↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/17

第16話 賢者様なら、きっと

 翌朝、ノアが机の上の紙を片づけていると、廊下から何人分もの足音が近づいてきた。


 開け放した窓からは、王宮の中庭が見える。庭師が濡れた石の縁を箒で掃き、枝から落ちた雫が、陽を受けて一瞬だけ光った。少し離れた厨房の方からは、焼いたパンと温めた香草の匂いが流れてくる。


 昨日の焼き菓子の包みは、もう空だった。


 それでも、あの薄い生地が口の中で砕ける音は覚えている。ノアは予定表の端に書いた『また、あの店へ行きたい』という一行を見て、少しだけ口元を緩めた。


「ノア様。お時間をいただけますか」


 扉を叩いたのは、王宮の執務を取りまとめる文官だった。後ろには書類を載せた台車があり、二人の職員がそれを慎重に支えている。


「もちろん。今日は何を調べるの?」

「昨日のご報告が各部署へ伝わりまして。これまで別々に扱っていた相談を、一度賢者様にも見ていただきたいという話になりました」

「いいよ。まずは順番と、回答が必要な時期を確認したい」


 文官は少しほっとした顔をした。


「すべてはお渡しできません。内容を確認し、王宮の窓口を通すことになっています」

「それがいいと思う。僕に見せてはいけない情報もあるだろうし、担当の人を飛ばすと、判断に必要な事情が抜けてしまうから」


 文官が頷く。台車から下ろされた束には、紐の色も紙の大きさも違う書類が混じっていた。紙端に付いた土、何度も折り直された地図、押しつぶされた封蝋。机に並べると、それぞれが別の場所から長い道を通ってきたことが分かる。


     *


 最初に広げられたのは、川に架かる橋の修繕計画だった。


「三案あります。費用を抑える案、通行を止める日を短くする案、橋の一部を残して作業する案です。どれを採るか、判断がつかなくて」


 文官が説明する間にも、ノアは図面と工程表を交互に見ていた。橋脚の間隔、資材の運搬先、川沿いの倉庫。工事の手順自体は現地の技師がきちんと考えている。


「この三案は、どれも成り立つと思う。ただ、費用の表だけを見て選ばないほうがいいね」

「と、おっしゃいますと?」

「橋を通れない日の荷車は、どこを通る予定?」

「南の街道へ迂回します。こちらに別の表が」


 文官が紙を一枚抜き出す。ノアはその紙の上へ、今度は物資の配分予定を重ねた。


「……あれ?」


 その声に、書記が顔を上げた。


「こっちの穀物の輸送と、橋の修繕で使う石材の輸送。日付の書き方は違うけど、同じ輸送組の荷車を使うことになっている」

「部署が別ですので、手配先も別かと」

「手配を受けた窓口は違う。でも、この印と荷車の台数が一致している。間違いかもしれないから、確認してほしい」


 ノアは二つの予定表から、重なっている日を拾い出した。片方は作業の開始日から数え、もう片方は出発する日で記している。単純に日付だけを横へ並べても気づきにくい。


「両方の予定どおりに動くと、この三日間だけ必要な荷車が足りない計算になる。特にこの日は、橋を避けたい荷と、橋を直すための荷が同じ道に集まる」

「……そこは見ておりませんでした」

「現地の道幅や、荷を運ぶ回数によっては問題にならないかもしれない。橋の担当者と輸送組に、実際に回せる台数を確認してもらえる?」


 ノアが紙に書いたのは、一枚の簡単な表だった。日付、荷車の必要数、手配済みの数、確認が要る箇所。それぞれに印を付けると、文官は目を見開いた。


「これなら、担当同士ですぐ話ができます」

「うん。工事を決める前に聞けば、後から誰かが困るのを減らせると思う」


 職員たちが書類を持って出ていく。ひとりが扉のところで振り返った。


「賢者様なら、こういうこともすぐにお分かりになるのですね」


 ノアは「一人では分からなかったよ」と答えた。道の状態も、荷車を動かす人の都合も、紙には書いていないのだから。


 それでも、複数の紙が一つにつながった瞬間は、面白かった。


     *


 午前のうちに、次の資料が運ばれてきた。


 国の倉庫に保管されていた古い文書の写しだった。端の文字は薄れ、同じ言葉が場所によって違う形で記されている。解読を担当する研究者は、机に腰を下ろすなり難しい顔をした。


