記憶
(……あれ、俺は――――――)
頭が少しだけぼーっとする。
それはいつの日だったか、ふと目を開けると見えたのは金属で作られた天井。
ここはリゼル達実験体が長い時を過ごしたキーラの研究室の中。
時計を見るのと共にちらりと見えた電子時計の時間は、もう記憶の隅からも消えてしまった、遥か遠い昔。
この日は確か……十歳にも満たなかったハンナがキーラの実験によってその視界を閉じさせられた日。
ふわりと浮かんでくる記憶は確か、彼女の事が気になって眠れなくて、そうしたら壁の後ろからどこかで泣いているような声が聞こえて……リゼルは部屋を出た。
キーラはこことは少し離れた別室で眠っているのでいない、最も今となってはモニタリングは常にしていたのかもしれないが、この時はそんな事も気に留めていなかった。
『……眠れないのか?』
口に出した問いに、少しだけ聞こえていたすすり泣く声が止まる。
バレバレな挙動、この時は泣いている姿を見られたくなかったのか、あるいはただ恥ずかしかっただけかもしれないが、いずれにせよリゼルは特に構うことなく扉を開け、少しだけ驚いた顔を向けるハンナと目が合う。
並んだベッドの隙間、壁に寄り掛かったまま痕が残るくらいまで赤く泣き腫らした目元と頬は、リゼルが今までに見た、彼女の最後の涙だった。
『ハンナ……眠れないのか?』
『……ぐすっ……怖いの。電気をつけても消してもずっと暗くて、何も聞こえない』
ハンナの言葉に、辺りを見渡す。
実験を受け続けてもう何年経ったか、もう一年ほど前から、同じ部屋の実験動物達の姿はすっかり見ていない。
それが悲しくも感じなくなったのはいつからだったか、否、最初にハンナを助けてからそれほど仲良くはなかったかもしれないが、きっと心を交わすのを止めた時からだ。
親しくなっても次の日には記憶は無かった、手を結んでも次の日には見かけなかった。
ただ良かったことは、実験を受けているうちにそんな記憶も朧気になっていったこと。
『リゼル……怖い、怖いよ。目を閉じたらきっともう目が覚めない気がする。手を伸ばしても、どこに歩いても――――――』
何も掴めない、直後僅かに軋むような音を立てながら、ぱたりと扉が閉まる。
同時にびくっと怯えるように跳ねた身体は、それだけ彼女が今までは普通だったはずの聴覚情報に過敏になっている証だったのか。
普段なら聞きなれているような環境音も、ただの物音でさえ。
『扉が閉まっただけだ』
『分かってる……それでも怖いの。リゼルには分かんないよ』
『……そうだな、ごめん』
『……ち、違う。リゼルがこうなるのは嫌、なるなら私で良いの。でも――――――』
再び涙を拭うハンナ。
今思えば、リゼルが彼女を守らないといけないと思ったのは、この日だった。
いつも後ろでついてきていたはずの少女が光を失って、ついてくることさえ出来なくなって。
『……ハンナ――――――』
リゼルは膝をついてしゃがみ込むと、目の前でひっこめられる手を握る。
静かな部屋に少しだけ鳴った物音はまた少しだけ驚かせてしまったか、この時何を考えてこんな行動を取ったのかはもう思い出せない。
わずかに跳ねる身体に今度は構わず、涙で少しだけ濡れた彼女の手を掴んだまま、少しだけ強張る身体に『力を抜け』と、そのまま自分の胸元に持っていく。
少しだけ不規則に、それでも常に一定の鼓動を刻んでいる心臓の上へ。
『……動いてる』
『ああ、これが俺だ。光なんて必要ない。何か分からなくなっても、いつもこの音だけに耳を済ませてろ。必ずこの音が聞こえる範囲に俺はいる』
『何があっても絶対に』そんな慰めにもならない言葉に、ハンナはやがて一瞬の間の後、小さく細い手のひらを握りしめる。
思いだせば、リゼルが彼女に感じていた感情は、きっと親愛だけじゃなかった。
