第11話:色彩を失くした世界で、君だけが青に溺れる
西日の射し込む、旧校舎の第一美術室。
東雲ゆらは、自分の目を疑った。
呼吸の仕方を忘れ、ただ呆然と、半開きのドアの影に立つ少女を見つめる。
色素の薄い、肩甲骨のあたりで切り揃えられた黒髪。
三年前のあの日、波打ち際で光の粒子となって消えていったはずの、雨宮しずく。
「……しずく、ちゃん?」
掠れた声が、埃っぽい空気に溶けた。
幻覚だろうか。
三年間、彼女の不在を嘆き、青い空ばかりを見上げ続けたゆらの脳が見せている、都合のいい白昼夢。
しかし、しずくはゆっくりと教室の中へ足を踏み入れ、ゆらの目の前までやってきた。
その足元は、もう透けていない。
しっかりと、床の上の乾いた絵の具のチューブを踏み鳴らしている。
「どうして……どうして、ここに。だってしずくちゃんは、三年前の海で……」
「うん。代償として、存在ごと消えたはずだった」
しずくは、ふわりと微笑んだ。
その瞳は、もう絶望に濁ってはいなかった。どこまでも透き通った、美しい黒色。
「でもね、この世界は、この世界は、、、ゆらが私のために作ってくれた『青』で溢れていたから」
「私が、作った……?」
しずくは、ゆらの首から下がっているカメラにそっと手を伸ばした。
触れられた指先。
それは、死人のように冷たかったかつての体温ではなく、生ぬるい秋の空気を孕んだ、確かな『生者の体温』だった。
「ゆらはこの三年間、ずっと青い写真を撮り続けてくれたでしょ」
しずくの声が、ゆらの鼓膜を優しく震わせる。
「私が自分の時間と色彩を犠牲にして、ゆらを死の運命から救い出した。……でも、ゆらはその代償を、たった一人で背負ってくれたの。何千枚もの青い写真を記録することで、失われた『私の色彩』を、この世界に繋ぎ止めていてくれた」
ゆらは、ハッと息を呑んだ。
記憶を繋ぎ止めるための、強迫観念。
この三年間、取り憑かれたように青い空と海ばかりをファインダーに収め続けていたのは、無意識のうちに、しずくが失った『青色』を世界に補完し続けていたということなのか。
「等価交換だよ、ゆら」
しずくは、ゆらの頬に両手を添えた。
温かい。
本物の、しずくの熱だ。
「ゆらが私を忘れないでいてくれたから。ゆらが集めてくれた青色が、私の存在を、もう一度この世界に形作ってくれたの」
しずくの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
それは、かつてのような濁った灰色の雫ではない。西日を反射してキラキラと光る、透明な涙だった。
「……しずくちゃん」
ゆらの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
三年間、枯れ果てたと思っていた涙腺が崩壊し、嗚咽が漏れる。
「ごめんね……ごめんね、私だけ生き残って……ずっと、寂しかったっ……!」
ゆらは、しずくの華奢な身体にすがりつき、子供のように泣きじゃくった。
しずくは、ゆらの背中を優しく撫でながら、耳元で囁く。
「もう謝らないで。……これからは、ずっと一緒だよ」
——ふと、教室の隅に置かれた見慣れないイーゼルが目に入った。
そこには、真新しいカンバスが立てかけられていた。
描かれているのは、海。
しかし、かつてしずくが狂ったように描き続けていた『灰色と黄土色だけの終わらない海』ではない。
圧倒的な深さと透明感を持つ、完璧な青い海。
そして、その波打ち際で、二人の少女が手をつないで笑っている絵。
「しずくちゃん……色、見えるようになったの?」
「うん」
しずくは、ゆらの胸元に顔を埋めたまま、嬉しそうに頷いた。
「ゆらが作ってくれた世界のおかげで、今は全部、綺麗に見えるよ」
ゆらは、自分のポケットから、あの銀色のロケットを取り出した。
三年前から、ずっとゆらを狂気と絶望から繋ぎ止めてきた命綱。
カチャリと金具を開く。
中に入っている修学旅行の写真。
そして、裏書きの文字。
そこにはもう、『2021年 8月14日 東雲ゆら、海にて没。』という呪いの言葉はなかった。
代わりに、丸みを帯びた見覚えのある文字で、ただ一言だけこう書かれていた。
『初めまして、私の青。』
窓の外から、生ぬるい秋の風が吹き込んだ。
それは、甘く重い亜麻仁油の匂いと混ざり合い、二人の少女の髪を優しく揺らした。
遠くで、波の音が聞こえた気がした。
それはもう、恐怖の象徴ではない。
止まっていた二人の時間が、再び同じ速度で流れ始めた、祝福の潮騒だった。
【終わり】
最後までご覧頂き、ありがとうございました!!
ゆらとしずくの「青」を巡る物語、いかがでしたでしょうか?
今後この様な作品を執筆出来るよう努力して参りますので、是非応援しててください!よろしくお願いします!




