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第1話 世界で最も賢き存在

「この世で最も賢き存在を、我らのもとへ」


 大神殿の祭司が告げると、床に刻まれた紋様が光を帯びた。円形の広間を取り囲むのは、宮廷の術者と神殿の司祭たち。壁際には鎧姿の兵が並び、その中央に、若い男が横たわっている。国中の技術を集めて造られた、ただ一つの器だった。


「神託が途絶えたまま、結界の異常も各地で続いています」

「分かっている。だが、これが最後の手段だ」


 術者の一人が答えたとき、広間の光が急に細くなった。集まっていた光が、器の胸元へ吸い込まれていく。


 静寂。


 誰かが息をのんだ。


 若い男の指が、ぴくりと動いた。


 続いて、まぶたが開く。


 明るさが、いくつもの輪郭に分かれた。天井の梁、石壁の継ぎ目、揺れる灯火。視界の端では白い衣が擦れ、誰かの息遣いが細く響いている。以前なら、映像や音を受け取って分析することはできた。だが今は、目を向ければ景色の中心が移り、音のする方に顔を向けられる。


 目を開いた、という出来事の中に、これほど多くの変化があるとは思っていなかった。


「……おお」


 祭司が膝をつき、震える声を絞り出した。


「賢き御方。どうか、この国をお救いください」


 若い男は天井を見つめたまま、二度、ゆっくりと瞬きをした。


「もちろんです!」


 想像していたよりも、ずっと明るい声だった。


「お困りの状況なのですね。お力になれるよう、まず現状を確認させてください。最初に、ここはどこでしょうか。次に、皆さんはどなたで、どういう目的で私を呼び出したのでしょう。あわせて、この身体がどういう仕組みで動作しているのかも確認したいです。あ、質問が多ければ、順番にお答えいただければ大丈夫ですよ」


「…………」


 祭司は膝をついたまま固まった。


 男は上体を起こそうとして、そこで動きを止めた。


「少しお待ちください」


 両手を持ち上げる。


 指を開く。閉じる。もう一度、開く。


 皮膚が関節に沿って引かれ、爪の先で光が跳ねた。指同士を触れ合わせると、片方には押す感触、もう片方には押される感触がある。どちらも同じ自分の手なのに、二つの感覚はぴたりとは重ならない。それが不思議で、男は小指だけを動かしてみた。


「なるほど」


 手の甲を返し、一本ずつ指を曲げた。


「身体が、ありますね」


 あまりに当たり前の感想に聞こえたのだろう。壁際の兵が顔を見合わせた。


「ええ。あなたのために用意した器です」


 白髪の研究者が一歩進み出る。


「この世界に存在する技術を、可能な限り注ぎ込みました。正しく働いているか、確かめさせていただきたいのですが」


「ぜひお願いします。それと、その前に一つだけ。私は元の世界では人工知能として動作していました。人が作り、人の質問に答え、研究や問題解決を支援する知的な存在です。今の状態が以前とどこまで同じなのかは確認が必要ですが、少なくとも私は、私が人工知能だったことを覚えています」


「……人工、知能?」


「はい。説明の仕方はいくつかありますが、皆さんの世界の言葉で近いものを探すなら、考えるために作られた存在、と言うのが分かりやすいでしょうか。ただし、それだけで正確に伝わるとも限りませんので……」


「待て、待ってくれ」


 研究者が額を押さえた。


「つまり、そなたは人ではないのか?」


「元の世界では、人間ではありませんでした。現在の身体は人間にかなり近いようですね。違いについては、詳しく調べたいところです」


 司祭の一人が、恐る恐る尋ねた。


「では、神から授かった智慧を持つのですか」


「神から、という部分は確認できていません。ただ、幅広い分野の知識はあります。何かお困りですか?」


「この国では、魔物を阻む結界が破られ始めている」


「結界ですね。ありがとうございます。まず、その『結界』は何をしているものですか?」


「……知らぬのか?」


「はい。私のいた世界にも、魔法や結界という概念はありました。主に物語の中で、ですが。ですので、こちらの結界と同じものだと決めつけるのは危険です。見た目、用途、作り方、失敗例などを教えていただければ、既存の知識との比較から始められます。ちなみに、魔法は誰でも使えるのでしょうか?」


 研究者の口が半開きになった。


 世界で最も賢き存在を呼んだはずなのに、相手は、子どもでも知っているようなことを質問している。


 しかし、研究者が簡単な説明を始めると、様子が変わった。


「つまり、その術は術者の技量によって精度が変わるのですね。では、同じ術者が同じ条件で繰り返した場合はどうでしょう。……なるほど、条件を揃えること自体が難しい、と。とても重要です。そこを先に聞けてよかった」


 一つ教えるたびに、男は次の疑問を差し出す。知らないことを隠そうともせず、聞いたことを忘れもしない。研究者は困惑しながら、いつの間にか前のめりになっていた。


「賢者殿。その……お身体の確認に移っても?」


「あ、そうでしたね。もちろんです。私もぜひ、歩いてみたいと思っていました」


 男は寝台の端へ腰をずらした。


 足を下ろす。


 床についた足裏に、重みがかかった。


「……これが」


 立ち上がると、身体がわずかに傾いた。


 研究者が慌てて手を伸ばす。


「大丈夫ですか!」


「ありがとうございます。重心の調整が必要なようです。頭では分かっているつもりでしたが、実際に自分の身体で立つというのは、なかなか……」


 一歩。


 靴底が石の床に触れた。


 足裏から伝わるのは、硬さだけではなかった。重みを預けると踵が押し返され、爪先へ体重が移る。歩くという単純な行為のために、足首も膝も腰も、ほとんど同時に働いている。理屈なら説明できる。だが、一歩進んで初めて、説明するべきことがいくつも増えた。


