第10話 君が動ける、その前に
笛の音が谷を裂いた。
見張りの一人が森の外縁から戻ってくる。盾を背負った護衛がすれ違いざまに道を開け、後方では荷車の車輪止めが確かめられていた。ノアは指定された広場に立ったまま、短く息を吸った。
「ノア様、こちらへ」
リネットに肩を促され、塀の陰へ移る。つい先ほどまで夕陽に照らされていた村の道は、家々の影に沈み始めていた。遠くの畑には刈った草が積まれている。昨日、子どもたちが走っていた場所だ。
今日は誰もいない。
避難のために人が動き、荷物が運ばれ、扉が閉められた。その一つひとつが、いまようやく形を持って見える。
「外縁に三つの影を確認!」
戻った護衛が報告した。
「数は変わるかもしれん」と隊長は短く返す。「見張りは退け。盾は最初の柵へ。術者は維持と観測を分けろ。無理に追うな!」
護衛たちが配置につく。リネットはノアのすぐそばに立ち、村の入口と家々の陰を交互に見た。
少し離れた家の戸が、風を受けて鳴った。普段なら誰かが中から押さえに出てきただろう。今は誰も現れない。村人たちは先に退避している。ノアはそれを頭で理解していたが、空になった通りを前にすると、その静けさが思った以上に大きく感じられた。戦闘のための場所を作るには、まず誰かの暮らす場所から人を遠ざけなければならなかったのだ。
「覚えていますね」
「うん。ここから離れない。見えたことだけ、短く伝える」
「よろしい」
落ち着いた声だった。昨日の魔法練習で聞いた声と同じなのに、いまはひとつも余計な言葉がない。
ノアは、自分の掌を見ないようにした。光を出せることより、まずは周囲を見ることが仕事だった。
*
最初に現れた魔物は、街道で遭遇した獣に似ていた。背が硬く盛り上がり、四本の脚で地面を叩く。続いてもう一体が木立から飛び出し、少し遅れて三つ目の影が斜面を下った。
夕闇の中で動くものは、距離が分かりにくい。輪郭は見えても、足元の土が跳ねる音は、目で捉える位置と少しずれて聞こえた。
護衛の盾が並ぶ。その向こうには、村人たちが組んだ低い柵があった。太い木を横に渡し、後ろに荷車を置いた障害物だ。魔物は勢いを緩めず、先頭の一体が柵に突っ込んだ。
木が裂ける音がした。
柵の一部が砕け、縄が跳ねた。しかし突進した魔物の脚も止まる。すぐに飛び越えるはずだった場所で、身体が横へ流れた。その一瞬に護衛が位置を取り直し、盾の並びが狭い道を塞いだ。
「引きつけるな! そこで止めろ!」
隊長が叫ぶ。護衛たちは前へ出すぎず、槍と盾で距離を保った。
ノアは、その動きを見ていた。柵が壊れた。だが、失敗ではない。壊れるまでの間に、人が動けた。
別の魔物は、結界石の近くへ走り込んだ。石の向こう側で、確認用の術が細く光る。現地術者が安全な位置から反応を確かめていた。
「供給は維持! ……今、縁が揺れた!」
薄い線が一瞬だけ二重に見える。
魔物は走る。止まらない。石列の境を越え、内側の土へ爪を立てた。
「侵入を確認!」
術者は声を張ったが、記録帳に向き直らなかった。まず身を引き、護衛の背後へ移る。記録は後でまとめればいい。そう決めてあった。
ノアは石の向こうに目を凝らした。離れた区間では、別の術者が確認用の光を保っている。少なくとも結界のすべてが同時に消えたわけではない。
それでも、ここは通られた。
昨日まで紙の上に並んでいた事柄が、目の前の光景になっていた。
*
「住民の退避、確認済み!」
広場の反対側から報告が届く。隊長はすぐに命じた。
「第一の線を下げろ! 第二の柵まで後退!」
護衛たちが互いをかばいながら下がる。魔物の一体が壊れた柵を押し倒した。折れた木が道に転がり、土埃が舞い上がる。あと少し遅れていれば、盾を持つ人間がその下敷きになっていたかもしれない。
ノアの視線が、その木片を追う。大きな欠片は街道の真ん中へ落ち、小さな破片が横へ滑った。そこへ魔物が足を置き、わずかに身体を傾けた。
「足元、崩れる!」
護衛が一歩引き、横からの突進を避ける。ノアの声を聞いてくれたのか、それとも自分で見たのかは分からない。どちらでもよかった。怪我をせずに動けたことが大切だった。
リネットは前方から目を離さない。
「今の声は届きました。次も、まず短く」
「うん」
魔物の唸りが近づく。腹に響くような低い音だった。どこかで縄が切れ、張っていた板が地面に落ちる。
ノアは一瞬、あの通路を思い出した。突然、刃が近づいてきた場所。逃げる方向を理解しても、身体が動かなかった場所。
今も、足の裏に力が入っている。逃げる必要が生じたら、自分は素早く動けるだろうか。
「ノア様」
リネットの声がした。
「ここにいます。合図が出れば、一緒に退きます」
それだけ言って、彼女は視線を戻した。
ノアは小さくうなずいた。危険がなくなったわけではない。だが、今の位置も、次に進む道も決められている。
*
三体目の魔物が、正面の盾を避けるように道の端へ走った。古い石塀と家の壁の間には、村人しか使わない細い通路がある。昨日、ノアが教わった道だ。
