↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
色彩を失くした世界で、君だけが青に溺れる  作者: カニかま太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/11

第10話:三年間の青と、ファインダー越しの約束

 記憶というものは、時間と共にひどく残酷なほど薄れていく。


 声のトーン、笑った時の目尻のシワ、氷のように冷たかった指先の感触。


 どれほど強烈に心に焼き付けたつもりでも、人間の脳は生きていくために、少しずつそれらを風化させてしまうようにできている。


 だから、記録しなければならない。

 彼女がこの世界にいたという、たった一つの証明を。


 しずくが消滅してから、三年が経った。




 2024年、春。

 十七歳になった東雲ゆらは、海沿いにある全寮制の美術高校・写真科に入学した。







 かつて——いや、改変される前の世界で、ゆらが『二年前の記憶喪失の少女』として編入してきたのと同じ高校だ。


 しかし、今のゆらにはすべての記憶がある。そして、編入ではなく、自らの明確な意志でこの学校の門を叩いた。


 入学祝いに両親から買ってもらったのは、奇しくもあの『消えた夏』に持っていたものと全く同じ型番の一眼レフカメラだった。

 ゆらはこの三年間、憑かれたように写真を撮り続けていた。


 被写体はただ一つ。海と、空。


 しずくが自分の時間と色彩を代償にしてまで、ゆらのために遺してくれた『青色』だけを、狂ったようにファインダーに収め続けた。


 部屋の壁という壁は、何千枚もの青い写真で埋め尽くされている。


「……ゆらちゃん、最近ずっとカメラ持ち歩いてるよね。写真家になるの?」


 中学の同級生にそう聞かれた時、ゆらは静かに首を横に振った。


「ううん。誰かに見せるためじゃないの。ただ……忘れたくない人がいるから」


 記録しなければ、自分が消えてしまうような強迫観念。

 改変前の世界でゆらを縛っていたあの感覚は、単なる記憶喪失の副作用ではなかった。


 『しずくの存在を忘れてしまえば、本当に彼女の生きた証がこの世界から消滅してしまう』

という、ゆらの魂そのものが発していた悲鳴だったのだ。





 ——九月。

 残暑が厳しい放課後。

 ゆらは、取り壊しが決まっている旧校舎へと足を向けた。

 立ち入り禁止の立て札を越え、埃っぽい廊下を歩く。


 軋む床の音。カビの匂い。


 改変前の世界で、初めてしずくと出会ったあの日の記憶が、鮮明にフラッシュバックする。


 突き当たりにある、第一美術室。

 ゆらは、震える手でその扉を開けた。


 西日が射し込む教室の中央。

 しかしそこに、巨大なイーゼルはない。


 色素の薄い黒髪を揺らす、あの美しい少女の姿もない。

 不用品のパイプ椅子が乱雑に積まれただけの、ただの廃教室だった。


「……いないよね、そりゃ」


 ゆらは、自嘲するように小さく笑い、胸元から銀色のロケットを取り出した。

 中に入っている修学旅行の写真。



 『2021年 8月14日 東雲ゆら、海にて没。』という裏書き。

 この三年間の孤独は、想像を絶するものだった。

 誰に話しても「そんな子は存在しない」と笑われ、両親からは「海で溺れかけたショックで幻覚を見ている」と精神科に連れて行かれそうになった。




 それでも、それでも、、、ゆらは耐えた。




 この世界で自分だけがしずくを覚えているのなら、自分が彼女の生きる場所になればいい。


 ゆらは、かつてしずくのカンバスが置かれていた教室の中央に立ち、カメラを構えた。

 ひび割れた窓ガラスの向こうに広がる、秋の空にピントを合わせる。











「ねえ、しずくちゃん」











 誰もいない教室に向かって、ぽつりと呟いた。




「私、私ね、、、たくさん青い写真を撮ったよ。しずくちゃんが私に見せたかった世界を、全部記録した」



 ファインダー越しの視界が、涙でぼやける。

 シャッターを半押しにした時、液晶モニターの右下の表示が目に入った。




【 2024 / 09 / 18 】




 正常な、今日の日付。

 改変前の世界で、何度直しても『8月14日』から動かなかったあの呪いのような時計は、今はもう、正しく時を刻んでいる。


 ゆらが死のループから抜け出し、生きた時間を歩んでいる証拠だった。



「だから……もう、いいよね?」


 ゆらは、カメラを下ろした。

 ロケットを握りしめ、目を閉じる。

 三年間、張り詰めていた糸が、プツリと切れる音がした。


 しずくを忘れないために生きてきた。


 でも、もう限界だった。


 写真の中にどれほど美しい青を閉じ込めても、しずくの声は聞こえない。しずくの体温には触れられない。


 彼女がいない完璧な世界よりも、彼女と一緒に溺れ死んだあの海の方が、どれほど幸せだったか。




「……ごめんね、しずくちゃん」


 ゆらは、窓際へと歩み寄った。

 三階の窓から見下ろす、ひび割れたアスファルト。




 ここから飛び降りれば、きっとすべてが終わる。

 しずくが命を賭けて救ってくれた命を粗末にするなんて、最低な裏切りだ。

 それでも、しずくのいない明日を迎えることに、もうゆらの心は耐えきれなくなっていた。

 窓枠に手をかけ、身を乗り出そうとした、その時だった。



 ——カチャッ。

 背後で、小さな音がした。

 何か金属の筒のようなものが、床に転がる音。

 ゆらは、弾かれたように振り返った。

 床に落ちていたのは、使い古された絵の具のチューブだった。


 ラベルは擦り切れているが、その色だけははっきりと分かる。


 セルリアンブルー。


 しずくが「もう見えない」と言って、パレットから完全に排除していたはずの、鮮やかな青色。




 そして。

 換気もしていない密室のはずなのに、ゆらの鼻腔を、あの匂いが微かに掠めた。

 甘く重い、亜麻仁油《リンシードオイル》の香り。



「……え?」


 ゆらの思考が、停止した。


 信じられない思いで、教室の入り口へ視線を向ける。


 西日の逆光の中。


 半開きのドアの影に、誰かが立っていた。


「……やっと、見つけた」


 空気の振動すら愛おしくなるような、あの静謐な声。


「ゆらが撮った『青色』が、ここまで私を引っ張ってきてくれたよ」


 逆光の影から一歩踏み出したその人物は、ひだまりのような、あの柔らかい笑みを浮かべていた。

最終話へ続く

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。