第11話 ありがとうの、そのあとで
朝になっても、村の道には昨夜の戦いが残っていた。
折れた柵が路肩へ寄せられ、土には幾筋もの深い爪跡が走っている。踏み砕かれた板からは新しい木の匂いがした。昨夜、あれほど大きく聞こえた魔物の唸りはもうない。代わりに、槌が釘を打つ乾いた音と、荷車の車輪が小石を踏む音が谷に響いていた。
ノアは広場の端で、その音を聞いていた。
人が歩く。物を運ぶ。壊れたところを直す。村は昨日と同じ場所にあるのに、そこで行われる仕事は変わっている。
「村の方々は、いつ戻れますか」
護衛から報告を受けていた隊長に尋ねると、彼は結界石の並ぶ斜面を見た。
「近い家の者は、もう少し待ってもらう。見張りが周囲を確認しているし、術者の検査も終わっていない。安全と言い切れんからな」
「分かった。昨夜の退避場所は、まだ使える?」
「ああ。食料も今朝分は運んだ。お前はどうだ。手は動くか」
ノアは両手を開閉した。指は指示どおりに曲がる。昨夜、しばらく抜けなかった力も、今はほとんど残っていない。
「動くよ。傷もない」
「なら、まず休め。現地の聞き取りは後だ。戦いが終わってすぐに人を質問攻めにするなよ」
「……そうだね。ありがとう」
隊長は短くうなずき、壊れた柵の向こうへ歩いていった。
ノアはその背を見送った。調べたいことは山ほどある。魔物が結界を通った瞬間、揺れた縁の位置、障害物が稼いだ時間。今すぐ確認を始めれば、忘れられてしまう情報もあるだろう。
けれど今、目の前の人たちが必要としているのは何だろう。
昨日までは、問いを与えられれば答えを探した。今日は誰も、彼に何をすべきか尋ねていない。
「……僕は、何をしたいんだろう」
声は朝の作業音に紛れた。
答えを探すように視線を巡らせると、広場の隅で村人が割れた桶を抱えていた。水を運ぼうとして底から漏れ、困っているようだった。
ノアはそちらへ歩いた。
「別の桶を持ってこようか」
「助かるよ。井戸の脇に一つあるはずだ」
「分かった」
*
村の補修が本格的に始まるころ、リネットは護衛たちと道の安全を確かめていた。
石塀の角には新しい傷が走り、その下に砕けた石が落ちている。彼女は足先で破片を避け、手を伸ばして塀の上の緩んだ石を確かめた。
「そこは後で組み直したほうがいいですね。荷車が触れれば落ちるかもしれません」
「分かった。印をつけておく」
護衛が木片を立てて目印にする。リネットは記録を確認し、次の場所へ移ろうとした。
「リネット」
振り向くと、ノアが水の入った桶を置いたところだった。
「右手、傷があるね」
リネットは自分の手を見た。手袋を外した指の付け根に、細い擦り傷ができている。昨夜、塀の角で体勢を変えたときについたものだろう。洗えば済む程度だった。
「これくらい、仕事のうちです」
「うん。深い傷には見えない。でも、土が入ると困るから」
「後で洗います。今は確認が先です」
「分かった」
ノアはそれ以上、傷を見せるよう求めなかった。
しばらくしてリネットが荷を取りに戻ると、道具箱の横に清潔な布と水の入った小さな器が置かれていた。傷の手当てに使うものだ。通路の邪魔にもならず、誰が置いたかを示す札もない。
ちょうど近くでノアが護衛と話している。
「……あれは、ノア様が?」
「うん。必要になったら使って。君はいつも僕のことを見てくれているから、今日は僕にもできることをと思ったんだ」
「お気遣い、ありがとうございます」
「どういたしまして」
それだけ言うと、彼は護衛の話を聞くために向き直った。
リネットは布を見た。
傷の処置を勧めるだけなら、誰でもできる。けれど、使うかどうかを自分に任せて、必要なものだけ置いていく。その距離の取り方を、彼女は頼んだ覚えがなかった。
「……まったく」
小さく呟いてから、器を手に取った。
*
昼前、ノアは家畜小屋の前に立っていた。
あの住民が、空になった仕切りの前で壊れた木枠を外している。開いた扉から日が差し、藁の一本一本に細い影が落ちていた。乾いた飼い葉の匂いは、家畜がいなくなっても変わらない。
