第9話:存在しない少女と、空白のカンバス
波の音だけが、等間隔で砂浜を叩き続けている。
東雲ゆらは、どれくらいの間そこで泣き続けていたか分からなかった。
涙はとっくに枯れ果て、声帯は悲鳴の上げすぎで血の味がする。
見渡す限りの青い海と空。
しずくがその命と存在を賭けて、ゆらに遺してくれた世界。
しかし、ゆらにとって、それは地獄よりも残酷な景色だった。
「……帰らなきゃ」
ゆらは、砂まみれになった銀色のロケットを拾い上げ、ふらふらと立ち上がった。
足取りはおぼつかず、何度も転びそうになる。
『雨宮しずくという存在自体が、最初からいなかったことになる』
しずくの最期の言葉が、頭の中でリフレインする。
それがどういう意味なのか、確かめなければならない。
ゆらは、来た道を戻り、町中を走り抜けた。
向かった先は、しずくの家があるはずの場所。中学生の頃、何度も遊びに行った、ツタの絡まる古い洋館のような家。
しかし。
記憶通りの角を曲がった先にあったのは、見知らぬ真新しいマンションだった。
「……え?」
ゆらは、呆然と立ち尽くした。
表札を確認するまでもない。あんな立派な洋館が、たった一日でマンションに建て替わるはずがない。
『雨宮』という表札の家は、この町のどこにも存在しなくなっていた。
ゆらは、震える手でスマートフォンを取り出し、電話帳を開いた。
『あ行』の欄。
昨日まで確実にあったはずの『雨宮しずく』の名前が、すっぽりと抜け落ちている。
メッセージアプリの履歴も、通話履歴も、一緒に撮った写真も。
すべてが、最初から存在しなかったかのように、綺麗に消え去っていた。
「嘘だ……嘘だっ!」
ゆらは、スマートフォンの画面を何度もスクロールしたが、結果は同じだった。
世界は、完全に改変されてしまったのだ。
『東雲ゆらが海で溺死しなかった世界』。
それは同時に、『雨宮しずくが、この世に生まれなかった世界』だった。
——一週間後。
夏休みが明け、ゆらは三年生として中学校に登校した。
教室に入り、自分の席に座る。
クラスメイトたちは、日焼けした顔で楽しそうに夏休みの思い出を語り合っている。
誰も、ゆらが死にかけたことなど知らない。
そして、誰も『雨宮しずく』という天才肌の少女がいたことを、覚えていない。
「おはよ、ゆら。夏休み、どっか行った?」
前の席の女子が、屈託のない笑顔で話しかけてくる。
「……ううん。どこにも」
「そっかー。あ、そういえばさ、美術部のコンクール、うちのクラスの山田が金賞取ったらしいよ」
「……美術部」
ゆらの心臓が、チクリと痛んだ。
本来なら、そのコンクールで圧倒的な油絵を描き、金賞を総なめにするのはしずくのはずだった。
しかし、しずくがいないこの世界では、別の誰かがその栄誉を手にしている。
ゆらは、席を立ち上がり、教室を飛び出した。
向かった先は、美術室。
ドアを開けると、イーゼルがいくつも並び、生徒たちがカンバスに向かっていた。
油絵の具の匂いが鼻を突く。
あの、甘く重い亜麻仁油の匂い。
ゆらは、部屋の奥、いつも特等席として使われていた窓際のスペースを見た。
しかし、そこにあの美しい黒髪の少女はいない。
置かれているのは、誰も使っていない真っ白なカンバスだけだった。
「あの……」
ゆらは、近くで絵を描いていた美術部員に声をかけた。
「ここに、雨宮さんって、いませんでしたか?」
「雨宮? 誰それ。うちの部にそんな名前の子、いないけど」
「……そうですか。ごめんなさい」
ゆらは、力なく頭を下げ、美術室を出た。
廊下の壁に背中を預け、ずるずるとしゃがみ込む。
しずくは、本当に消えてしまった。
誰の記憶にも残らず、何一つ痕跡を残さず。
ただ一人、ゆらだけを除いて。
あの銀色のロケットを握りしめ、記憶を『上書き』されるのを逃れたゆらだけが、この世界で唯一、しずくを覚えている。
「私だけが……」
ゆらは、ポケットからロケットを取り出し、中に入っている写真を見た。
修学旅行で、鹿せんべいを手に困ったように笑うしずく。
ゆらは、その写真の裏側をそっと指でなぞった。
『2021年 8月14日 東雲ゆら、海にて没。』という文字は、消えずに残っている。
これは、しずくが生きていたという唯一の証明だ。
そして、ゆらが背負うべき『十字架』でもある。
「……忘れないよ」
ゆらは、ロケットを胸に強く押し当てた。
「私が、ずっと覚えているから。しずくちゃんがここにいたこと、絶対に忘れないから」
窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。
しずくがゆらに遺した、残酷なほど美しい世界。
ゆらは、立ち上がり、自分の教室へと戻っていった。
誰にも見えない『喪失』を抱えたまま、残された人生を歩いていくために。
第10話へ続く