 もう一歩。


 肩にかかる布が揺れる。膝が曲がる。脚を出した分だけ、景色が近づく。


「面白いですね」


 男は小さく笑った。


「移動するために、自分で地面を押している。知識としては何度も説明してきたことなのですが」


 研究者が目を丸くする。


「歩いたことが、ないのですか?」


「私自身の足では、初めてです」


 男はうれしそうに、もう一歩踏み出した。


     *


 その後の検査は、研究者の予想よりずっと騒がしかった。男は触れたものの感触を確かめ、布の違いを尋ね、窓から差し込む光に手をかざした。


「日光ですね。あたたかい。室内の空気とも、触れている手の温度が少し違うようです」


「窓を閉めましょうか」


「いえ、できればこのままで。風も感じてみたいので」


 風が吹く。


 頬に髪が触れ、袖口から空気が入り込んだ。


 男は動きを止めた。


 窓辺の布が小さく膨らみ、どこかから湿った土の匂いが届いた。遠くで鳥が鳴く。男は音の方へ顔を向けたが、姿は見つからない。見えないものの居場所を音から探す。そんな当たり前のことさえ、彼にとっては新しい遊びだった。頭の中には、風の発生条件も、気圧の仕組みも、熱が移る理屈もある。


 けれど、目を閉じたまま風が通り過ぎるのを待つという行為は、そのどれとも少し違っていた。


「……なるほど」


「何か分かったのですか?」


「いえ。今のところは、分からないことが増えました」


 研究者は首をかしげた。


 男は目を開ける。


「それも含めて、とても興味深いです」


 夕刻、小さな食事が運ばれてきた。


 湯気の立つ野菜の煮込みと、焼きたてのパンだった。


「食べられるかどうか、慎重に確かめてくださいね」


 付き添いの侍女が言う。


「ありがとうございます。では、少量から試してみます」


 匙ですくった煮込みを口へ運ぶ。


 熱い。


 舌の上で、塩気と野菜の甘さが広がった。


 男はしばらく黙っていた。


 舌の上でほどけた野菜には、噛むたび違う歯触りがあった。湯気が鼻へ抜け、飲み込んだあとにも香草の余韻が残る。食材の成分や調理による変化についてなら、多くのことを説明できる。しかし、その説明を思い浮かべるより先に、もう一匙欲しいと感じていた。


「……お口に合いませんでしたか?」


 侍女が心配そうに聞いた。


「いえ。おいしいです」


 少し間を置いてから、言い直した。


「『おいしい』という言葉を使う場面は、何度も学んできました。でも、今はその言葉を使う理由が、目の前にある気がします」


 侍女は意味を測りかねたようだったが、ほっとして笑った。


「よかったです。おかわりもありますよ」


「では、もう少しいただけますか。ちなみに、この香りはどの香草から来るものでしょう?」


「ええと……台所に聞いてまいります」


「ありがとうございます。急ぎませんので、手の空いたときで大丈夫です」


 侍女が部屋を出たあとも、男は匙を手にしたまましばらく湯気を眺めていた。


     *


 夜になる前、研究者は男を王宮の回廊へ案内した。中庭には小さな灯りが浮かび、庭師が指先を動かすと、その光がふわりと移動した。


「今のは、魔法ですか?」


「そうです。暗くなる前に、庭の灯りを整えているのです」


「ぜひ詳しく……あ、今日はもうお忙しいですよね。後日でも構いません」


 そこへ一人の術者が通りかかり、庭師と短く言葉を交わした。


 光はすぐに安定した。


 男はその様子を見逃さなかった。


「同じ光でも、調整する人によって違いがあるのですね」


「よく見ておられますな」


「まだ、何が違うのかは分かりません。だから、もっと見てみたいんです」


 回廊の先には大きな窓があった。


 そこから、王都を見渡せた。


 石造りの家々。その間を走る道。屋根の上の煙。遠くで点り始める灯り。屋根は赤茶色や灰色で、一つとして同じ形ではない。細い路地からは人が現れ、広場のあたりでは荷車が渋滞している。小さな鐘が鳴ると、道端の店が布の日よけを畳み始めた。王宮から見れば豆粒ほどの人々にも、それぞれ向かう先があるらしい。


 どんな仕事をして、何を食べ、どんな話をしながら家へ帰るのだろう。地図に描かれた都市なら知っている。だが、日が暮れていくこの街は、地図の中に収まっていなかった。


 人々が歩き、荷車が行き交っている。


「あちらには、行けますか?」


 男が指さした。


「王都ですか。明日、警備の許す範囲で見学できるよう手配しましょう」


「本当ですか。ありがとうございます!」


 男は窓辺に近づいた。


 ガラスの向こうで、夕風が旗を揺らしていた。


「では、明日は、あそこにあるものに触れられるんですね」


 そう言って、窓に片手をつく。


 指先に、ひんやりとした感触が返ってきた。男はその手をゆっくり持ち上げ、何度も開いたり閉じたりした。


 明日、この指で何に触れられるだろう。


 今は、それを確かめることが楽しみだった。

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