「読めない文字ばかりではありません。大部分は読めます。しかし、この一語だけが、どの記録でも意味を決められないのです」

「前後の文章を見せてもらえる?」


 ノアは研究者が持ってきた写しと、対照用の文書を順にめくった。紙の手触りはどれも違い、古い写本には指でなぞったようなかすれが残っている。


「この印は、人の名前として読まれているんだね」

「ええ。そうでなければ文章が通らず」

「でも、ここでは同じ印の後に人数が書かれている。名前なら少し不自然かもしれない」


 研究者が身を寄せた。


「確かに。では、何の意味で?」

「断定はできない。ただ、記録の表題が全部、保管品の移動に関係している。この言葉を人名ではなく、荷を受け取る場所や役目として置き換えると、他の箇所も読めないかな」


 研究者は自分の手帳を開き、急いで書き込んだ。


「……それなら、こちらの二行も説明がつく。いや、待ってください。別の時代の文書では、その用法がありません」

「その時代に言葉の使われ方が変わった可能性もあるね。でも、僕はこの国の昔の呼び名を知らない。そこはあなたに教えてほしい」


 研究者が、勢いよく顔を上げた。


「承知しました。倉庫の記録だけでなく、当時の地名の一覧も調べます」

「見つかったら、もう一度一緒に確かめよう」


 老人は写しを大事そうに抱え、何度も礼を言って出ていった。


 そのあとも、紙の束は減らなかった。橋の計画を確認しに来る人、物資の表を持ち帰る人、研究者から新たな照合先を尋ねる使い。窓口で整理された相談だけが届いているはずなのに、ひとつ答えると次の質問が生まれる。


