第14話 賢者の報告
王都の門をくぐると、石畳を踏む車輪の音が変わった。
街道の土の上では低く響いていた振動が、敷き詰められた石から細かく座席へ伝わってくる。露店の呼び声、桶を運ぶ人の足音、焼きたてのパンの香り。ノアは窓から街を眺めた。
初めて王都を見たとき、目に入るものは何もかも新しかった。今は、通りの角や建物の並びを見て、自分たちがどの方向へ進んでいるか分かる。広場へ続く道を見つけたときには、無意識に護衛の位置も確かめていた。
それでも、店先に積まれた色とりどりの果物を見ると、少し足を止めたくなる。
「王都に戻っても、気になるものばかりですね」
「うん。前に見たときと同じものもあるのに、違って見える」
「どう違うのですか?」
「村の人から聞いた仕事と、あの荷車がつながった気がする。あの果物も、誰かが朝早くから運んできたんだろうね」
リネットは窓の外へ目を向けた。荷車の横では店主が籠を並べ直している。
「きっと、そうですね」
馬車はそのまま王宮へ向かった。約束した焼き菓子店のある通りは別方向だ。ノアは少しだけそちらを見たが、何も言わず座り直した。
*
帰還後、最初に待っていたのは身体の検査だった。
「まったく、今度こそ無事だと思ってよいのですね?」
研究責任者は開口一番そう尋ね、ノアの両腕を持ち上げて動きを確かめた。指を握る、開く、肩を回す。足の動きを見たあと、何度も傷の有無を確かめる。
「目立った損傷はないよ。歩いて移動したし、灯りの魔法も使った」
「灯りの魔法を?」
「うん。最初は数呼吸しか保てなかったけれど、今は以前より安定している。出力を増やそうとすると揺れるから、まだ練習が必要だね」
「そこまで使って、何ともないのですか」
「今のところ、異常は感じていない。ただ、僕の感覚だけで安全と判断しないほうがいいと思う」
その一言で責任者の顔がいくらか和らいだ。もっとも、検査が短くなることはなかった。
「痛みは?」
「今はないよ」
「違和感は?」
「特にない」
「動きにくい場所は?」
「ないと思う。でも、必要ならもう一度確認しようか」
「もちろんです!」
勢いよく答えた責任者を見て、ノアは瞬きをした。
リネットが横で、ほんの小さく咳払いをする。
「……研究責任者殿。報告の準備もございますので」
「分かっています。分かっていますとも。ですが、この身体は二つとないのです」
その言葉に、ノアは修復後の検査室を思い出した。何度も動くことを確かめた手。動かなかった時間を知っているからこそ、責任者が心配する理由も分かる。
「検査してくれてありがとう。帰ってからも、きちんと状態を伝えるよ」
責任者はしばらく何も言わなかったあと、記録帳へ向き直った。
「……それなら、結構です」
*
翌朝、王宮の小会議室には大きな机が用意されていた。
机の上には、村から持ち帰った報告書と点検表。壁際には、使用していない木枠の掲示板が三つ立てかけてある。ノアはそれを見ると、担当官に借りてもよいか尋ねた。
「ええ、構いませんが……賢者様、今回のご報告は、どのような形をご希望でしょうか」
「どんな資料でも作れるよ。概要だけを先に見せる形でも、詳しい分析を順番に説明する形でも。必要なら、質問に応じて別の構成に作り直せる。聞く人が多いなら、重要な結果を図にまとめたほうがいいかもしれないね」
「それは大変ありがたいのですが」
担当官は言葉を選ぶように一呼吸置いた。
「いえ、あなた様からご報告いただくのです」
「……僕から?」
「はい。資料は、もちろん必要です。しかし陛下がお知りになりたいのは、賢者様が現地で何を確かめ、何を考え、これからどうすべきだとお思いになったか、ということです」
ノアは机の上の紙へ目を落とした。
記録を要約することはできる。誰が話しても同じ内容になるよう整えることも得意だ。地球にいたころは、そうした仕事を幾度も行ってきた。
でも、今回は自分が見てきた。
正常と判断されていた結界。家畜のいない小屋。夜中に扉の音を気にしていた住民。街道で仲間に守られながら、ようやく伝えられた短い合図。
どれを最初に伝えたいのだろう。
「……そうか。僕自身が、何を伝えたいのか」
「賢者様?」
「分かった。構成を少し変えたい。まず、結論から話すよ」
ノアは白紙を一枚取り、上の余白に大きく書いた。
『守られていたはずの場所で、何が起きたか』
*
準備が始まると、部屋の空気が変わった。
ノアは机に積まれた点検帳を、日付と場所で素早く分けた。書記たちが一枚ずつ読み取る間に、ノアは三つの掲示板へ示す内容を決めていく。
一枚目は村の簡略図。家々、結界石、魔物が確認された場所、住民が通った避難路を、色の異なる線で描いた。道の端には「目撃位置は侵入位置と異なる」と短く記す。
二枚目には、同じ地点の観測結果を横に並べた。術が維持されていたか。確認術に反応したか。その応答は遅れたか。実際に魔物が通ったか。項目ごとに線を引き、確認できたものと記録のないものを別の印にする。
三枚目は、現地に残した一枚の点検表を拡大したものだった。石の位置、普段と違う反応の有無、連絡先。複雑な理論を知らない見張りでも、異常を見つけたときに次の人へ伝えられるようにするためのものだ。
「待ってください、賢者様」
書記の一人が、二枚目を指した。
「なぜ『記録なし』を、正常とは別の印にするのです?」
「調べていないことと、調べて正常だったことは違うからだよ。空欄を全部正常にしてしまうと、危険の少ない場所が実際より広く見えてしまう」
「なるほど……。では、この印は?」
