第6話:灰色に沈む世界と、君だけに見える青
教室の空気が、じっとりと重くなった。
窓の外の空は、毒々しいほどの赤紫色に染まり始めている。九月の空とは思えない、異常な色彩だった。
東雲ゆらは、床にへたり込んだまま、目の前の少女を見上げた。
「……巻き戻るって、なに」
絞り出すような声だった。
震える手には、まだあの銀色のロケットが握られている。
『2021年 8月14日 東雲ゆら、海にて没。』
三年前に死んだはずの自分の名前。
「ゆらは、もう死んでるの? じゃあ、今の私は、一体誰なの……っ!」
悲鳴に近い問いかけだった。
しかし、しずくの表情は驚くほど穏やかだった。まるで、この結末を何千回と見てきたかのように。
「ゆらは、ゆらだよ。私の、、、私の、たった一人の大切な人」
しずくは、ゆらの隣にしゃがみ込むと、その冷たい両手で、ゆらの震える手を優しく包み込んだ。
「あの日……三年前の8月14日。ゆらは、私を助けようとして、海に沈んだの」
しずくの声は、静かな波のように教室に響いた。
「私は、泳げなくて。溺れかけた私を助けて……ゆらは、二度と浮かび上がってこなかった。私の、私のっ、、、私のっ!!......せいなの」
しずくの瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
しかし、それはゆらが知っている『涙』とは少し違っていた。光を反射せず、ひどく濁った、灰色の雫。
「どうしても、ゆらが死んだ事実を受け入れられなかった。だから私は、神様に願ったの。ゆらが生きていた時間まで、世界を巻き戻してほしいって」
「……そんなこと。そんなの、おとぎ話じゃ……」
「本当だよ。でもね、神様は残酷だった。時間を巻き戻すには、私自身の『時間』と『色彩』を代償にしなければならなかったの」
しずくは、窓の外の異常な夕空を見上げた。
「私の目にはね、もう世界は『灰色と黄土色』にしか見えないの。あの日、ゆらを飲み込んだ青い海も。今日みたいな赤い夕焼けも。……だから、あんな絵しか描けない」
図書委員の先輩の言葉が蘇る。
『色が見えなくなったって、言ってたらしいわよ』
「そして、時間を巻き戻すたびに……私は、この世界から少しずつ消えていく」
しずくが、自分の左手を持ち上げた。
氷のように冷たい、その手。
ゆらは息を呑んだ。
しずくの左手の指先が、空気に溶け込むように、半透明に透けていたのだ。
パソコンのモニターで見た、あの波打つようなノイズ。あれはカメラのバグなどではなく、しずくの存在そのものが崩壊し始めている証拠だったのだ。
「もう……何百回、巻き戻したか分からない」
しずくは、ふわりと笑った。
それは、世界で一番美しい、絶望の笑顔だった。
「ゆらが生きてる世界をやり直すたびに、なぜかゆらは『二年前の記憶喪失』ってことになってて……私のことも忘れてる。でも、それでよかった。ゆらが生きていてくれれば、私は何度でも初めましてって言えるから」
無糖のブラックコーヒー。
ゆらの名前を呼ぶ前の、あの息を呑むような間。
すべては、何百回も『初めまして』を繰り返してきた、しずくの狂おしいほどの愛と執着の痕跡だったのだ。
「でも、ダメだったの」
しずくの声が、かすれた。
「何度やり直しても、8月14日になると……ゆらは、記憶の海に溺れてしまう。この世界が『作られた偽物』だってことに気づいて、存在が保てなくなっちゃうの。……だから、カメラの日付も、あの日から進まない」
ゆらは、自分の胸元にあるカメラを握りしめた。
記録しなければ自分が消えてしまうという、あの強迫観念。
あれは、自分がすでに死者であり、この仮初めの世界に繋ぎ止められていることへの、無意識の恐怖だったのだ。
「しずく、ちゃん……」
ゆらの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
息が苦しい。
陸にいるはずなのに、水の中にいるように肺が圧迫される。
「ごめんね、ゆら。ごめんね……」
しずくが、ゆらの体を強く抱きしめた。
体温のない、冷たい抱擁。
しかし、そこからは確かに、甘く重い亜麻仁油の匂いがした。
「また、失敗しちゃった。……でも、大丈夫。あと一回だけなら、私の『命』と引き換えに、もう一度だけ時間を巻き戻せるから」
「やめてっ!!」
ゆらは、必死に叫んだ。
肺に水が入り込んだように声がくぐもるが、それでも叫ばずにはいられなかった。
「もうやめて! これ以上、しずくが消えちゃうなんて、そんなの嫌だ……!」
「ゆらがいない、私は、、、ゆらがいない世界で生きる方が、よっぽど、よっぽど私は嫌だよ」
しずくは、ゆらの耳元で優しく囁いた。
「次は、絶対に成功させるから。ゆらが青い空の下で、笑って生きていける世界を、私が作るから」
教室の空気が、急激に冷え込み始めた。
窓の外の赤い空が、バリバリと音を立ててひび割れ、そこから真っ暗な闇が溢れ出してくる。
世界が、崩壊していく。
「しずく……! お願い、置いていかないで……!」
ゆらは、半透明になりかけているしずくの背中に、必死にしがみついた。
「愛してるよ、ゆら」
暗闇に呑み込まれる直前。
しずくの瞳が、ふっと一瞬だけ、かつてのような美しい黒色を取り戻したように見えた。
ザザーッ。
激しい潮騒の音が、ゆらの意識を真っ白に塗り潰した。
第7話へ続く




