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色彩を失くした世界で、君だけが青に溺れる  作者: カニかま太郎


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9/11

第9話:存在しない少女と、空白のカンバス

 波の音だけが、等間隔で砂浜を叩き続けている。


 東雲ゆらは、どれくらいの間そこで泣き続けていたか分からなかった。


 涙はとっくに枯れ果て、声帯は悲鳴の上げすぎで血の味がする。


 見渡す限りの青い海と空。


 しずくがその命と存在を賭けて、ゆらに遺してくれた世界。

 しかし、ゆらにとって、それは地獄よりも残酷な景色だった。



「……帰らなきゃ」


 ゆらは、砂まみれになった銀色のロケットを拾い上げ、ふらふらと立ち上がった。

 足取りはおぼつかず、何度も転びそうになる。



 『雨宮しずくという存在自体が、最初からいなかったことになる』



 しずくの最期の言葉が、頭の中でリフレインする。

 それがどういう意味なのか、確かめなければならない。


 ゆらは、来た道を戻り、町中を走り抜けた。

 向かった先は、しずくの家があるはずの場所。中学生の頃、何度も遊びに行った、ツタの絡まる古い洋館のような家。



 しかし。


 記憶通りの角を曲がった先にあったのは、見知らぬ真新しいマンションだった。


「……え?」


 ゆらは、呆然と立ち尽くした。

 表札を確認するまでもない。あんな立派な洋館が、たった一日でマンションに建て替わるはずがない。


 『雨宮』という表札の家は、この町のどこにも存在しなくなっていた。



 ゆらは、震える手でスマートフォンを取り出し、電話帳を開いた。


 『あ行』の欄。


 昨日まで確実にあったはずの『雨宮しずく』の名前が、すっぽりと抜け落ちている。

 メッセージアプリの履歴も、通話履歴も、一緒に撮った写真も。


 すべてが、最初から存在しなかったかのように、綺麗に消え去っていた。




「嘘だ……嘘だっ!」





 ゆらは、スマートフォンの画面を何度もスクロールしたが、結果は同じだった。

 世界は、完全に改変されてしまったのだ。


 『東雲ゆらが海で溺死しなかった世界』。


 それは同時に、『雨宮しずくが、この世に生まれなかった世界』だった。







 ——一週間後。

 夏休みが明け、ゆらは三年生として中学校に登校した。


 教室に入り、自分の席に座る。


 クラスメイトたちは、日焼けした顔で楽しそうに夏休みの思い出を語り合っている。

 誰も、ゆらが死にかけたことなど知らない。


 そして、誰も『雨宮しずく』という天才肌の少女がいたことを、覚えていない。


「おはよ、ゆら。夏休み、どっか行った?」


 前の席の女子が、屈託のない笑顔で話しかけてくる。


「……ううん。どこにも」


「そっかー。あ、そういえばさ、美術部のコンクール、うちのクラスの山田が金賞取ったらしいよ」


「……美術部」


 ゆらの心臓が、チクリと痛んだ。


 本来なら、そのコンクールで圧倒的な油絵を描き、金賞を総なめにするのはしずくのはずだった。



 しかし、しずくがいないこの世界では、別の誰かがその栄誉を手にしている。

 ゆらは、席を立ち上がり、教室を飛び出した。


 向かった先は、美術室。


 ドアを開けると、イーゼルがいくつも並び、生徒たちがカンバスに向かっていた。


 油絵の具の匂いが鼻を突く。


 あの、甘く重い亜麻仁油の匂い。


 ゆらは、部屋の奥、いつも特等席として使われていた窓際のスペースを見た。

 しかし、そこにあの美しい黒髪の少女はいない。

 置かれているのは、誰も使っていない真っ白なカンバスだけだった。


「あの……」


 ゆらは、近くで絵を描いていた美術部員に声をかけた。


「ここに、雨宮さんって、いませんでしたか?」


「雨宮? 誰それ。うちの部にそんな名前の子、いないけど」




「……そうですか。ごめんなさい」


 ゆらは、力なく頭を下げ、美術室を出た。

 廊下の壁に背中を預け、ずるずるとしゃがみ込む。

 しずくは、本当に消えてしまった。

 誰の記憶にも残らず、何一つ痕跡を残さず。

 ただ一人、ゆらだけを除いて。

 あの銀色のロケットを握りしめ、記憶を『上書き』されるのを逃れたゆらだけが、この世界で唯一、しずくを覚えている。







「私だけが……」


 ゆらは、ポケットからロケットを取り出し、中に入っている写真を見た。

 修学旅行で、鹿せんべいを手に困ったように笑うしずく。

 ゆらは、その写真の裏側をそっと指でなぞった。


 『2021年 8月14日 東雲ゆら、海にて没。』という文字は、消えずに残っている。


 これは、しずくが生きていたという唯一の証明だ。

 そして、ゆらが背負うべき『十字架』でもある。




「……忘れないよ」




 ゆらは、ロケットを胸に強く押し当てた。


「私が、ずっと覚えているから。しずくちゃんがここにいたこと、絶対に忘れないから」







 窓の外には、抜けるような青空が広がっていた。


 しずくがゆらに遺した、残酷なほど美しい世界。


 ゆらは、立ち上がり、自分の教室へと戻っていった。


 誰にも見えない『喪失』を抱えたまま、残された人生を歩いていくために。

第10話へ続く

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