第13話 声を変えなくても
村を離れた馬車が最初の坂を上りきったとき、ノアは窓から身を乗り出しかけて、途中で動きを止めた。
谷底に並ぶ屋根が、少しずつ小さくなっていく。畑の端には細い水路が走り、朝の陽を受けて銀色に光っていた。遠くから見れば、緑と茶色の四角がきれいに並んでいるだけの景色だ。
けれどノアには、もうそれだけではなかった。
手前の畑の脇道は、家畜小屋から井戸へ行く近道だ。向こうの柳のそばには、昔の番号で呼ばれていた結界石がある。煙の上がる家では、濡れた薪を一枚ずつ裏返して乾かしていた。
来たときには知らなかったことが、いま目に映っている。
「村が見えなくなるのが、少し惜しいな」
「必要な調査は終えましたよ」
「うん。だから帰る。でも、あの道をもう一度歩いてみたいとも思うんだ」
向かいの席で報告書を確認していたリネットが、紙から顔を上げた。
「次に来るときには、危険が減っているといいですね」
「そうだね。調査が必要なくなっていて、それでも僕を迎えてくれるなら、もっといい」
リネットは少しだけ笑った。
馬車が揺れる。ノアは座席に手をつき、今度は無理に窓へ近づかなかった。村の屋根が木立の向こうへ隠れるまで、背を伸ばして眺めていた。
*
昼前、街道沿いの小さな休憩所で隊が止まった。
岩の陰を利用して建てられた屋根の下には、旅人が置いていったと思われる石の腰掛けが並んでいる。土には荷車の轍が重なり、その間から短い草が伸びていた。馬が水桶へ鼻先を沈める音の向こうで、風に揺れる木の葉が乾いた音を立てている。
「ここで食事と休憩を取る。護衛は交代で周辺を確認。遠くへは行くな」
隊長の指示に、それぞれが応じた。危険な区間を抜けたとはいえ、ノアへの襲撃の危険が消えたわけではない。リネットも護衛の配置を確かめてから、荷物を下ろした。
ノアは同行術者のそばに腰を下ろす。
「灯りを、もう一度試してもいいかな」
「休息を妨げない範囲なら。手元でやってみましょう」
「ありがとう」
ノアが掌を開くと、淡い光が生まれた。以前は指先に力を入れるたび明るさが揺れ、数呼吸で消えていたものだ。今は小さな丸い光が、呼吸の間を越えて残る。
「最初より長く続くようになりましたね」
「うん。ただ、さっき少し強くしたら揺れた」
「光を増やしたいときは、勢いよく押し出すより、いま保っている感覚を崩さないように」
術者が自分の灯りを見せた。大きさはほとんど同じだが、光の輪郭が静かだった。
ノアは二つを見比べる。立ち上がるまでの時間、指の動き、術者が言葉にしない小さな間。初めて教わったときの実演と、村で繰り返した練習を頭の中で重ね合わせた。
「最初の一瞬を急ぎすぎていたのかもしれない。維持している間に何度も足すより、始め方を揃えたほうがよさそうだ」
「試してみてください」
一度、光を消す。次に灯した光は、初めから強くなろうとしなかった。
掌の上に浮かぶ小さな明るさを、そのまま保つ。
風が吹き、木漏れ日が腕の上を流れた。ノアは見つめすぎて肩に力が入っているのに気づき、姿勢を直した。光は消えない。
「……できた」
「ええ。今のはよかったですよ」
術者が身を乗り出す。
「初めて灯した日から数えると、驚くほど早い。普通は、こうして力を抜いたまま保つのに時間がかかるんです」
「説明してもらったことと、実際に見た動きを照合できるからだと思う。それに、上手くいかなかった条件も忘れずに比べられる。あのときは明るさを上げようとして……」
ノアは両手の動きを使って、失敗したときと成功したときの違いを説明し始めた。
「最初は揺れたあとに力を足していて、結果としてさらに揺れていた。でも今は、変化が起こる前の状態を保つほうへ意識を向けた。あとは歩いたときにも同じことができれば、携帯する灯りとして実用性が出ると思う。ただ、身体の動きに合わせると――」
言いかけて、ノアは向こう側のリネットを見た。
彼女は黙って聞いている。表情はいつもと変わらないが、途中で口を挟む様子もない。
「……長くなったね」
「いいえ」
「必要なところだけ言うなら、力を足す前に安定させるのが大事、ということだよ」
「それは分かりました。ですが」
リネットは少し考えたあと、視線を灯りへ落とした。
「今のは、続きを聞きたいです」
「続き?」
「なぜ歩くと消えるのか、まだ説明の途中でしたから」
ノアは瞬きをした。
「僕が話すことを、短くするように頼んだのは君だったね」
「はい。でも、興味のある話まで短くしなくてもよいと思います」
「そうなんだ」
それなら、と言いかけてノアは少し考えた。
相手が望む長さに合わせるだけなら簡単だ。しかし、自分はこの話を続けたいのだろうか。
掌の光はまだ残っていた。初めて成功したときの、あの小さな驚きを誰かに説明したかった。
「……うん。僕も、聞いてほしいと思っていた」
リネットは返事をするまで、ほんのわずかに間を置いた。
「では、どうぞ」
ノアは今度は、歩くと腕の位置も重心も変わることから説明を始めた。術者が頷き、ときどき別の言葉で補った。実験と違い、話の途中で風が強くなり、光はふっと消えてしまう。
