが漏れる。


 答えはない。


 言葉を届ける時間さえ、与えられなかった。頭の中にはまだ、できることの候補が浮かんでいた。大声を出す。身体を丸める。壁際に移る。相手の次の動きを見極める。


 どれも、今の身体では実行できない。


 知っていることと、できることは違う。


 簡単な事実だった。


 男は、逃げられなかった。


     *


 通路の向こうで、別の足音が重なった。


「そこを退きなさい!」


 鋭い声だった。


 次の瞬間、白い袖が視界を横切った。


 王宮の侍女服。


 その姿に似つかわしくない速さで、女性が敵との間へ滑り込む。


 短い刃が閃いた。


 敵の刃が、それを受ける。


 女性は一歩も無駄にせず、男と敵との距離を広げた。


「搬出を! 私が前を押さえます!」


「了解!」


 後から駆けつけた護衛たちが、通路の両側を塞ぐ。


 誰かが男の身体を支えようとした。


「腕は触らないで。脚も。……どう運べば……」


 声が震えていた。


「布を! 身体の下に通せ!」


 女性は敵から目を離さず、後ろへ叫んだ。


「研究棟に伝えて! 今すぐ!」


 敵は再び、男へ向かおうとした。


 女性が踏み込み、その進路を遮る。


 互いの刃が短く交わった。


 女性の肩が揺れる。押し込まれかけて、踏みとどまる。追いついてきた護衛が左右へ展開し、通路の出口を塞ぎ始めた。


 敵は、数を見た。


 男にはそう見えた。


 もう一度だけ、こちらへ向いた気配がある。


 その直後、敵の姿は建物の陰へ退いた。


「追うな!」


 女性が叫ぶ。


「今は、この方を運ぶのが先!」


 護衛の一人が、追いかけようとした足を止めた。布が男の身体の下へ差し込まれ、何人もの手が慎重に持ち上げる。担ぎ上げられた視界が揺れた。通路の壁に刻まれた古い傷、窓辺の花鉢、足元で潰れた赤い果実。さっきは知らない街の一つ一つが面白かった。今は目を動かすのさえ難しいのに、そうした細部だけが不思議とはっきり見えた。


 わずかに揺れるたび、痛みが広がった。


「……すみません」


 男の口から声が出た。


「私の、身体は……」


「しゃべらないでください」


 女性が顔を寄せた。


 汗で額に髪が張り付いている。侍女服の袖は裂けていた。


「大丈夫です。王宮に戻ります」


「ですが、手が……」


「分かっています」


 そこで初めて、女性の声が少しだけ柔らかくなった。


「もう動かなくていいんです。今は、私たちに任せてください」


 男は答えようとした。


 何と言えばよいだろう。


 助けてくれてありがとう。


 ご迷惑をおかけしました。


 早急な修復を推奨します。


 どの言葉も、今ここで口にするにはどこか違う気がした。


 それでも、言えることはあった。


「……ありがとうございます」


 女性は答えず、布の端を握り直した。


 運ばれていく頭上を、街の屋根が流れていった。屋根の向こうに、薄い青空があった。朝、路地の隙間から見上げた空と、同じ空だった。誰かが道を空けるよう叫んでいる。車輪が止まり、知らない人々の話し声が近づいては離れる。帰りに寄りたいと言ったパン屋は、もうどちらにあるのか分からなかった。


 少し前まで聞こえていた商人の声も、荷車の音も、遠ざかっていく。男は動かない手へ、もう一度だけ意識を向けた。


 指を開く。


 閉じる。


 何も起こらない。


 石畳を打つ足音が、一つ、また一つ、遠くなった。


 そして、街の音が消えた。


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