第17話 光ったからといって
朝の王都では、濡れた石畳を箒が擦り、開いたばかりの店から湯を沸かす音が聞こえた。荷車の車輪が小石を鳴らし、人々の足音が違う速さで行き交う。ノアは護衛に挟まれながら、その一つ一つを目で追っていた。
「神殿まで、もう少しです」
「うん。前に通ったときは、夕方だったね」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「花を供えていた人がいた。治療院の扉から、布を抱えた人が出てきたのも見たよ。今日は、あの扉の向こうに行くんだね」
リネットが頷く。王宮からの正式な視察であり、予定と順路は前もって治療院に伝えられている。護衛はノアたちを急かさなかったが、立ち止まるたびに周囲へ視線を配った。二度目の王都歩きだからといって、警戒が軽くなるわけではない。
神殿の石段には、朝の光がまだ半分しか届いていなかった。柱の陰で祈る人の声が、互いに重なるほど小さく響いている。言葉のすべては聞き取れない。願いごとを告げている人も、誰かの名を繰り返している人もいた。その脇の通路では、まったく違う音がしていた。
「清潔な布は、こちらへお願いします!」
「鍋を先に運んでください。朝食の配膳が始まります!」
木の戸が開き、湯気が白く立ち上る。煮た穀物の香りに、薬草と洗い立ての布の匂いが混じった。桶を抱えた若い奉仕者が人を避けて小走りに通り、その後を空の食器が入った籠が追っていく。ノアは立ち止まった。
「祈る場所のすぐ隣で、こんなにたくさんの人が働いているんだ」
「祈りだけで食事や洗濯が済むわけではありませんから」
「そうだね。説明を聞けば当然なのに、ここまで忙しい場所だとは想像していなかった」
静かな聖域の隣では、布が洗われ、食事が作られ、床が拭かれている。人を治す仕事は、術だけでは成り立たないらしい。
*
治療院の主任は、入口の奥で待っていた。
「ようこそ、賢者様。ご足労いただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、見せてもらえることに感謝するよ。診療の邪魔にならないようにしたい。入ってはいけない場所があれば教えてほしい」
「承知しました。患者の方々には事情を説明し、見学してもよいという方の処置だけをご覧いただきます。まずは施設の仕組みからお話ししましょう」
主任の声は柔らかかったが、職員が声をかけるとすぐに指示を出した。歩く間にも処置の順番や部屋の空き具合が報告される。ノアはそのやり取りが終わるまで待った。
案内された小部屋には古い配置図が掛けられ、部屋ごとに使う術が書き込まれていた。薄れた文字の上から、別の色で注記が足されている。
「この治療院では、治療師が自分の力だけで行う術と、施設の補助を使う術の両方があります」
「補助というのは、術者の代わりに治療をするもの?」
「いいえ。術者が行う術を支える仕組みです。複数の部屋で、必要なときに補助を受けられるようにしています」
「なるほど。術者が何もしなくても治る設備ではないんだね」
「ええ。それに、治療術には限界があります。傷が塞がったとしても、すぐ元どおりに動けるとは限りません。術が効きにくい状態もありますし、私たちにも治せないものがあります」
できることを誇張せず、できないことを隠さない。その説明に、ノアは村の術者たちを思い出した。
「手紙にあった『成功』は、何を指しているの?」
「術者が定められた手順を終え、術の反応を確認できた状態です」
「光が見えたことと、術者が手応えを得たことは、同じ記録なのかな」
「……いえ。普段は近い時刻に起こるので、まとめて記したものもあります」
「患者さんの身体が変わったことは?」
「それは別に確かめています。ただ、処置の直後に分かる変化ばかりではありません」
「じゃあ、少なくとも三つに分けて見たい。光が出た時点、術者が反応を確認した時点、それから患者さんに変化が現れた時点。今は同じ記録に重なっている部分があるんだね」