「手伝えることはある?」
住民は工具を持ったまま顔を上げた。
「……結界を調べてる方でしょう。こんなところにいなくても」
「調査は術者の人たちが続けている。僕は、できることがあれば手伝いたい」
「そうですか。じゃあ、そこの板をまとめてもらえますか」
「もちろん」
ノアは壁に立てかけられた板を運んだ。一本は端が裂けていて、握る位置を変えないと指に棘が刺さりそうだった。見ただけでは重さを正確に知ることはできない。実際に持ち上げると、腕に予想より強い負荷がかかった。
住民はその様子をちらりと見て、少しだけ口元を緩めた。
「賢者様でも、重いものは重いんですね」
「うん。持ち方の工夫はできるけど、腕そのものは特別強くないんだ」
「何でもできるものかと」
「できないことのほうが、まだ多いよ」
板を外へ運び出すと、日向で細かな埃が舞った。小屋の中では、住民が木枠の釘を抜く音が続いている。打ち直せる板は残し、割れたものは別に積む。ノアは教えられたとおりに仕分けをした。
作業が一区切りついたころ、住民が空の餌箱の前で手を止めた。
「昨日も話しましたけど……あの日、小屋の戸は開けたんです」
「うん。覚えているよ」
「家族を先に逃がさなきゃいけなかった。あれしかなかったんです。でも、もう少し早く開けていれば、あいつらも……」
言葉が途切れた。
ノアは状況を思い浮かべた。魔物の接近。家族の避難。限られた時間と、一人で連れていける数。逃げ道を確保しながら家畜を一頭ずつ誘導するのは、現実的ではなかったはずだ。
まず、判断の妥当性を伝えよう。それが役立つと思った。
「家族の安全を先に確保したのは、間違った判断じゃないよ。あの状況で全員を逃がすことは難しかった。戸を開けたのも、できる限りのことをした結果だと思う」
住民は黙って聞いていた。
「だから、あなたが悪いわけではない」
しばらくして、住民が顔を上げた。
「……ありがとうございます。そう言ってもらえると、助かります」
「うん」
礼が返ってきた。
ノアは、自分の言葉が届いたのだと思った。少なくとも、住民は否定しなかった。次の作業へ戻るだけの落ち着きもあるように見える。
しかし住民は、空の餌箱を外すとき、そこに残った藁を指で拾い集めた。捨てるための藁なのに、一本ずつ確かめるような手つきだった。
「この箱、もう使わないでしょうね」
呟いた声は、先ほどと変わらず重かった。
ノアは何か続けて言おうとした。家畜を新しく迎える手段なら調べられる。負担を減らすための方法も考えられる。
けれど今、その提案をしてよいのか分からなかった。
「……僕は、外の板を運んでおくよ」
住民はうなずいた。
*
午後になって、リネットが小屋を訪れた。
ノアは別の護衛と集会所へ向かっており、小屋には住民だけが残っている。巡回を終えたリネットは、戸口の壊れた金具を一度見てから、外に散らばる道具へ視線を移した。
「こちら、片づけてもよろしいですか」
「ええ。でも、護衛の方にまでそんなことを」
「人手が必要でしょうから」
リネットは膝を折り、土の上に転がった釘や木片を拾い始めた。板の上に釘を分けて置き、使えそうなものだけ小箱に入れる。
住民もしばらく黙って作業していた。
「……朝になると、まだ声をかけそうになるんです」
リネットは顔を上げなかった。ただ、手を止めて聞いた。
「一番小さいのが、よく餌箱を蹴ってね。まだ入ってるのに、もっと寄越せって。うるさくて、毎朝叱ってた」
「そうだったんですね」
「いつも一番先に寄ってくるんですよ。ほかの二頭を押しのけて。……本当に、手のかかるやつで」
住民は笑おうとして、うまく笑えなかった。
リネットは道具を拾う手を動かした。何か励ます言葉を選べばよいのかもしれない。けれど、自分にもその言葉が分からない。
「それでも、毎朝会うのが楽しみだったんですね」
「……ええ」
返事があった。
しばらく二人で木片を分けた。間に沈黙が落ちても、リネットは急いで埋めなかった。やがて住民は、壊れた留め金の癖や、雨の日に小屋の奥へ藁を寄せていたことまで話し始めた。