「あ」
「まだ歩いてもいないのに消えましたね」
「うん。話すほうに集中しすぎたみたいだ」
リネットの口元が緩む。
「また、試せばいいですよ」
「そうする」
もう一度灯した光は、今度も小さかった。けれど、ノアは先ほどより長くそれを見ていられた。
*
午後の街道は、谷へ向かうときより明るく感じられた。
雲が切れ、遠くの丘の輪郭がくっきり見える。斜面では農具を担いだ人が細い道を下り、荷車の車輪が石を踏むたび、乾いた土が小さく舞い上がった。すれ違った行商人は護衛の数を見て道を譲り、隊長が短く礼を返す。
ノアはその一つ一つを見ていた。
最初に同じ街道を通ったときは、荷車の構造や道幅を知りたがった。今は、その道がどこへ続き、誰が何を運ぶのかも気になる。村で聞いた朝の仕事が、別の土地でも行われていることを知ると、道の先にまだ見ぬ暮らしが続いているように思えた。
「リネット。あの荷車には何が載っているんだろう」
「布の包みと穀物袋ですね。近くの町へ売りに行くのでしょう」
「町に着いたら、その人は家に帰るのかな」
「商人なら、さらに別の町へ行くこともあります」
「そうか。帰る場所が一つとは限らないんだね」
リネットはノアを見たが、彼は答えを求めている様子ではなかった。馬車の隅に積んだ報告書へ目を落とし、紙の端を揃えている。
「何か、気になりますか」
「僕は王宮に帰るんだね」
「はい」
「……帰る、と言っていいのかな。あそこには僕の部屋があるし、君もいるけれど」
リネットはすぐには答えなかった。
「帰ってから、どう感じるか確かめてみては?」
「うん。そうしてみる」
それは、結論を出さなくていい問いだった。
道が狭くなる。崖と樹木に挟まれた曲がり角で、車輪が深い轍にはまり、馬車の速度が落ちた。
ノアの指が、座席の縁を掴んだ。
視界の端に、王都で見た細い通路が重なる。突然近づいてきた影。理解するほうが速く、身体は間に合わなかった。もう動かないと思った指の感触が、一瞬だけ蘇る。
「ノア様」
リネットの声がした。
「前方は見通せています。護衛も両側についています」
「……うん」
「曲がり角を抜ければ、道は広くなります」
ノアはゆっくり指を開いた。掌には、座席の革の縫い目が細く残っていた。
「気づいていたんだね」
「あなたの護衛ですから」
「ありがとう」
以前なら、危険を感じた根拠を細かく説明したかもしれない。今はリネットの言葉を聞き、外へ目を向けた。護衛の背中が見え、斜面の上では小鳥が枝から枝へ移っていた。
馬車が曲がり角を抜ける。
何も起きなかった。その事実を、ノアは静かに受け取った。
*
その夜、隊は街道沿いの宿で休息を取った。
王都まではもう遠くない。明日は城門に着き、そのまま報告と検査が待っている。リネットは隊長に警護の引き継ぎを済ませ、部屋へ戻った。
外套を脱ぐと、布に残った街道の埃が灯りの中で舞った。窓からは、馬の蹄を洗う水音が聞こえてくる。彼女は剣帯の位置を確かめ、明日の行程をもう一度頭の中でたどった。
そして、休憩所での声を思い出した。
『僕も、聞いてほしいと思っていた』
ノアは何かを頼まれたわけではなく、自分が楽しいから説明していた。
召喚されて間もないころの、親切で、どこまでも続く説明。あれを静かにしてほしいと頼んだのは自分だ。今の柔らかい話し方も、自分の好みに合わせてもらった。
けれど今日、夢中になって話すノアを、途中で止めたいとは思わなかった。
(……静かな方が、好みだったはずなのですが)
リネットは旅装の紐を結び直す。結び目が一度で決まらず、ほどいてもう一度結んだ。
好みの話し方をするから、心地よい。それだけなら説明は簡単だった。
しかし今日のノアは、自分で話すことを選んでいた。その声を、もう少し聞いていたかった。
「……仕事です」
誰も聞いていない部屋で、彼女は小さく言った。
護衛対象が何に関心を持っているか把握するのは、当然の仕事だ。
そう説明してから、窓を閉める。
なのに、頬に残った熱の理由までは説明できなかった。
*
翌朝、王都の城壁が見えた。
遠くの丘の向こうに、灰色の線が伸びている。近づくにつれて見張り塔の形が現れ、朝日に照らされた屋根がその内側で幾重にも重なっていった。門へ続く街道には人と荷車が集まり、焼いた麦の匂いが風に乗って届いた。
「帰ってきましたね」
リネットが言う。
ノアは窓の外を見た。初めてこの都市を歩いた日に感じた、目が追いつかないほどの賑わい。その街で、身体を壊されたこと。窓越しにしか眺められない日々が続いたこと。
全部が、あの壁の向こうにある。
「うん」
少し考えて、ノアは付け加えた。
「帰ったら、伝えたいことがあるんだ。調査の結果だけじゃなくて」
「どなたにですか?」
「まずは、報告を聞いてくれる人たちに」
リネットは頷いた。
「では、しっかり伝えましょう」
馬車が列の最後尾についた。壁の上で旗が揺れている。
ノアは膝に置いた報告書を開いた。事実を並べたページの間には、村で使ってもらうための一枚が挟まっている。
自分は、何を伝えたいのか。
今度はその問いから、報告を始めてみようと思った。




