第1話:ファインダー越しの空白と、君の匂い
九月も半ばを過ぎたというのに、首筋を這う汗は酷くまとわりつく。
東雲ゆらは、旧校舎の軋む廊下で足を止め、首から下げた一眼レフカメラの電源を入れた。
液晶モニターが僅かな駆動音と共に光り、レンズ越しに四角く切り取られた世界が映し出される。
シャッターを切る。
カシャリ、という乾いた音が埃っぽい空気に吸い込まれた。
モニターに保存されたプレビュー画像を確認する。
そこにあるのは、ひび割れた窓ガラスと、その向こうに広がる白茶けた秋の空。
ゆらは小さく息を吐き、また歩き出す。
何かを撮らなければならない。そんな焦燥感だけが、いつも胸の奥にこびりついている。
SDカードに記録されたデータだけが、ゆらの輪郭を繋ぎ止めている唯一の錨だった。
ファインダーから目を離すと、世界はひどく曖昧で、自分という存在が今にもふつりと消えてしまいそうになる。
ふと、微かな匂いが鼻腔を掠めた。
カビと埃の匂いに混じる、甘く重い亜麻仁油の香り。
取り壊しが決まり、立ち入り禁止になっているはずのこの棟で、人の気配がする。
匂いの元を辿るように歩を進めると、廊下の突き当たりにある第一美術室の扉が、僅かに開いていた。
隙間から覗き込んだ瞬間、ゆらの思考は唐突に停止した。
西日が射し込む教室の中央。
絵の具に塗れたエプロンを纏ったひとりの少女が、巨大なカンバスに向かっていた。
色素の薄い黒髪が、動くたびに肩甲骨のあたりでふわりと揺れる。
長い睫毛に縁取られた瞳は、ひどく透き通っていて——圧倒的に、美しかった。
呼吸をすることすら忘れ、ただその横顔に見入ってしまう。
踏み出した足が、床に落ちていた乾いた絵の具のチューブを踏み鳴らした。
「……あ」
小さな音に、少女が振り返る。
目と目が合った。
その瞬間、少女の筆を持った手が、ぴたりと止まった。
彼女の瞳が大きく見開かれ、呼吸が浅く乱れる。
驚愕、縋るような安堵、そして、今にも泣き崩れそうなほどの凄絶な悲哀。
なぜ、見ず知らずの自分を見て、そんな表情をするのだろう。
「……ゆら、ちゃん」
かすれるような声で、彼女の唇が確かにそう動いた。
だが、ゆらが聞き返す前に、少女はふわりと、ひだまりのような柔らかい笑みを浮かべた。
先ほどの悲壮な表情は、まるで幻だったかのように消え去っている。
「見つかっちゃった。ここは私だけの秘密基地だったのに」
声は、ひどく穏やかだった。
初めて聞くはずなのに、鼓膜の奥がじんわりと熱くなるような不思議な引力があった。
「ご、ごめんなさい。写真科の、東雲ゆらです。ここ、立ち入り禁止だって忘れてて……あの、あなたは?」
「知ってる。写真科の、東雲さんね。私は雨宮しずく」
油絵科の天才。
そういえば、編入してすぐに同級生が噂していた名前だ。
しずくは筆を置くと、傍らにあったクーラーボックスから缶コーヒーを取り出し、ゆらの方へ歩み寄ってきた。
「はい、お近付きの印。暑いでしょ」
「え……ありがとう」
受け取った缶の冷たさに、ゆらは目を瞬かせた。
それは無糖のブラックコーヒーだった。甘いものが極端に苦手なゆらが、いつも自販機で迷わず押す特定の銘柄。
「……私、こればっかり飲んでるんです。偶然ですね」
「うん。偶然」
しずくは微笑んだまま、自分の分の缶を開けた。
ふと、ゆらの視線がしずくの背後——描きかけのカンバスに吸い寄せられた。
息を呑んだ。
描かれているのは、海だった。
波のうねり、打ち寄せる飛沫の躍動感。
その筆致は凄まじく、潮騒の音が聞こえてきそうなほどの圧倒的なリアリティを持っていた。
しかし、決定的な何かがおかしい。
「すごい……でも、不思議な絵」
「そう?」
「だって、海も空も……全部『灰色と黄土色』だけで描かれてる」
どこまでも広がる海景の中に、青色が一滴も存在しないのだ。
パレットの上を見ても、並んでいるのは無彩色と暖色ばかりで、ブルーの絵の具のチューブすら見当たらない。
「青色は、使わないの?」
ゆらの問いに、しずくは窓の外を見つめた。
どこまでも高く澄み渡る、秋の青空。
それを見上げる彼女の横顔は、まるで色褪せた古い映画のワンシーンのようにひどく寂寥としていた。
「……青はね」
しずくの声は、空気に溶けるほど小さかった。
「海の中に、全部溶けてなくなっちゃったから。だから私にはもう、この色しか見えないの」
芸術家特有の、詩的な表現なのだろうか。
真意を測りかねていると、しずくがゆっくりと手を伸ばし、ゆらの胸元にあるカメラのレンズキャップに触れた。
「ひっ」
ゆらの喉から、短い息が漏れる。
触れられた彼女の指先が、死人のように、氷のように冷たかったからだ。
冷房などない蒸し風呂のような教室で、どうしてこんな体温になるのか。
「ねえ、ゆら」
しずくは、ゆらの名前を呼ぶ前、ほんの一拍だけ息を呑むような間を空けた。
それはまるで、触れれば壊れてしまう硝子細工を扱うような、ひどく慎重で愛おしげな響きだった。
「そのカメラで、私のことも残してくれる? 私がここにいたってこと、あなたが忘れないように」
吸い込まれるように、ゆらはカメラを構えた。
ファインダー越しに、静かに微笑むしずくの姿を捉える。
ピントを合わせようとした視界の隅で、液晶画面の右下に表示されたデジタルの日付が点滅した。
【 2024 / 08 / 14 】
まただ。
何度設定し直しても、このカメラの日付は『8月14日』から一日も進もうとしない。
壊れた時計の表示から目を逸らし、ゆらは静かにシャッターを切った。
第2話へ続く




