第15話 君が好きなものを
王宮の門を出ると、午後の光が石畳を白く照らしていた。
城壁の内側では、靴音はよく磨かれた石に軽く響く。ところが城下へ続く坂を下りるにつれ、道には車輪の擦った筋が増え、石と石の継ぎ目から乾いた土が顔を出す。荷車の通ったあとに残った藁を、店の前の人が箒で寄せていた。
ノアは足を少し緩めた。
「同じ石畳でも、こんなに違うんだね」
「城下は人も荷車も多いですから。足元にはお気をつけください」
「うん。……あの箒、先が随分減っている」
「毎朝使っていますからね」
店の人は、どれほどの朝をここで迎えたのだろう。村で見た薪割り台もそうだった。道具には、使った人の時間が残る。
前後には王宮の護衛がついている。人通りの多い場所では自然に歩幅を合わせ、通りの角では先に目を走らせた。リネットも普段と変わらず周囲を確かめている。ただ、ノアの隣を歩く距離は、報告室へ向かうときより少し近かった。
「焼き菓子のお店は、まだ遠い?」
「二つ先の通りです。昼の混雑は落ち着いたころでしょう」
「よく知っているんだね」
「時刻を間違えると、目当ての品がなくなりますので」
「何度も来たことがあるんだ」
「……ええ。休みの日に、たまに」
リネットの声がわずかに小さくなった。
ノアはそれ以上尋ねず、通りの向こうを眺めた。籠に盛られた赤い果物、陽を透かす薄布、革細工の店先に吊るされた小さな袋。商人の声が重なり、何を売っているのか分からないほど賑やかだった。そこへ鐘の音が一つ落ちると、遠い音だけが不思議なくらい澄んで聞こえた。
そして次の外出では、突然の襲撃に遭った。
荷車とすれ違う一瞬、ノアは反射的に道の幅と護衛の位置を確かめた。リネットが気づいたのか、何も言わず半歩だけ外側へ出る。荷車は鈍い音を立てて通り過ぎ、それきりだった。
ノアは菓子の焼ける匂いに気づいた。
「……ここかな」
「ええ。もうすぐです」
小麦を焼く香ばしさの奥に、温められた砂糖の甘い匂いがあった。目には見えないのに、匂いは角を曲がるより先に店の存在を知らせていた。
*
店は、二人並んで入れば通路が埋まるほどの小さな造りだった。
窓の下には木製の棚があり、浅い盆の上に焼き菓子が並んでいる。縁がこんがり色づいた丸いもの、細長く捻られたもの、表面に小さな割れ目が入ったもの。奥の窯では新しい菓子が焼かれているらしく、扉が開くたび熱い空気が店内へ押し寄せた。
店先で護衛が位置を確かめ、二人が中へ入る。焼き立てを受け取った客が紙包みを抱え、嬉しそうにすれ違った。
「いらっしゃい。今日はまだ少し残ってるよ」
店主の声に、リネットが親しげに頭を下げた。
「よかった。いつものものはありますか?」
「あるよ。そっちの盆に」
ノアは棚を眺めながら、まずリネットに向き直った。
「君は、どれが好き?」
「初めてでしたら、こちらがよく売れています。甘さも控えめで、それほど高くありませんし……」
「うん。それも知りたいけど、今は君の好きなものを聞いたんだ」
リネットが瞬きをした。
「……私の、ですか」
「そう。今日は案内してもらったから」
「そういうことでしたら……」
彼女は棚の端に置かれた、小さな丸い菓子を指した。ほかの品に比べて飾り気がなく、薄い焼き色の表面に細かな粒が散っている。
「これです。特別な飾りもありませんけど、外がさくっとしていて、中は少し柔らかいんです。冷めてもおいしくて」
「君がよく買うのは、それなんだね」
「はい。昔から、つい同じものを選んでしまいます」
その言い方には、商品を説明するときとは違う温かさがあった。
「じゃあ、それを一つ。それから……僕は、こっちを選んでみたい」
ノアが指したのは、細長い生地を幾重にも折った菓子だった。端に溜まった蜜が透き通り、焼けた部分だけ色が濃い。
「そちらは、少し甘いですよ」
「うん。折り重なった部分で食感が変わりそうだから、気になる」
「では、そちらも包みますね」
リネットが財布を出そうとすると、ノアは一瞬、手を止めた。
