第2話:記憶の海と、色を失った画材
シャッターを切った直後、カメラの液晶モニターがプツンとブラックアウトした。
バッテリー切れのサインだった。
ゆらは小さく舌打ちをして、カメラを胸元に下ろした。
その様子を静かに見守っていたしずくが、ふと、カンバスの方へと向き直る。
「……バッテリー、切れちゃった?」
「あ、うん。ごめんね、せっかく撮らせてくれたのに。ちゃんと保存されてるか、後で確認しておく」
「ううん、いいの。あなたがシャッターを押してくれたって事実だけで、私は十分だから」
しずくの言葉は、相変わらずどこか遠くを見ているような、ひどく静謐な響きを持っていた。
「あのさ」
ゆらは、先ほどから気になっていた疑問を口にした。
「その絵、いつから描いてるの?」
「これ?」
しずくは、灰色と黄土色だけで構成された海の絵を指差した。
「うん。すごく精密だし、完成までまだかかりそうだなって」
「……そうだね」
しずくは、パレットの上の灰色の絵の具をナイフで少しだけすくい取ると、カンバスの端、波の飛沫を描いた部分にそっと色を乗せた。
「この絵を描き始めてから、もう、ずっと経つよ。気が遠くなるくらい、ずっと」
「ずっとって、どれくらい?」
「……数え切れないくらい。だから、もう分からないの」
冗談を言っているようには見えなかった。
しずくの横顔は、本気でその言葉を信じている人間のそれだった。
「ねえ、ゆら」
再び、ゆらの名前を呼ぶ前のあの一瞬の「間」。
「あなたは、海が好き?」
「海?」
唐突な質問に、ゆらは少しだけ考え込んだ。
二年前の事故以来、ゆらの記憶にはぽっかりと穴が空いている。海に関する明確な思い出があるわけではない。
ただ、なぜか海と聞くと、胸の奥がキュッと締め付けられるような、言いようのない不安感に襲われることがあった。
「……好きか嫌いか、よく分からない。でも、時々すごく怖くなることがあるの。なんだか、息ができなくなるみたいで」
ゆらがそう答えると、しずくの筆を動かす手がピタリと止まった。
「そう……だよね。怖い、よね」
しずくは、ゆらに背を向けたまま、ぽつりと呟いた。
その声は、泣き出しそうなほど震えているように聞こえた。
「ごめんね、ゆら」
「え? どうしてしずくが謝るの?」
「……なんでもない。ただ、少しだけ、波の音がうるさいなって」
旧校舎の窓の外には、海などどこにも見えない。
あるのは、ひび割れたアスファルトのグラウンドと、色褪せた秋の空だけだ。
それなのに、しずくの言葉を聞いた瞬間、ゆらの耳の奥で、ザザーッという波の音が鳴り響いた気がした。
幻聴だ。
そう分かっているのに、その音はひどくリアルで、ゆらの心臓を不快に叩き続けた。
「……しずく、その絵」
ゆらは、耐えきれずに口を開いた。
「どうして、青を使わないの? 海に溶けちゃったからって言ってたけど、それじゃ絵が完成しないじゃない」
「完成しなくていいの」
しずくは、きっぱりと答えた。
「完成したら、終わっちゃうでしょ。私は、この海を終わらせたくないの。だから、青は使わない。青がないと、海は永遠に完成しないから」
意味が分からなかった。
芸術家の感性という言葉では片付けられない、何かひどく歪んだ執着を、その言葉から感じ取った。
ふと、しずくがこちらを振り返った。
その瞳は、やはりひどく透き通っていて、底知れぬ深さを持っていた。
「ゆらは、私の青を見つけてくれる?」
それは、問いかけというよりも、祈りに似ていた。
「見つけるって……どこで?」
「分からない。でも、ゆらならきっと、見つけてくれる気がするから」
しずくはそう言って、再びあのひだまりのような笑みを浮かべた。
その笑顔があまりにも綺麗で、ゆらはそれ以上何も言えなくなってしまった。
窓の外から、生ぬるい秋の風が吹き込んだ。
風に揺れるしずくの黒髪が、西日を浴びて、ほんの一瞬だけ、淡い青色に透けた気がした。
第3話へ続く




