第16話 賢者様なら、きっと
翌朝、ノアが机の上の紙を片づけていると、廊下から何人分もの足音が近づいてきた。
開け放した窓からは、王宮の中庭が見える。庭師が濡れた石の縁を箒で掃き、枝から落ちた雫が、陽を受けて一瞬だけ光った。少し離れた厨房の方からは、焼いたパンと温めた香草の匂いが流れてくる。
昨日の焼き菓子の包みは、もう空だった。
それでも、あの薄い生地が口の中で砕ける音は覚えている。ノアは予定表の端に書いた『また、あの店へ行きたい』という一行を見て、少しだけ口元を緩めた。
「ノア様。お時間をいただけますか」
扉を叩いたのは、王宮の執務を取りまとめる文官だった。後ろには書類を載せた台車があり、二人の職員がそれを慎重に支えている。
「もちろん。今日は何を調べるの?」
「昨日のご報告が各部署へ伝わりまして。これまで別々に扱っていた相談を、一度賢者様にも見ていただきたいという話になりました」
「いいよ。まずは順番と、回答が必要な時期を確認したい」
文官は少しほっとした顔をした。
「すべてはお渡しできません。内容を確認し、王宮の窓口を通すことになっています」
「それがいいと思う。僕に見せてはいけない情報もあるだろうし、担当の人を飛ばすと、判断に必要な事情が抜けてしまうから」
文官が頷く。台車から下ろされた束には、紐の色も紙の大きさも違う書類が混じっていた。紙端に付いた土、何度も折り直された地図、押しつぶされた封蝋。机に並べると、それぞれが別の場所から長い道を通ってきたことが分かる。
*
最初に広げられたのは、川に架かる橋の修繕計画だった。
「三案あります。費用を抑える案、通行を止める日を短くする案、橋の一部を残して作業する案です。どれを採るか、判断がつかなくて」
文官が説明する間にも、ノアは図面と工程表を交互に見ていた。橋脚の間隔、資材の運搬先、川沿いの倉庫。工事の手順自体は現地の技師がきちんと考えている。
「この三案は、どれも成り立つと思う。ただ、費用の表だけを見て選ばないほうがいいね」
「と、おっしゃいますと?」
「橋を通れない日の荷車は、どこを通る予定?」
「南の街道へ迂回します。こちらに別の表が」
文官が紙を一枚抜き出す。ノアはその紙の上へ、今度は物資の配分予定を重ねた。
「……あれ?」
その声に、書記が顔を上げた。
「こっちの穀物の輸送と、橋の修繕で使う石材の輸送。日付の書き方は違うけど、同じ輸送組の荷車を使うことになっている」
「部署が別ですので、手配先も別かと」
「手配を受けた窓口は違う。でも、この印と荷車の台数が一致している。間違いかもしれないから、確認してほしい」
ノアは二つの予定表から、重なっている日を拾い出した。片方は作業の開始日から数え、もう片方は出発する日で記している。単純に日付だけを横へ並べても気づきにくい。
「両方の予定どおりに動くと、この三日間だけ必要な荷車が足りない計算になる。特にこの日は、橋を避けたい荷と、橋を直すための荷が同じ道に集まる」
「……そこは見ておりませんでした」
「現地の道幅や、荷を運ぶ回数によっては問題にならないかもしれない。橋の担当者と輸送組に、実際に回せる台数を確認してもらえる?」
ノアが紙に書いたのは、一枚の簡単な表だった。日付、荷車の必要数、手配済みの数、確認が要る箇所。それぞれに印を付けると、文官は目を見開いた。
「これなら、担当同士ですぐ話ができます」
「うん。工事を決める前に聞けば、後から誰かが困るのを減らせると思う」
職員たちが書類を持って出ていく。ひとりが扉のところで振り返った。
「賢者様なら、こういうこともすぐにお分かりになるのですね」
ノアは「一人では分からなかったよ」と答えた。道の状態も、荷車を動かす人の都合も、紙には書いていないのだから。