「おっしゃるとおりです。ですが、患者の変化は時間だけで測れるものでもありません」
「うん。何を回復と判断するかは、僕にはまだ分からない。そこは主任や治療師の判断が必要だよ」
「そこをご理解いただけるなら、話が早そうです。私たちも気づいていないわけではなかったのですが、診療を続けながら細かな時刻まで残すのは難しくて」
「記録を増やすことで、患者さんを待たせたら本末転倒だね」
「ええ。今日は、まず今の仕事をご覧ください」
紙に並んだ「成功」の後ろには、何通りもの出来事が隠れている。
*
昼前、治療院はさらに忙しくなった。廊下には順番を待つ人々が座り、足に布を巻いた人の隣では、家族が水の器を支えていた。厨房から煮た野菜の匂いが流れてくる。
若い奉仕者が食事の膳を運んできた。ひとつの器を左へ置いたかと思えば、次の人には右へ置く。同じ形の匙を別の向きに直し、窓から入る光を避けるように椀の位置をずらした。
「置き方に決まりがあるの?」
ノアが尋ねると、奉仕者は一瞬驚いた顔をした。それから手元の盆を見下ろした。
「決まりというより、その方に合わせています。右手が上がりにくい方には左側へ。目が眩しいとおっしゃる方には、窓の光が反射しないところへ」
「じゃあ、さっき器を替えたのは?」
「その方は強い香りが苦手なんです。温かい汁の湯気が顔にかからないようにしていました」
「……よく覚えているね」
「毎日お会いしていますから。昨日は食べられなかったものを、今日は少し食べられることもあります」
奉仕者は照れくさそうに笑ったあと、すぐ次の膳へ手を伸ばした。
手の可動範囲や光の角度なら計算できる。けれど、誰がどの匂いを嫌い、昨日何を食べられなかったかは、本人に聞かなければ分からない。
「君は、患者さんによく質問するの?」
「はい。でも、こちらから聞かなくても、何度かお話ししているうちに教えてくださることもあります」
「そうなんだ。ありがとう。僕も、よく見ておくよ」
奉仕者は会釈して仕事へ戻った。患者に呼ばれると、盆を抱えたまま足を止め、顔を近づけて話を聞いていた。
*
見学を許された処置は、昼を少し過ぎたころに行われた。室内には清潔な布と湯の匂いが満ち、薄いカーテンが風に揺れていた。主任と治療師が患者を確かめ、ノアとリネットは指示された位置で見守った。護衛は室外にいる。
「いつもの処置を行います。気になることがあれば、あとで説明します」
「分かった。今は話しかけないよ」
患者は寝台に横になり、片方の腕を布の上へ置いた。呼吸に合わせて、指先が小さく動いている。治療師が両手をかざした。
淡い光が、手の間に生まれた。
ノアが練習してきた灯りとは違い、柔らかな明るさが布の上に広がった。壁の影が薄くなり、患者の頬にも淡い色が映る。術者の指は迷わず動いていた。少しして、光が弱まった。
「術の反応は確認できました」
治療師が静かに告げる。主任は患者の様子を見て、すぐには次の言葉を出さなかった。患者も何かを待っているようだった。寝台の端を掴んだ手が、わずかに強張る。
「……今日は、まだ?」
その問いが、部屋の空気を少し変えた。
「はい。もう少し様子を見ましょう」
主任は患者に無理をさせず、呼吸や痛みの様子を確かめていく。治療師も持ち場を離れなかった。
ノアは待ち時間を尋ねかけて、やめた。今は処置が終わるのを見守ろう。
しばらくして、患者の肩から少しだけ力が抜けた。
「先ほどよりは、楽です」
「そうですか。では、もう少し休んでから改めて確認しましょう」
主任は頷き、落ち着いた声で今後の予定を伝えた。光が消えても、処置は終わっていなかったのだ。
見学が終わり、別室へ戻る途中で、ノアはリネットの袖を軽く引いた。
「僕は、あの人に何か聞きたいと思った。でも、今すぐでなくてもいいよね」
「ええ。主任が許可して、あの方が話してもよいとおっしゃれば」
「うん。教えてもらうために来たけど、答えるかどうかは、あの人が決めることだから」
家畜を失った村人の「ありがとう」を思い出す。あのときは返事の先にあるものに、すぐには気づけなかった。
