第5話:カンバスの裏側と、二人の東雲ゆら
旧校舎の廊下を、ゆらは走っていた。
呼吸が乱れ、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打っている。
図書委員の先輩の言葉が、耳にこびりついて離れない。
『雨宮さん、少し前から……休学してるのよ』
『一ヶ月以上も学校に来てないはずだけど』
なら、昨日の放課後、ゆらが写真を撮った彼女は誰だったのか。
無糖のブラックコーヒーを渡し、氷のような手でレンズキャップに触れたあの少女は、幽霊だとでも言うのだろうか。
階段を駆け上がり、廊下の突き当たりにある第一美術室へ飛び込む。
「しずく……!」
荒い息を吐きながら、ゆらは叫んだ。
しかし、西日の差し込む教室には、誰もいなかった。
真ん中に置かれた巨大なイーゼルと、描きかけのカンバスだけが、昨日のままそこにあった。
「いない……」
ゆらは、ふらつく足取りで教室の中へ入った。
強烈な亜麻仁油の匂いが鼻を突く。
イーゼルの横には、クーラーボックスが置かれていた。蓋を開けてみると、中には昨日と同じ銘柄の無糖ブラックコーヒーが、綺麗に二列に並んで冷やされている。
まるで、今日もゆらが来ることを知っていたかのように。
「……気持ち悪い」
ゆらは、後ずさりしてカンバスに背を向けた。
灰色と黄土色だけで描かれた海。
青色が抜け落ちた、その不気味な絵が、ゆらの背中をじっと見つめているような気がした。
逃げ出したい。
ここから離れて、自分の記憶の空白に向き合うのをやめたい。
しかし、足はなぜかイーゼルの方へと向かっていく。
何かに呼ばれているような、抗えない引力。
ゆらは、カンバスの前に立った。
荒々しい筆致で描かれた波。
そのうねりの中に、何かがある。
ゆらは、目を凝らした。
灰色の波間に、ほんのわずかだけ、別の色が混じっている。
それは、周囲の無彩色に溶け込むような、ひどくくすんだ赤褐色だった。
錆?
いや、これは……血の色だ。
ゆらは息を呑み、カンバスの裏側へと回った。
木枠に張られた麻布の裏面。そこには、びっしりと文字が書き込まれていた。
黒い油性ペンで、何度も何度も、気が狂ったように書き殴られた同じ言葉。
『ゆら ゆら ゆら ゆら ゆら ごめんね ゆら』
「……っ!」
ゆらは、悲鳴を上げそうになる口を両手で塞いだ。
カンバスの裏面全体を埋め尽くすほどの、おびただしい数の謝罪。
それは、昨日しずくが見せた、あの凄絶な悲哀の表情と同じだけの重さを持っていた。
『ごめんね、ゆら』
昨日、波の音がうるさいと言って謝ったしずくの声が蘇る。
なぜ、しずくはこんなにもゆらに謝り続けているのか。
なぜ、ゆらの名前を書き連ねているのか。
ゆらは、震える手でカンバスの木枠を掴んだ。
その時、足元でカチャリと小さな音がした。
床に落ちていたのは、使い古された銀色のペンダントトップだった。
小さなロケットの形をしている。
ゆらは、それを拾い上げた。
金具が少し錆び付いているが、無理やり開けることができそうだ。
爪を引っ掛け、ロケットを開く。
中に小さな写真が挟まっていた。
それは、今日図書室で見たものと同じ、中学時代の修学旅行の写真。
鹿せんべいを手に困ったように笑うしずくと、満面の笑みでピースサインを作るゆら。
間違いなく、ゆら自身だった。
しかし、ゆらの視線は、写真の裏側に釘付けになった。
そこには、震えるような細い字で、こう書かれていたのだ。
『2021年 8月14日 東雲ゆら、海にて没。』
「……え」
時間が、止まった。
2021年。
それは、今から三年も前のことだ。
ゆらが『事故に遭い、記憶を失った』と聞かされているのは、二年前。計算が合わない。
それに、没って、なんだ。
死んだ?
自分が?
「……うそだ」
ゆらは、ロケットを握りしめ、後ずさった。
足がもつれ、床に倒れ込む。
自分が、死んでいる?
そんな馬鹿な話があるわけがない。
現に、心臓は動いている。息もしている。首筋を流れる汗の不快感だって、はっきりと感じている。
しかし。
図書室で見た、自分にそっくりな少女の顔。
しずくの、あの異常なまでの謝罪。
青色が抜け落ちた海。
そして、カメラのモニターで永遠に点滅し続ける『8月14日』という日付。
すべての歯車が、最悪の形で噛み合っていく。
「私……私は……」
ゆらは、自分の両手を見た。
カメラのレンズを通してしか世界を認識できない、曖昧な自分。
記憶がなく、何かを記録しなければ消えてしまいそうな、幽霊のような存在。
——もし。
もし、今の『東雲ゆら』が、本当にあの夏に死んだ少女の『代用品』だとしたら。
ガラガラッ。
突然、背後で教室のドアが開く音がした。
ゆらは、弾かれたように振り返る。
逆光の中に、一人の少女が立っていた。
色素の薄い黒髪。
ひどく透き通った、悲しげな瞳。
「……しずく、ちゃん」
しずくは、床に倒れ込むゆらと、その手に握られたロケットを見て、ゆっくりと目を伏せた。
「……見つけちゃったんだね」
その声は、泣き出しそうなほど震えていた。
「ゆら。……私の、大好きなゆら」
しずくは、氷のように冷たい手で、そっとゆらの頬に触れた。
「もうすぐ、時間が巻き戻るよ。……だから、それまで少しだけ、一緒にいよう?」
窓の外の空が、不気味なほど赤く染まっていた。
真夏の夕暮れのように。
第6話へ続く