護衛たちは正面に意識を向けていた。リネットの位置からは、石塀が死角になる。
だが、ノアのいる広場からは、塀の向こうで背の高い草が不自然に揺れるのが見えた。影が一つ、低い位置を滑る。ほんの少し遅れて、土を掻く爪が見えた。
ノアは言葉を探さなかった。
「左、塀の裏!」
リネットが振り向く。彼女の目は一瞬で塀の縁を捉え、次いで護衛の位置へ向かった。
「側面に一体! 塀の裏から来ます!」
彼女の声を聞き、隊長がすぐに手を上げた。
「側面を塞げ! ノアをさらに後ろへ!」
リネットはノアを背にかばい、二人で決めた退避路へ向かった。護衛が一人、もう一人と細道の入口へ回る。魔物が塀の向こうから頭を出したときには、すでに槍がその進路を向いていた。
魔物は急に向きを変える。石壁に爪が擦れ、白い粉が散った。槍の穂先がその肩をかすめ、護衛が横へ踏み込む。狭い通路では、大きな身体を思うように振り回せない。
「今だ、押し返せ!」
隊長の号令に合わせ、護衛たちが足場を奪う。魔物は前脚を滑らせ、壁にぶつかった。
ノアは、息を吐くのを忘れていた。
塀の角には昨日見た擦り跡が残っていた。村の人が荷車を通すたびについた古い傷だ。その同じ石壁に、今は魔物の爪が新しい線を刻んでいる。いつもの道が、戦う場所になっていた。もし、昨日住民から抜け道を聞いていなかったら。もし、塀の先が死角だと気づいていなかったら。視界の広さだけではなく、聞いてきた話が、いまの一言につながっていた。
先ほどの言葉は、間に合った。
でも、ここで安心してはいけない。まだ戦闘は続いている。
*
第二の退避路へ移る途中、ノアは掌に弱い光を灯した。塀の影にいる近くの護衛へ、決めていた合図を見せるためだ。布をかけ、外す。小さな灯りが一度だけ明滅した。
護衛が気づき、手を上げる。
「見えた!」
ノアはもう一度合図を出そうとした。だが、横からリネットに促され、歩幅を大きくした瞬間に光が崩れた。指先の明かりが揺れ、すぐに消える。
「あ……」
「切り替えてください!」
リネットの声に、ノアは笛を取り出した。決めた短い合図を吹く。乾いた音が塀の間を通り、近くの護衛が応じた。
ノアは指定の場所で立ち止まった。すぐに明かりを作り直そうとはしない。まず周囲を見て、足を止めてよい位置だと確かめる。そのうえで、再び掌を開いた。
今度は、弱くてもいい。
揺れない光を一つ。
静かな明かりが、指の上に浮かんだ。小さな布の縁が橙色に見える。使えるのは、近くで確認してもらうためのわずかな光。それでも、準備してきた役割を続けるには十分だった。
正面から金属のぶつかる音が響く。援護に回った術者の術が走り、盾役が生まれた隙を逃さない。魔物の一体が倒れ、もう一体も、護衛たちの連携で動きを止めた。
最後に細道へ回り込んだ魔物が、塀の陰で激しく暴れた。リネットはノアの位置を確かめ、隊長の合図を受けてから前へ出た。正面から飛びかかるのではなく、護衛が引きつけた横へ入り、短い刃で動きを断つ。魔物がよろめいたところを、別の護衛が仕留めた。
唸り声が消える。
「止まれ。周囲を確かめるまで、配置は解くな!」
隊長の号令が、すぐに静けさを押し戻した。
誰も勝ち名乗りを上げない。護衛は塀の裏を調べ、術者は結界の維持を確かめ、別の者が避難先へ連絡に走る。ノアも手元の光を消さず、次の指示を待っていた。
*
安全が確認されるころには、谷の空にほとんど明るさが残っていなかった。壊れた柵の向こうで、護衛が木片を片づけている。土には爪の跡と靴の跡が重なり、少し前まで何もなかった道が、別の場所のように見えた。
リネットが戻ってきた。裾には土がつき、額に細かな汗が浮いている。
「ノア様。お怪我はありませんか」
「ないよ。君は?」
「私は大丈夫です。……さっきの、塀の裏の報告ですが」
彼女は一度、正面の道を見た。
「今のは、先に聞けて助かりました」
ノアは目を上げた。
「……間に合った?」
「ええ。私には見えない位置でした。教えていただかなければ、こちらの確認が遅れたかもしれません」
「よかった」
その言葉が出たあとも、心臓のあたりは落ち着かなかった。ノアは掌を見た。灯りはいつの間にか消えていた。薄暗い中で、指を開こうとすると、かすかに震える。
役割は終わった。危険も遠ざかった。頭では分かるのに、身体はまだ次の音を待っているようだった。
「手が……うまく緩まない」
ノアが呟くと、リネットは隣に立った。
「いま、すぐに何かしなくても大丈夫です」
「でも、片づけや記録が……」
「まずは安全を確かめてから。隊長の指示が出ます」
彼はゆっくり、もう一度指を開こうとした。意識すれば動く。それなのに、力が抜けない。
以前、襲撃されたときは、動かせなくなった手を見つめていた。
今は動く手が、まだ戦いを終えられずにいた。
谷の向こうで、避難先の窓に明かりが灯った。風に揺れない、生活の光だ。そこには、帰るのを待っている人たちがいる。
ノアはその光をしばらく見つめてから、小さく息を吐いた。
明かりは消したはずだった。それでも、指のこわばりは、なかなか解けなかった。