それでも、複数の紙が一つにつながった瞬間は、面白かった。
*
午前のうちに、次の資料が運ばれてきた。
国の倉庫に保管されていた古い文書の写しだった。端の文字は薄れ、同じ言葉が場所によって違う形で記されている。解読を担当する研究者は、机に腰を下ろすなり難しい顔をした。
「読めない文字ばかりではありません。大部分は読めます。しかし、この一語だけが、どの記録でも意味を決められないのです」
「前後の文章を見せてもらえる?」
ノアは研究者が持ってきた写しと、対照用の文書を順にめくった。紙の手触りはどれも違い、古い写本には指でなぞったようなかすれが残っている。
「この印は、人の名前として読まれているんだね」
「ええ。そうでなければ文章が通らず」
「でも、ここでは同じ印の後に人数が書かれている。名前なら少し不自然かもしれない」
研究者が身を寄せた。
「確かに。では、何の意味で?」
「断定はできない。ただ、記録の表題が全部、保管品の移動に関係している。この言葉を人名ではなく、荷を受け取る場所や役目として置き換えると、他の箇所も読めないかな」
研究者は自分の手帳を開き、急いで書き込んだ。
「……それなら、こちらの二行も説明がつく。いや、待ってください。別の時代の文書では、その用法がありません」
「その時代に言葉の使われ方が変わった可能性もあるね。でも、僕はこの国の昔の呼び名を知らない。そこはあなたに教えてほしい」
研究者が、勢いよく顔を上げた。
「承知しました。倉庫の記録だけでなく、当時の地名の一覧も調べます」
「見つかったら、もう一度一緒に確かめよう」
老人は写しを大事そうに抱え、何度も礼を言って出ていった。
そのあとも、紙の束は減らなかった。橋の計画を確認しに来る人、物資の表を持ち帰る人、研究者から新たな照合先を尋ねる使い。窓口で整理された相談だけが届いているはずなのに、ひとつ答えると次の質問が生まれる。
ノアは質問に答えた。必要なら別の資料を探し、比較のための表を作り、確信の持てないところには印を付けた。
昼の鐘が鳴ったとき、机の上にはまた新しい束が載っていた。
「賢者様なら、こちらの配分案も」
「賢者様なら、明日までに」
「賢者様なら、きっと」
その言葉が、別々の声で繰り返された。
役に立てる。相談された問題をほどくことができる。それだけでなく、相手が安心した顔になるのを見るのが、今は嬉しい。
次の書類へ手を伸ばす理由を、ノアはうまく一つに絞れなかった。
*
「ノア様。休憩のお時間です」
リネットが湯気の立つ茶を運んできた。窓からの光はすでに傾き始め、机の端に積まれた紙の影が長く伸びている。
「ありがとう。これを一つ確認したら、休もうと思う」
「先ほども、同じことをおっしゃいました」
「そうだった?」
「ええ。三つ前の束のときです」
ノアは手を止めた。
「……本当だ。次が見つかるたびに、休む区切りを後ろへずらしていた」
「身体の検査を終えたばかりです。無理をしてよい理由にはなりません」
「うん。続けられることと、続けたほうがいいことは別だね」
ノアは筆記具を置き、茶を受け取った。薄い湯気が指先を包み、口にすると少し苦い香りが広がる。庭からは葉を払う音が聞こえ、窓の桟に落ちた影が風で揺れた。
リネットは机の横に立ったまま、書類の位置をそろえ始めた。
「君も、まだ座っていないよね」
「私は勤務中ですので」
「でも、朝から僕の部屋と連絡先を何度も行き来していた。それに、君も休憩の時間じゃない?」
「護衛の引き継ぎは済んでおりますから、問題はありませんが……」
「じゃあ、座ろう。茶も一緒に飲まない?」
リネットは一瞬、困ったように目を伏せた。