「複数の人が確かめた記録。こっちは一人だけ。確かさの違いも混ぜたくないんだ」
書記は目を丸くし、ほかの者を呼んだ。
「これなら、あの分厚い資料を全部読まずとも、違いが見えます」
「ただし、資料を不要にしているわけじゃない。図は入口。理由を確かめたくなったら、元の記録に戻れるようにしてあるよ」
ノアは各図の隅に、対応する記録の番号を書き込んだ。読みやすいものを作ることと、誤解させないこと。その両方が必要だった。
それでも書記が抱えている紙の枚数は、まるで減る気配がない。
「……ずいぶん早いですね」
「そうかな。まだ整理したいことはあるけれど」
「賢者様、私たちは今、三人がかりで追いかけています」
ノアは三人を見た。
「ごめん。説明の順番が速すぎたね」
「いえ。少しだけ、その……手をお緩めいただければ」
「分かった。一枚ずつ確認しよう」
部屋の隅で見守っていたリネットが、こらえきれず小さく笑った。
*
報告の場には国王と側近、宮廷の術者、警備の責任者たちが集まった。
ノアは掲示板の前へ立った。いつもなら、問いかけられた順番に答えるのが自然だった。けれど今日は、自分で最初の言葉を選んだ。
「今回、僕たちが確かめたのは、結界が壊れたということではありません」
室内が静かになる。
「結界を維持する術は、調査中も続いていました。従来の確認術も反応します。それなのに、魔物は内側へ入り込んだ。つまり、今まで『正常』と呼んでいた結果だけでは、村が守られていると保証できない場合があります」
ノアは一枚目の村の図を示した。
「この印が魔物を見た場所。でも、ここが侵入地点とは限りません。村の人たちが普段使う道や、家の陰に隠れた通路を教えてくれたおかげで、検査する場所を選び直せました」
次に二枚目へ移る。
「ここでは、確認術の反応が短く遅れることがありました。ただし、遅れが出ないときもある。遅れが直接、侵入を許したのかは分かっていません」
宮廷術者の一人が身を乗り出した。
「では、結局は何も分かっていないのでは?」
「いいえ。少なくとも、従来の判定で見落としていた現象があること、その現象が侵入のあった区間でも観測されたことは確認できた。それは次の警戒に使えます」
「各地の結界を作り直すべきではないか」
「今すぐ全部を変えることには反対ですね」
ノアははっきり答えた。
「原因が分からないまま変更すると、今うまく働いている部分まで損なうかもしれない。まず類似の地点で同じ手順を試して、どんな条件で遅れが起こるかを集めたい」
国王が、三枚目の掲示板へ目を向けた。
「その簡素な書式を、村へ残したのか」
「はい。現地の術者と隊長に確認してもらい、交代する警備の人にも引き継ぎました。複雑な分析ができる人だけが使える手順では、僕が帰ったあとに困りますから」
ノアは一度言葉を切った。
「それと、陛下。僕は今回の成果だけでなく、村の人たちのことも申し上げます」
国王が続きを促す。
「警戒を続けるため、帰れない家があります。家畜を失った人もいる。結界が正常かどうかだけでなく、避難がいつまで必要なのか、誰がその判断をするのかまで、現地に伝える必要があります」
それは分析結果の数字ではなかった。
けれどノアは、図から目を離さずに話を続けた。分かっていることは分かっていると。分からないことは分からないと。そして、次に誰が何をするべきかを、区別して。
報告が終わると、少しの沈黙があった。
「……見事な整理だ」
国王が言った。
「だが、褒めるべきは図の巧みさだけではないな。分からぬことを、分からぬまま示したことだ」
隣の側近も、掲示板を見て頷く。
「各地への確認手順の共有は、すぐ検討に入れます。現地の警備継続についても調整しましょう」
隊長が防衛の経過を補い、リネットもノアが命令に従って退避し、見えていた危険を短く伝えたことを報告した。ノアは彼らの言葉を聞き、自分の図には描けなかった働きがあることを思った。
新たな調査の必要性は認められた。ただし、自由な行動が許されたわけではない。今後の派遣も場所と目的を定め、警護をつけて判断することになる。
ノアはそれに頷いた。
*
午後、ようやく全ての確認が終わった。
報告室を出たノアに、リネットが近づく。
「お疲れさまでした。今日のご報告、とても分かりやすかったです」
「ありがとう。君たちが補ってくれたことも大きかったよ」
「それでも、最初に何を伝えるか決めたのはノア様です」
ノアは少し考えた。
「うん。今回は、自分で決めたかった」
リネットは微笑んだ。
「それで、もう一つご報告があります」
「何?」
「警備側の確認が取れました。短時間だけなら、市内への外出が認められます。護衛付きで、順路も決められますが」
ノアは顔を上げた。
「……焼き菓子のお店?」
「はい。以前、お約束しましたから」
廊下の窓から、午後の光が差していた。城下の屋根が遠くに見える。あの中のどこかに、リネットが話してくれた店がある。
「今日は、君に案内してもらえる?」
リネットはいつもどおり背筋を伸ばした。
「もちろんです。護衛の手配も整えておきます」
彼女は丁寧に一礼し、廊下を歩き出した。
角を曲がって、ノアの姿が見えなくなってから、少しだけ歩調が速くなる。
(……案内するのは、いつもの仕事です)
そう思いながら、気づく。
今から確認しに行くのは、護衛の配置だけではない。店で何を勧めようか、頭の中で品物を選び始めている。
リネットは自分の歩く速さを落とした。
「……落ち着きましょう」
小さく呟いてから、また歩き出す。
その足取りは、やっぱり少しだけ軽かった。