 ノアは質問に答えた。必要なら別の資料を探し、比較のための表を作り、確信の持てないところには印を付けた。


 昼の鐘が鳴ったとき、机の上にはまた新しい束が載っていた。


「賢者様なら、こちらの配分案も」

「賢者様なら、明日までに」

「賢者様なら、きっと」


 その言葉が、別々の声で繰り返された。


 役に立てる。相談された問題をほどくことができる。それだけでなく、相手が安心した顔になるのを見るのが、今は嬉しい。


 次の書類へ手を伸ばす理由を、ノアはうまく一つに絞れなかった。


     *


「ノア様。休憩のお時間です」


 リネットが湯気の立つ茶を運んできた。窓からの光はすでに傾き始め、机の端に積まれた紙の影が長く伸びている。


「ありがとう。これを一つ確認したら、休もうと思う」

「先ほども、同じことをおっしゃいました」

「そうだった?」

「ええ。三つ前の束のときです」


 ノアは手を止めた。


「……本当だ。次が見つかるたびに、休む区切りを後ろへずらしていた」

「身体の検査を終えたばかりです。無理をしてよい理由にはなりません」

「うん。続けられることと、続けたほうがいいことは別だね」


 ノアは筆記具を置き、茶を受け取った。薄い湯気が指先を包み、口にすると少し苦い香りが広がる。庭からは葉を払う音が聞こえ、窓の桟に落ちた影が風で揺れた。


 リネットは机の横に立ったまま、書類の位置をそろえ始めた。


「君も、まだ座っていないよね」

「私は勤務中ですので」

「でも、朝から僕の部屋と連絡先を何度も行き来していた。それに、君も休憩の時間じゃない?」

「護衛の引き継ぎは済んでおりますから、問題はありませんが……」

「じゃあ、座ろう。茶も一緒に飲まない?」


 リネットは一瞬、困ったように目を伏せた。


「休憩まで仕事にしないでください、と申し上げたいところですけれど」

「うん?」

「……私も、休憩の時間を使ってノア様のお世話をしようとしていました」


 二人は顔を見合わせた。


 先に笑ったのはリネットだった。ノアもつられて笑う。


「じゃあ、お互いに少しだけ何もしない時間にしよう」

「それがよろしいかと」


 リネットは椅子を引き寄せ、窓の方へ腰を下ろした。


 しばらく、二人とも話さなかった。廊下を行く職員の足音が遠ざかり、どこかで布を干すために棒を動かす音がする。王宮の中でも、人々の一日は書類だけでできているわけではない。


「昨日のお菓子、もう一度食べたいな」

「……もう、ですか?」

「うん。今度は君が選ばなかった方も、食べてみたい」

「そうでしたら、次に外出の許可が出たときに」

「それを楽しみにしているよ」


 リネットは茶の器を口元に運んだ。


 ノアは、椅子に座ったまま窓の外を見た。何も頼まれていない短い時間も、思ったほど退屈ではなかった。


 けれど、休憩が終わると、また机へ戻りたくなる。


     *


 数日後、王宮の窓口を通して、一通の手紙が届いた。


 封には大神殿に併設された治療院の印があった。ノアは文字を追い、途中で一度読み返した。


「何かありましたか?」


 リネットの問いに、ノアは手紙を持ち上げた。


「治療術について、相談が来ている。けれど、患者をすぐに治してほしいという依頼じゃない」

「では?」

「同じ術を使っても、効き始めるまでの時間が違うことがあるらしい。術者の疲れや、患者の状態だけでは説明しきれない例があるって」


 治療院の主任は、以前から記録を見比べていたらしい。ある日には術の光が現れてまもなく症状が和らぎ、別の日には、同じ処置のあと長く待つことがあった。


 手紙の文面は慎重だった。治療に失敗したと断じてはいないし、すべての患者に同じことが起きたとも書かれていない。分からないことを、分からないと記している。


「村の結界と似ていますか?」

「似ているところはある。見かけ上、術が働いているのに、期待した結果がすぐには出ない。でも、それだけで同じ原因だとは言えないよ」


 ノアは、村で手に入れた記録を思い出した。結界の縁の揺らぎ、確認術への応答の遅れ、内側に残った魔物の痕跡。あのときも、最初に必要だったのは、何を正常と呼んでいるかを確かめることだった。


「治療のことは、現地の人たちのほうが知っている。僕が今できるのは、何を比べればいいか一緒に考えることだと思う」

「お引き受けになりますか」


 ノアは、手紙の端へ目を落とした。


 『賢者様なら、きっとお力を貸してくださると信じています』。


 今日まで何度も目にした言葉だった。望まれれば応じる。それだけなら、慣れている。


 けれど先日、神殿の石段で、治療を待つ人々を見た。誰かに支えられながら扉をくぐった人。布を抱え、急いで廊下を行った人。あの人たちが今、どんな時間を過ごしているのか、ノアは知らない。


「……行ってみたい」


 リネットが少し顔を上げた。


「依頼されたから、でしょうか」

「それもある。でも、手紙だけでは分からないことを、僕自身が確かめたい。今度は、待っている人の話も聞きたいんだ」


 王宮は視察の目的と警護の条件を確認し、治療院側と日程を合わせることになった。ノアは現地の治療を妨げない範囲で調査することを求め、主任からの説明を先に受けられるよう申し添えた。


 正式な許可が下りたと告げられたとき、ノアはもう一度手紙を開いた。


 最後の一行には、こう書かれていた。


『術が成功した記録と、患者が楽になった時刻が一致しないのです』。


 窓の向こうでは、夕暮れの鐘が鳴り始めていた。


 鐘の音はゆっくり広がり、やがて聞こえなくなる。


 その間、誰かは治るのを待っている。


 ノアは手紙を静かに畳んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。