第8話:等価交換の青と、触れられない指先
波打ち際に立つしずくの足元は、すでに蜃気楼のように揺らめいていた。
背景の青い海が、彼女のふくらはぎを透かして見えている。
「しずく、ちゃん……っ!」
ゆらは、砂浜に足を取られながらも必死に駆け寄った。
息を乱し、涙でぐしゃぐしゃになった顔を見て、しずくは信じられないものを見るように目を丸くした。
「ゆら……? どうして、走ってるの? どうして、そんな顔をしてるの?」
あどけなさが残る中学生のしずく。
しかし、その瞳の奥には、何百回もの絶望を乗り越えてきた『あのしずく』と同じ、深く暗い光が宿っていた。
「全部……全部、思い出したからだよ! 自分が三日後に死ぬことも、しずくちゃんが私のために時間を巻き戻してくれたことも!」
「えっ……」
しずくの顔から、さっと血の気が引いた。
「そんなはずない。だって、だってゆらの記憶は消えるはずなのに。……巻き戻した時間のノイズは、私が全部引き受けたはずなのに」
「これだよっ!」
ゆらは、ポケットから銀色のロケットペンダントを取り出し、しずくの目の前に突きつけた。
それは、三年後の未来——取り壊し寸前の旧校舎で、しずくが落としたもの。
『2021年 8月14日 東雲ゆら、海にて没。』と裏書きされた、あの写真が入ったロケットだ。
ゆらがこれを握りしめたまま時間を遡ったことで、記憶が『上書き』されるのを防いだのだろう。
ロケットを見た瞬間、しずくはすべてを悟ったように、悲しげに目を伏せた。
「……そっか。また、失敗しちゃったんだね、私」
「失敗って、なに! なんでしずくちゃんの身体、消えかかってるの!」
ゆらは叫びながら、しずくの肩を掴もうと両手を伸ばした。
——しかし。
ゆらの手は、空気を掴むように、しずくの身体をすり抜けた。
「……え?」
勢い余って砂浜に倒れ込みそうになるのをこらえ、ゆらは自分の両手を見つめた。
触れられない。
あの、氷のように冷たかった体温すら、今のしずくからは感じ取れない。
「ダメだよ、ゆら。もう、触れないで」
しずくは、一歩だけ後ろに下がった。
波が彼女の足元を洗うが、水しぶきはしずくの身体を通り抜けていく。
「どうして……どうして触れないの! 私、助けに来たのに!」
「等価交換、、、なんだよ」
しずくの声は、潮騒に掻き消されそうなほど細かった。
「私が神様に願ったのは、『ゆらが死なない世界』。……でも、運命を変えるには、大きすぎる代償が必要だった」
しずくは、自分の透けゆく両手を見つめた。
「ゆらがこの海で死ぬ運命を打ち消すためには、別の命で穴埋めをするしかない。……だから、私が身代わりになるの」
「身代わりって……」
「これからの未来で、ゆらは溺れない。でもその代わり、この世界から『雨宮しずく』という存在自体が、最初からいなかったことになる」
ゆらの呼吸が止まった。
いなかったことになる。
それは、死ぬことよりもずっと残酷な響きだった。
「そんなの……そんなの、絶対に嫌だ!」
ゆらは、泣き叫んだ。
子供のように声を上げて、砂浜に膝をつく。
「しずくちゃんがいない世界で、私だけ生き残ったって、何の意味もない! なんで勝手に決めるの! 私の命より、しずくちゃんの方がずっと大切なのに!」
「……ゆら」
「私が死ねばいいんでしょ!? 私がこの海で予定通り溺れれば、しずくちゃんは消えないんでしょ!?」
ゆらはふらふらと立ち上がり、青い海に向かって歩き出そうとした。
死ぬことへの恐怖など、今のゆらには微塵もなかった。
しずくを失うくらいなら、運命通りに海の底に沈んだ方がマシだ。
しかし、、ゆらの身体は、見えない壁に阻まれたようにピタリと動けなくなった。
「行かせないよ」
しずくが、透き通った腕で、ゆらを背後から抱きしめるような仕草をしていた。
物理的な感触はない。
しかし、強烈な念のようなものが、ゆらの身体を縛り付けていた。
「お願い、ゆら。……私の願いを、無駄にしないで」
背後から聞こえる声は、ひどく震えていた。
「何百回も、何千回も、ゆらが死ぬところを見てきたの。冷たくなったゆらの手を握るたびに、頭がおかしくなりそうだった。何度も何度も気が狂いそうになった。いや、狂った時もあった。けど私はゆらに、ゆらに死んでほしく無かった。……だから、お願い。生きて」
「しずくちゃ……っ、やだ、やだぁっ!」
「私ね、最後に一つだけ、ゆらに嘘をついたの」
しずくの身体が、さらさらと光の粒子に変わっていく。
足元から腰へ、そして胸元へ。崩壊は止まらない。
「『もう青色が必要ない』って、言ったでしょ」
「……う、ん」
「本当は、ずっと見たかった。ゆらと一緒に、この青い海と空を見たかったの。……でも、私の目にはもう、白と黒の世界しか映らないから」
しずくがゆらの前に回り込み、その頬にそっと手を添えるような仕草をした。
触れられないはずなのに、ゆらの頬には、あの氷のような冷たさと、微かな亜麻仁油の匂いがした気がした。
「綺麗だよ、ゆら。……私の代わりに、この青い世界を、ずっと見つめていてね」
しずくの顔が、光に溶けていく。
彼女は最後に、世界で一番美しく、幸福に満ちた笑みを浮かべた。
「愛してるよ、ゆら。……さようなら」
「しずくーーーーーっ!!」
ゆらは両手を伸ばし、光の粒子をかき抱こうとした。
しかし、腕の中に残ったのは、むせ返るような夏の空気と、波の音だけだった。
——静寂。
波打ち際には、ゆら一人だけが残された。
見上げれば、憎らしいほどに澄み渡る、圧倒的な青空。
そして、どこまでも続く真っ青な海。
しずくが命と存在を賭けて取り戻した、完璧な夏の日。
「あああああぁぁぁぁっ……!!」
ゆらは砂浜に崩れ落ち、獣のような悲鳴を上げた。
握りしめた手から、銀色のロケットが砂の上に落ちる。
誰もいない海辺に、ゆらの泣き声だけが、ただ虚しく吸い込まれていった。
第9話へ続く




