第7話:巻き戻った夏と、息を吹き返した青
蝉の鳴き声が、鼓膜を突き破るような暴力的な音量で響いている。
東雲ゆらは、弾かれたようにベッドから跳ね起きた。
全身が汗びっしょりで、ひどく息が荒い。肺いっぱいに酸素を吸い込むと、むせ返るような真夏の匂いがした。
「……あ、れ」
すうっと息を吐き出し、ゆらは周囲を見渡した。
見慣れた自室。
しかし、昨日まで壁に貼ってあったはずの写真科の課題プリントも、机の上に無造作に置かれていた一眼レフカメラもない。
代わりに目に入ったのは、机の端に置かれた中学生用の指定鞄と、真新しい麦わら帽子だった。
ゆらは震える足でベッドから降り、部屋の隅にある姿見の前に立った。
鏡の中にいたのは、見知らぬ女子高生ではない。
ショートカットで、日焼けした肌。少しだけ大きめのTシャツを着た、あどけない少女。
旧校舎の図書室で見た卒業アルバムの、あの写真と全く同じ姿だった。
「嘘……」
ゆらは、慌てて机の上のスマートフォンを手に取った。
画面を点灯させ、ロック画面に表示されている日付を見る。
【 2021 / 08 / 14 】
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
三年前。
ゆらが海で溺死し、しずくが世界を巻き戻し始めた『最初の日』だ。
——『次は、絶対に成功させるから。ゆらが青い空の下で、笑って生きていける世界を、私が作るから』
崩壊していく教室で、しずくは確かにそう言った。
彼女は自分の命と引き換えに、ゆらが死ぬという運命そのものを書き換えるために、この日に時間を巻き戻したのだ。
それなのに、なぜ。
どうして、何百回も消去されてきたはずの『ループの記憶』が、今のゆらには残っているのか。
ふと、右手に冷たい金属の感触があることに気づいた。
掌を開く。
そこには、あの使い古された銀色のペンダントトップが握られていた。
崩壊する世界の中で、ゆらが最後まで手放さなかった、しずくのロケット。
「……っ、しずくちゃん!」
ゆらは、ロケットをポケットにねじ込むと、部屋を飛び出した。
階段を駆け下り、玄関でサンダルを突っ掛けて外へ飛び出す。
扉を開けた瞬間、暴力的なまでの陽射しがゆらの目を焼いた。
「ああ……」
ゆらは、思わず空を見上げて、立ち尽くした。
青。
どこまでも深く、透き通るような、圧倒的な青空。
しずくがその目に映すことを諦め、灰色に塗りつぶしていた世界。
彼女が自分の色彩と時間を代償にしてまで、ゆらに見せたかった色が、そこには痛いほど鮮やかに広がっていた。
『私にはね、もう青色が必要ないの。だから、描けない』
違う。
描けなかったんじゃない。彼女は、ゆらのために青を捨てたのだ。
「馬鹿だよ、しずくちゃん……!!」
ゆらの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
景色が滲む。
でも、立ち止まっている暇はない。
今日、海に行けば。
あの海で、しずくが溺れるのを未然に防ぐことができれば、運命は変えられる。
しずくが時間を巻き戻す必要もなくなり、ゆらも死なず、二人でこの青い空の下を生きていけるはずだ。
ゆらは、アスファルトを蹴って走り出した。
目的地は、海。
町外れにある、遊泳禁止の静かな入り江。
中学生のゆらとしずくが、誰にも内緒で『秘密基地』と呼んでいた場所。
肺が焼け付くように痛い。
サンダルの鼻緒が擦れて血が滲むが、痛みなんてどうでもよかった。
ただ、しずくに会いたい。
会って、今度こそこの手で、彼女の体温を抱きしめたい。
潮風の匂いが、少しずつ濃くなっていく。
防風林の松の木を抜け、砂浜へと続く細い道を駆け下りる。
ザザーッ、と。
波の音が、耳を打った。
「しずく……!」
ゆらは、視界いっぱいに広がる真っ青な海に向かって叫んだ。
波打ち際に、ひとりの少女が立っていた。
真っ白なワンピースを着て、裸足のまま、静かに海を見つめている。
振り返った彼女の黒髪が、海風に煽られてふわりと揺れた。
あどけなさが残る、三年分の時間を遡ったしずく。
しかし、ゆらは足を踏み出そうとして、凍りついたように動けなくなった。
しずくの身体が。
彼女の膝から下が、すでに半透明に透け、空気のノイズに溶け始めていたのだ。
第8話へ続く