*
主任から許可が出たのは、患者が食事を終えたあとだった。ノアは寝台から距離を取り、目が合ったところで頭を下げた。
「少しだけ、話を聞いてもいい? 休みたいなら、また後で来るよ」
「……賢者様が、私に?」
「うん。でも、答えたくないことは答えなくていい」
患者は少し考えて頷いた。
「私は、術が光ればすぐ楽になると思っていました。でも最近は、あれを見たあとも待つことがあるんです」
「待っている間、どう感じる?」
「効かなかったのかなって。先生方を疑っているわけじゃありません。ただ、光ると期待してしまうから」
次はすぐ効くと約束することはできなかった。
「教えてくれてありがとう。期待したあとに待つのは、落ち着かないんだね」
「そう。……でも、先生方も、待ってくれるんです」
患者は主任が出ていった扉を見た。
「前は、光が消えたら全部終わりだと思っていました。ここでは、私が楽になったかどうかも、ちゃんと聞いてくれるから」
詳しい時刻を聞くのはやめた。疲れが顔に残っていた。
「ありがとう。今日は、ゆっくり休んでね」
廊下へ出ると、リネットが隣に並んだ。
「質問は、もうよろしいのですか」
「聞きたいことはまだある。でも、今はあの人が休めるほうがいい」
「そうですね」
リネットはそれ以上、何も言わなかった。水を注ぐ音、寝台が軋む音が廊下に響いた。そのどれもが、治療の記録には残らないものだった。
*
午後、主任は魔導設備を担当する術者を紹介した。術者が持つ配置図の角は、何度も折り返されて柔らかくなっていた。
「補助が遅れるなら、設備を通さずに治療すればよいと思われるかもしれません」
「そういう方法もあるんだね」
「あります。ただし、使える術者や手順が限られます。一人にかける負担も大きい。補助をすべて止めれば、一度に支えられる患者は減ってしまいます」
「それなら、止めること自体が解決にはならない」
「ええ。故障だと決めつけて外してしまうのも危険です。今のところ、補助は届いている。ただ、時々遅れる」
術者は配置図を開き、補助が使われる部屋を示した。
「以前から調べようとはしていました」と主任が言った。「でも、患者を待たせて検査するわけにはいきません。忙しい日の記録ほど、時刻が大まかになるのです」
「忙しいときほど不調が目立つのに、そのときほど詳しく記録できないんだね」
「そのとおりです」
治療の開始、術者の交代、設備担当者への連絡。それぞれ別の目的で記した時刻を、ノアは見比べた。
「まず、今ある記録の書き方を揃えたい。患者さんの処置を遅らせない範囲で、どんな情報なら残せるか、一緒に考えてもいいかな」
「ぜひ」と主任が答えた。「私たちだけでは、何から手をつけるべきか迷っていました」
ノアは頷いた。村でも、結界が『正常』と記されている理由を、点検手順から確かめた。ここでも似た問いが必要なのかもしれない。ただし、同じ原因だとはまだ言えない。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいた。朝、食事を運んでいた若い奉仕者だった。空になった桶を抱え、少し息を切らしている。
「あの、主任。ひとつ、お伝えしてもいいでしょうか」
「どうしました?」
「先ほどの処置のことです。患者さんが『今日は遅かった』とおっしゃっていたので……思い出したんです」
奉仕者は壁際の小さな灯りを指した。
「治療室の術だけじゃありません。あのころ、廊下の補助灯も、いつもより点くのが遅かったんです」
主任と設備担当の術者が、同時に顔を上げた。ノアはその灯りを見た。今は何事もなかったように、廊下を淡く照らしている。
治療と明かり。役目の違う二つが、同じ時間帯に遅れた。
「……そのとき、ほかに何が使われていたかも、確かめたい」
ノアの声に、術者が静かに頷いた。
光っているから、正常だとは限らない。けれど、遅れた理由も、まだ分からない。
窓の外で、午後の鐘が鳴り始めた。




