第10話:三年間の青と、ファインダー越しの約束
記憶というものは、時間と共にひどく残酷なほど薄れていく。
声のトーン、笑った時の目尻のシワ、氷のように冷たかった指先の感触。
どれほど強烈に心に焼き付けたつもりでも、人間の脳は生きていくために、少しずつそれらを風化させてしまうようにできている。
だから、記録しなければならない。
彼女がこの世界にいたという、たった一つの証明を。
しずくが消滅してから、三年が経った。
2024年、春。
十七歳になった東雲ゆらは、海沿いにある全寮制の美術高校・写真科に入学した。
かつて——いや、改変される前の世界で、ゆらが『二年前の記憶喪失の少女』として編入してきたのと同じ高校だ。
しかし、今のゆらにはすべての記憶がある。そして、編入ではなく、自らの明確な意志でこの学校の門を叩いた。
入学祝いに両親から買ってもらったのは、奇しくもあの『消えた夏』に持っていたものと全く同じ型番の一眼レフカメラだった。
ゆらはこの三年間、憑かれたように写真を撮り続けていた。
被写体はただ一つ。海と、空。
しずくが自分の時間と色彩を代償にしてまで、ゆらのために遺してくれた『青色』だけを、狂ったようにファインダーに収め続けた。
部屋の壁という壁は、何千枚もの青い写真で埋め尽くされている。
「……ゆらちゃん、最近ずっとカメラ持ち歩いてるよね。写真家になるの?」
中学の同級生にそう聞かれた時、ゆらは静かに首を横に振った。
「ううん。誰かに見せるためじゃないの。ただ……忘れたくない人がいるから」
記録しなければ、自分が消えてしまうような強迫観念。
改変前の世界でゆらを縛っていたあの感覚は、単なる記憶喪失の副作用ではなかった。
『しずくの存在を忘れてしまえば、本当に彼女の生きた証がこの世界から消滅してしまう』
という、ゆらの魂そのものが発していた悲鳴だったのだ。
——九月。
残暑が厳しい放課後。
ゆらは、取り壊しが決まっている旧校舎へと足を向けた。
立ち入り禁止の立て札を越え、埃っぽい廊下を歩く。
軋む床の音。カビの匂い。
改変前の世界で、初めてしずくと出会ったあの日の記憶が、鮮明にフラッシュバックする。
突き当たりにある、第一美術室。
ゆらは、震える手でその扉を開けた。
西日が射し込む教室の中央。
しかしそこに、巨大なイーゼルはない。
色素の薄い黒髪を揺らす、あの美しい少女の姿もない。
不用品のパイプ椅子が乱雑に積まれただけの、ただの廃教室だった。
「……いないよね、そりゃ」
ゆらは、自嘲するように小さく笑い、胸元から銀色のロケットを取り出した。
中に入っている修学旅行の写真。
『2021年 8月14日 東雲ゆら、海にて没。』という裏書き。
この三年間の孤独は、想像を絶するものだった。
誰に話しても「そんな子は存在しない」と笑われ、両親からは「海で溺れかけたショックで幻覚を見ている」と精神科に連れて行かれそうになった。
それでも、それでも、、、ゆらは耐えた。
この世界で自分だけがしずくを覚えているのなら、自分が彼女の生きる場所になればいい。
ゆらは、かつてしずくのカンバスが置かれていた教室の中央に立ち、カメラを構えた。
ひび割れた窓ガラスの向こうに広がる、秋の空にピントを合わせる。
「ねえ、しずくちゃん」
誰もいない教室に向かって、ぽつりと呟いた。
「私、私ね、、、たくさん青い写真を撮ったよ。しずくちゃんが私に見せたかった世界を、全部記録した」
ファインダー越しの視界が、涙でぼやける。
シャッターを半押しにした時、液晶モニターの右下の表示が目に入った。
【 2024 / 09 / 18 】
正常な、今日の日付。
改変前の世界で、何度直しても『8月14日』から動かなかったあの呪いのような時計は、今はもう、正しく時を刻んでいる。
ゆらが死のループから抜け出し、生きた時間を歩んでいる証拠だった。
「だから……もう、いいよね?」
ゆらは、カメラを下ろした。
ロケットを握りしめ、目を閉じる。
三年間、張り詰めていた糸が、プツリと切れる音がした。
しずくを忘れないために生きてきた。
でも、もう限界だった。
写真の中にどれほど美しい青を閉じ込めても、しずくの声は聞こえない。しずくの体温には触れられない。
彼女がいない完璧な世界よりも、彼女と一緒に溺れ死んだあの海の方が、どれほど幸せだったか。
「……ごめんね、しずくちゃん」
ゆらは、窓際へと歩み寄った。
三階の窓から見下ろす、ひび割れたアスファルト。
ここから飛び降りれば、きっとすべてが終わる。
しずくが命を賭けて救ってくれた命を粗末にするなんて、最低な裏切りだ。
それでも、しずくのいない明日を迎えることに、もうゆらの心は耐えきれなくなっていた。
窓枠に手をかけ、身を乗り出そうとした、その時だった。
——カチャッ。
背後で、小さな音がした。
何か金属の筒のようなものが、床に転がる音。
ゆらは、弾かれたように振り返った。
床に落ちていたのは、使い古された絵の具のチューブだった。
ラベルは擦り切れているが、その色だけははっきりと分かる。
セルリアンブルー。
しずくが「もう見えない」と言って、パレットから完全に排除していたはずの、鮮やかな青色。
そして。
換気もしていない密室のはずなのに、ゆらの鼻腔を、あの匂いが微かに掠めた。
甘く重い、亜麻仁油の香り。
「……え?」
ゆらの思考が、停止した。
信じられない思いで、教室の入り口へ視線を向ける。
西日の逆光の中。
半開きのドアの影に、誰かが立っていた。
「……やっと、見つけた」
空気の振動すら愛おしくなるような、あの静謐な声。
「ゆらが撮った『青色』が、ここまで私を引っ張ってきてくれたよ」
逆光の影から一歩踏み出したその人物は、ひだまりのような、あの柔らかい笑みを浮かべていた。
最終話へ続く