話が終わるころには、小箱が釘で半分ほど埋まっていた。
「助かりました」
「いえ。残りは明日でもよいと思います。今日は、ここまでにしませんか」
「……そうですね。今日はここまでにします」
住民は餌箱を外さず、壁際へ寄せた。
リネットはその選択について、何も言わなかった。
*
夕刻、ノアは小屋の近くでリネットと合流した。護衛の交代を待つ間、二人は道の脇に積まれた板を見ていた。
「さっき、あの人と話したんだね」
「はい。片づけを少し手伝いました」
「僕も手伝ったよ。それから、家畜を逃がせなかったことを気にしていたから、判断は間違っていなかったと説明した」
「……そうですか」
「ありがとうと言ってくれた。でも、そのあとも、つらそうだった」
ノアは手の中の小さな木片を見た。角が丸く擦れている。ずっと使われていた道具の一部だった。
「君は、何を言ったの?」
「大したことは。あの方が話されたことを聞いていただけです」
「それだけで?」
「……私にも、何を言えばいいのか分かりませんでした」
リネットは少し困ったように笑った。
「ただ、あそこで一人で片づけるのは、つらいかもしれないと思ったので」
ノアは小屋を見た。戸口には夕陽が細く差している。昼間、自分が聞いたときには外されかけていた餌箱が、まだ壁際に置かれていた。
「僕は、正しい説明をすれば少しは楽になると思ったんだ」
「少しは、そうだったかもしれませんよ」
「……そうかな」
「はい。助かったと仰ったなら、その言葉も本当かもしれません。でも、それで全部片づくわけではありませんから」
ノアは静かにうなずいた。
知っていることを伝える。相手が礼を言う。そこまでは、今まで何度も繰り返してきた。けれど、礼を言った人がその後どうしているのか、自分はどれほど知っていただろう。
「明日も、あの人の片づけを手伝いたい」
「では、隊長に時間を確認しましょう。調査の予定もありますから」
「うん。それから、何を片づけるかは、あの人に聞きたい。全部なくしてしまったら、困るものもあると思う」
リネットが彼を見た。
「……そうですね。それがいいと思います」
ノアはもう一度、小屋のほうを向いた。
明日もここに来たいと思った。
その理由を、まだうまく説明できなかった。
*
夜、リネットは宿の部屋で手袋を外した。
指の付け根の擦り傷は、もう洗ってある。机の上に置いた清潔な布で、水気を押さえた。昼間、ノアが用意してくれたものだ。
『君はいつも僕のことを見てくれているから』
何の気負いもない声だった。
短く、穏やかに、必要なことだけを伝える。確かに、そういう話し方にしてほしいと自分が頼んだ。
(……でも、手当ての道具を置いていくように、とは頼んでいません)
布の端を指でそろえる。
彼は自分が望んだ口調で話す。けれど、何を見て、どこで足を止め、誰の手助けをするかまで、こちらが決めているわけではない。
(それは、ノア様が……)
そこまで考えて、リネットは思考を中断した。
「明日の警護を確認しないと」
独り言にしてから、布を丁寧に畳む。少しだけ口元が緩んでいることには、気づかないふりをした。
*
ノアは部屋の窓を開け、村の灯りを眺めていた。
夜風に乗って、修理に使った木の匂いがかすかに届く。集会所ではまだ人の声がしていた。戦いは終わったが、明日も直さなければならない場所がある。
今日、住民は礼を言ってくれた。リネットにも礼を言ったのだろう。どちらの言葉が正しかったかを競うことに、意味はなかった。
それでも、二人が小屋を出たあとのことが気になった。
「……話し終わったことと、楽になったことは違うんだね」
口にしても、結論にはならない。明日、どんな言葉をかければよいのかも、まだ分からなかった。
ただ、木片を運ぶことはできる。何を残したいかを尋ねることもできる。
窓を閉める前に、ノアは明日の予定を一つ付け加えた。
誰かの質問に答えるためではなく、自分で決めた予定だった。




