第3話:暗室のノイズと、消えた夏
放課後の写真部部室は、旧校舎の地下にある。
かつては用務員室として使われていたその狭い空間は、窓が一つもなく、昼間でもひんやりとした空気が淀んでいた。
東雲ゆらは、パイプ椅子に腰掛け、机の上に置かれたノートパソコンの画面を睨みつけていた。
画面には、先ほど第一美術室で撮影した写真のデータが一覧で表示されている。
「……やっぱり、おかしい」
独り言が、誰もいない部室に虚しく響く。
ゆらが首を傾げているのは、写真の出来栄えではない。
SDカードに保存されたデータの『タイムスタンプ』だった。
ファイル名:IMG_814001.JPG
撮影日時:2024/08/14 16:32
ファイル名:IMG_814002.JPG
撮影日時:2024/08/14 16:33
並んだ写真のプロパティを何度確認しても、日付は『8月14日』で固定されている。
カメラ本体の時計設定は、つい先ほど、パソコンに繋ぐ前に『9月18日』に修正したはずだ。それなのに、データを取り込むと、なぜか撮影日はすべて8月14日に書き換えられてしまうのだ。
「ウイルス……なのかな」
ゆらはため息をつき、一枚の写真をクリックして全画面表示にした。
画面いっぱいに広がるのは、窓際で静かに微笑む雨宮しずくの姿。
逆光のせいで、彼女の輪郭は光に溶け込むようにふんわりと白飛びしている。
色素の薄い髪、透き通るような肌、そして、どこか悲しげな瞳。
天才と持て囃される油絵科の少女は、レンズ越しに見ても、やはり圧倒的な美しさを放っていた。
ゆらは、マウスのホイールを回して、しずくの顔を拡大した。
ピクセルが荒くなり、写真特有のノイズが目立ち始める。
その時、ゆらはある違和感に気づいた。
「これ……なに?」
しずくの左手。
あの時、氷のように冷たかった彼女の指先が、写真の中では奇妙に歪んでいた。
ブレているわけではない。
被写体ブレなら、他の部分も同じ方向にブレるはずだ。しかし、歪んでいるのはしずくの左手首から先だけ。
まるで、そこだけ水の中に沈んでいるかのように、輪郭がぐにゃりと波打っていた。
背筋に冷たいものが走った。
幽霊でも写ってしまったのだろうか。
いや、そんなはずはない。デジタルのバグか、レンズの汚れか。論理的な説明がつくはずだ。
ゆらは、もう一度写真全体を俯瞰するように、ズームを戻した。
その瞬間、部室の重い鉄扉が、ギィッと鈍い音を立てて開いた。
「——東雲さん?」
入り口に立っていたのは、同じ写真科の同級生、佐藤だった。
首から見慣れたカメラを下げ、怪訝そうな顔でゆらを見下ろしている。
「佐藤くん。どうしたの?」
「どうしたのって、こっちのセリフだよ。何してるの、こんな暗いところで」
「写真のデータ整理。……ねえ、ちょっとこれ見てくれない?」
ゆらは、パソコンの画面を佐藤の方に向けた。
「なんだよ、心霊写真か?」
「違うよ。このしずくちゃん……雨宮さんの左手、なんかおかしくない?」
佐藤は画面を覗き込み、目を細めた。
「ああ、雨宮か。相変わらず美人だな。……左手? 別に普通じゃないか?」
「え?」
ゆらは慌てて画面を覗き込んだ。
——消えている。
先ほどまで確かに波打つように歪んでいたしずくの左手は、佐藤が見た瞬間、なんの変哲もない綺麗な指先へと戻っていた。
ピクセルレベルで拡大しても、先ほどのようなノイズはどこにも見当たらない。
「あれ……? おかしいな、さっきまでは……」
「見間違いだろ。それよりさ、早く出ようぜ。こんな地下室、息が詰まる」
佐藤は呆れたように肩を竦めると、さっさと踵を返した。
ゆらは、釈然としない思いを抱えたまま、パソコンの電源を落とした。
見間違い。本当にそうだろうか。
あの波打つようなノイズは、しずくの氷のように冷たい体温と、何か関係があるような気がしてならない。
鞄にパソコンとカメラをしまい、ゆらは部室を出た。
鉄扉を閉める直前、もう一度だけ、薄暗い室内を振り返る。
ふと、あの甘く重い、亜麻仁油の匂いがした気がした。
気のせいだ。
ここは写真部の暗室で、美術室はずっと上の階にある。匂いが届くはずなどない。
ゆらは自分に言い聞かせるように扉を閉め、鍵をかけた。
廊下に出ると、佐藤が壁に寄りかかって待っていた。
「そういえばさ、東雲さん」
佐藤は、ゆらの顔を見ずに、ぽつりと口を開いた。
「雨宮と、知り合いだったっけ?」
「え? ううん、今日初めて話したの。旧校舎の美術室で、たまたま」
「ふーん……」
佐藤の相槌は、どこか上の空だった。
「どうかした?」
「いや、ただの噂なんだけどさ」
佐藤は、声を潜めた。
地下の冷たい空気が、ゆらの足元を這い上がってくる。
「雨宮って、昔……中学生の頃かな。海で仲の良かった友達を亡くしてるらしいんだよね」
「……え?」
ゆらの足が、ピタリと止まった。
「それからずっと、雨宮はおかしくなっちゃったんだって。毎日毎日、取り憑かれたみたいに海の絵ばっかり描いてるって」
「海の、絵……」
脳裏に、あの灰色と黄土色だけで描かれた、不気味なほどリアルな海がフラッシュバックする。
青色が抜け落ちた、終わらない海。
「その友達って……誰?」
「さあ? 俺も人づてに聞いた話だから、詳しいことは知らない。でもさ……」
佐藤は、そこで初めてゆらの顔を正面から見た。
その瞳には、隠しきれない不安の色が浮かんでいた。
「その亡くなった友達の命日が、『8月14日』らしいんだよね」
——心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
カメラの液晶モニターで点滅していた、あの忌まわしい日付。
何度直しても元に戻ってしまう、あの夏の日。
『ゆらは、海が好き?』
しずくの静かな声が、耳の奥でリフレインする。
息が、苦しい。
まるで、深い深い水の中に引きずり込まれるような錯覚。
ゆらは、咄嗟に胸元のカメラを強く握りしめた。
金属の冷たい感触だけが、今のゆらをこの現実に繋ぎ止める唯一の命綱だった。
第4話へ続く