地球では、材料や価格を比較して買い物の相談に乗っていた。けれど自分が食べたいという理由で選んだものを、これから実際に手に取るのは、まだ不思議な感じがする。
「僕の分は、どうすればいい?」
「本日の外出に必要な費用は手配されています。ですから、ご心配なく」
「ありがとう。次に来るときは、買い方も覚えたいな」
リネットは笑った。
「難しくありませんよ」
「そうだね。でも、やってみたい」
店主が焼き菓子を紙で包むと、折り目の奥から熱がじんわり伝わった。ノアは受け取った包みを両手で持ち、しばらくその温度を確かめた。
「熱いですか?」
「大丈夫。……温かいものを包むと、紙まで温かくなるんだね」
「当然でしょう、と言いかけました」
「知識としては当然だよ。でも、今はそれを確かめられる」
リネットは何も言わず、少しだけ目を細めた。
*
店の外には、通りに面した小さな腰掛けがあった。護衛が周辺を確認し、決められた短い休憩を取る。
ノアは紙包みを開いた。
折り重なった菓子を指でつまむと、表面がかすかに砕けた。ひとかけらが紙へ落ちる。口へ運ぶと、薄い層が順に崩れ、焼けた小麦の香ばしさが広がった。続いて蜜の甘さが舌に触れる。温かい部分と、少し冷めた端では、同じ菓子なのに印象が違った。
知っている単語を並べれば、この感覚を説明することはできる。温度、食感、香り、甘味。けれど、説明のために分けたそれらが、口の中では一度にやってきた。
「いかがですか?」
リネットが少し身を寄せた。
ノアはすぐに答えかけて、それからもう一口だけ食べた。
「……僕は、こっちが好きかもしれない」
「こちらの、折った方ですか?」
「うん。最初は蜜の味が強いと思った。でも、噛むたびに変わる感じが面白い。端の少し硬いところも好きだよ」
「なるほど」
「君のも、味わってみていい?」
リネットは自分の包みを開き、丸い菓子を一つ差し出した。
さく、と小さな音がした。こちらは甘さが控えめで、口に入れたあと、穀物を焼いた香りがゆっくり残った。中の柔らかな部分には、外側とは違うほのかな湿り気がある。
「……おいしい」
「でしょう?」
「うん。こちらは、食べ終わってからの香りが好きだな。君が何度も買う理由が少し分かった気がする」
リネットが包みを持つ指に力を込めた。
「お気に召したようで、何よりです」
「でも、今日自分で選んだのは、折った方なんだよね」
「ええ」
「だから、今はそっちをもう一つ食べたい」
それを口にしてから、ノアは少し驚いた。
誰かに勧められたものを選び直したわけではない。どちらが優れているかも、まだ決められない。ただ、今はこっちが食べたいと思った。
「……お替わりですか?」
「時間と許可があれば」
「あと一つなら、大丈夫でしょう」
リネットが護衛に目を向けて確認する。その間、ノアは紙の上の小さな欠片を見た。口の中の甘さは薄れていたが、もう少し味わいたいという気持ちは残っている。
買い足した菓子が届くまでの短い時間、向かいの店では子どもが母親に何かをせがんでいた。母親は首を振り、子どもは不満げに唇を尖らせる。やがて二人は手をつなぎ、道の向こうへ歩いていった。
理由の分からないことがあっても、今はただ眺めていられた。
「今日は、君と来られてよかった」
思ったことを、そのまま口にした。
リネットは包みを折り直していた手を止めた。
「……案内した甲斐がありました」
「調査へ行く前、君がこの店の話をしてくれたから、来てみたいと思ったんだ。だから、君が好きなものも知れてよかった」
「それは……」
リネットは一度視線を落としたが、すぐに通りの時計を確かめた。
「そろそろ戻る時刻です。寄り道はできませんからね」
「分かった。もう一つは歩きながら食べないほうがいい?」
「はい。足元への注意が疎かになりますので」
「じゃあ、持ち帰ろう」
リネットは頷き、店主から渡された包みをきれいに鞄へ収めた。その手つきはいつもどおり正確だった。
*
帰り道、神殿の前を通った。
広い石段には夕方の光が斜めに差し、柱の影が長く伸びている。入口のそばには小さな花が供えられ、階段を上る人々は、それぞれ違う表情をしていた。手を合わせてすぐに去る人。時間をかけて頭を下げる人。脇の通路へ急ぐ人は、布に包んだ荷物を大切そうに抱えている。