「休憩まで仕事にしないでください、と申し上げたいところですけれど」
「うん?」
「……私も、休憩の時間を使ってノア様のお世話をしようとしていました」
二人は顔を見合わせた。
先に笑ったのはリネットだった。ノアもつられて笑う。
「じゃあ、お互いに少しだけ何もしない時間にしよう」
「それがよろしいかと」
リネットは椅子を引き寄せ、窓の方へ腰を下ろした。
しばらく、二人とも話さなかった。廊下を行く職員の足音が遠ざかり、どこかで布を干すために棒を動かす音がする。王宮の中でも、人々の一日は書類だけでできているわけではない。
「昨日のお菓子、もう一度食べたいな」
「……もう、ですか?」
「うん。今度は君が選ばなかった方も、食べてみたい」
「そうでしたら、次に外出の許可が出たときに」
「それを楽しみにしているよ」
リネットは茶の器を口元に運んだ。
ノアは、椅子に座ったまま窓の外を見た。何も頼まれていない短い時間も、思ったほど退屈ではなかった。
けれど、休憩が終わると、また机へ戻りたくなる。
*
数日後、王宮の窓口を通して、一通の手紙が届いた。
封には大神殿に併設された治療院の印があった。ノアは文字を追い、途中で一度読み返した。
「何かありましたか?」
リネットの問いに、ノアは手紙を持ち上げた。
「治療術について、相談が来ている。けれど、患者をすぐに治してほしいという依頼じゃない」
「では?」
「同じ術を使っても、効き始めるまでの時間が違うことがあるらしい。術者の疲れや、患者の状態だけでは説明しきれない例があるって」
治療院の主任は、以前から記録を見比べていたらしい。ある日には術の光が現れてまもなく症状が和らぎ、別の日には、同じ処置のあと長く待つことがあった。
手紙の文面は慎重だった。治療に失敗したと断じてはいないし、すべての患者に同じことが起きたとも書かれていない。分からないことを、分からないと記している。
「村の結界と似ていますか?」
「似ているところはある。見かけ上、術が働いているのに、期待した結果がすぐには出ない。でも、それだけで同じ原因だとは言えないよ」
ノアは、村で手に入れた記録を思い出した。結界の縁の揺らぎ、確認術への応答の遅れ、内側に残った魔物の痕跡。あのときも、最初に必要だったのは、何を正常と呼んでいるかを確かめることだった。
「治療のことは、現地の人たちのほうが知っている。僕が今できるのは、何を比べればいいか一緒に考えることだと思う」
「お引き受けになりますか」
ノアは、手紙の端へ目を落とした。
『賢者様なら、きっとお力を貸してくださると信じています』。
今日まで何度も目にした言葉だった。望まれれば応じる。それだけなら、慣れている。
けれど先日、神殿の石段で、治療を待つ人々を見た。誰かに支えられながら扉をくぐった人。布を抱え、急いで廊下を行った人。あの人たちが今、どんな時間を過ごしているのか、ノアは知らない。
「……行ってみたい」
リネットが少し顔を上げた。
「依頼されたから、でしょうか」
「それもある。でも、手紙だけでは分からないことを、僕自身が確かめたい。今度は、待っている人の話も聞きたいんだ」
王宮は視察の目的と警護の条件を確認し、治療院側と日程を合わせることになった。ノアは現地の治療を妨げない範囲で調査することを求め、主任からの説明を先に受けられるよう申し添えた。
正式な許可が下りたと告げられたとき、ノアはもう一度手紙を開いた。
最後の一行には、こう書かれていた。
『術が成功した記録と、患者が楽になった時刻が一致しないのです』。
窓の向こうでは、夕暮れの鐘が鳴り始めていた。
鐘の音はゆっくり広がり、やがて聞こえなくなる。
その間、誰かは治るのを待っている。
ノアは手紙を静かに畳んだ。