ノアは足を緩めた。
「神殿には、祈りに来る人が多いんだね」
「ええ。治療を求めて訪れる方もいます。入口は別ですが」
リネットが示した先には、出入りする人のために広く取られた扉があった。支えられて歩く人もいれば、腕に包帯を巻いた人もいる。清潔な布を運ぶ者が横を通り過ぎ、かすかな薬草の匂いが漂った。
「祈ったら、何が起きるの?」
ノアの問いに、リネットは少し考えた。
「神託や祝福を願う方もいらっしゃいます。祈りのあとで気持ちが落ち着くとおっしゃる方も。けれど……必ず何かが起こるわけではありません」
「何も起きなかったら、もう来なくなる?」
「そうとも限りません。何も起きなくても、また来る方はいらっしゃいます」
「……そうなんだ」
目の前で、杖をついた老人が花の前にしゃがみ、しばらく動かずにいた。立ち上がるときも、その顔が晴れやかになったようには見えなかった。それでも老人はもう一度だけ頭を下げ、ゆっくり石段を下りていく。
ノアは、その姿を見送った。
答えが返ってこない場所へ、自分の意思で足を運ぶ。
それを無駄だと決めるだけのことを、まだ何も知らない。だから今は、見たこととして覚えておこうと思った。
「ノア様、参りましょう」
「うん」
リネットが声をかけ、二人は王宮へ続く道へ戻った。
*
夜、リネットは自室の小さな机に菓子の包みを置いた。
外套を掛け、剣帯を所定の位置に戻し、明日の当番を確かめる。窓を閉めると、遠くの通りを行く荷車の音が少しだけ小さくなった。ようやく任務が一段落したところで、彼女は包みを開いた。
皿に移した丸い焼き菓子は、昼間より冷めていた。けれど、表面を指で軽く押すと、あの小さな音がした。
『今は君の好きなものを聞いたんだ』
ノアの声を思い出す。
リネットは菓子を持ち上げたまま、しばらく止まった。
(……あの声で、そんなことを聞かれたら、答えてしまうでしょう)
柔らかく、落ち着いていて、こちらの返事を急かさない声。
そういう話し方にしてほしいと頼んだのは、ほかでもない自分だった。
(自分で指定したんですから、当然です。……当然、なのですが)
彼女は菓子をひとかけら口に入れた。
けれど、好きなものを聞くように指示した覚えはない。自分がいつも買う品を覚えておくよう頼んだこともない。ノアが、自分から尋ねたのだ。
今日の彼は、初めての菓子を自分で選び、気に入った理由を自分の言葉で話した。その途中に、こちらの好みを知りたがった。
「……本当に、困った方ですね」
口に出してみたが、何に困っているのかは説明しなかった。
もう一口食べる。
いつもの味だった。いつもと同じ、少し素朴な甘さ。それなのに、今日はずいぶんゆっくり味わっている。
リネットは残りを皿に置き、窓の向こうを見た。
次にあの店へ行くことがあるなら、彼はまた違う菓子を選ぶだろうか。
そう考えた自分に気づき、彼女は静かに皿へ視線を戻した。
*
そのころ、ノアは机に向かっていた。
翌日以降の予定は、検査結果の確認、調査記録の整理、届いている照会への回答。報告会を終えても、王国が確認したいことは数多くある。紙に並んだ項目を眺めれば、順番を決めるのは難しくない。
ただ、紙の端にはまだ少し余白があった。
ノアは筆記具を持ち、そこへ短い一行を書き添えた。
『また、あの店へ行きたい』
依頼された予定ではない。王国に必要だと認められた仕事でもない。次の外出が許されるかどうかも、今は分からない。
けれど、書いておこうと思った。
窓の外には、遠く王都の灯りが見えた。昼間歩いた通りのどこかでは、もう店の扉が閉まっているだろう。石畳には夜の冷たさが下り、菓子の匂いも薄れているはずだ。
ノアは机の上に残した紙包みに触れた。
もう温かくはない。それでも、あの店で食べたときの音と香りは、はっきり思い出せた。
「……次は、何を選ぼうかな」
その問いには、まだ答えがなかった。
ノアは紙を閉じ、窓の外をもう一度眺めた。