それがいつの間に変わったのかは分からない……あるいはさっきの並んで立つ二人の様子を見た以上、もしかしたら心の中ではずっと変わっていなかったのかも。
それでも、このざわつく胸がもしも本物だったのなら。
『音……少しだけ早い気がする』
『どうだと思う?それが、ハンナを守る証だ』
薄っぺらい告白、ハンナはその意味に気づいたのか一瞬の逡巡の後僅かに顔を上げる。
それでも、彼女の答えもリゼルは分かっていた。
光を見たことのない二人に、外の世界を知らない二人に、覗ける世界は余りに狭すぎたから。
『……ねえ、もう少しだけ……触っても良い?』
『ああ、勿論』
頷くと、直ぐにぺたぺたと彼女の手が探るようにリゼルの身体を撫でる。
少しだけ気恥ずかしいような、むず痒いような、とはいえ当然拒否をする気も無かったが、暫くされるがままで居ると、やがて彷徨っていた細腕が停止する。
同時に、迷いなくこちらへ向けられた見えないはずの彼女の視線に、リゼルは不思議と引き込まれていた。
『……ねぇ』
『なんだ、まだ怖いか?』
『……リゼルも、触って?』
彼女の赤く染まった頬に、リゼルは一瞬の逡巡の後、少しだけ目を伏せる。
言葉の意味は聞くまでも無かった。
彼女が後悔をしないのなら、当然リゼルに断る理由も。
「……んふふふ……甘い」
「……ああ、全部覚えろ。視界以外の全てで……俺達がいつでも戻ってこられるように」
ただこの時一つだけ間違いを犯したとするなら、それはきっと二人の過去の清算の仕方だったのだろう。
口元に残る生暖かく湿った感触にどこかで聞こえていた音が消える。
それは果たしてこの長い夢の終わり、否、もしそうだとしても……もしも万が一、目覚めた先にこの夢の続きがあるなら。
『リゼル……大好きよ。今までも、これからも。私の世界にはずっとあなたしかいない。例え二人の間に何があっても、世界中が私達を嫌っても――――――』
『……分かってる。俺も、一生をかけてお前を守る。例え世界中を敵に回しても――――――』
――――――ずっと、ハンナだけを見続ける。
「……ええ、でも夢は終わったわ」
そして、最悪な寝覚めはどこか懐かしい場所で始まった。
「……ここは?」
意識が覚醒する。
それは一瞬の出来事、最初に視界を動かすと見えたのは鉄づくりの天井に、誰も座っていないテーブル。
次いで感じたのはどこか懐かしい匂い、そして側頭部に当たる柔らかい感触と、不意にこちらを撫でる優し気な手、こちらを見下ろす瞳。
「どう、よく眠れたかしら?」
「……嫌な夢だ。キーラ、ここは?」
「あら、言わなくても分かるでしょう?ここは私達の『家』。かつて私とリゼル、ハンナちゃん達が皆で暮らした――――――」
キーラの言葉に、少しだけ痛む寝そべっていた身体を起こす。
状況が分からない。
記憶はある、確かハンナとの戦いを何とか乗り切り、勝利したリゼルとカミアは突然現れた異なる世界のリゼル、そしてハンナと戦って……万が一に懸けて逃げた。
「……何でここに?俺は帰還デバイスを使ったはずじゃ――――――」
「ふふふ、心配しなくても直ぐに全部分かるわ。だから起き上がったのならそうね……少しだけ歩きましょうか。懐かしき私達の住処を」
「懐かしきって、お前は今も住んでるだろ」
彼女の住処は昔からずっと変わっていないはず。
そんな言葉に、キーラは再びふふっと笑う。
同時に、一瞬だけ視界の端に映った白い布に飛んだ血痕は、浮かんだままのリゼルを少しだけ現実に引き戻してくれる。
歩き始めたのは長い廊下……通り過ぎた部屋に横たわっていた、キーラにそっくりな人影も。
「ふむ、そろそろ話しても構わないかな」
「あら、イリアちゃん。あなたも居たのね!」
「……カミアで良い。それで、ここが君達の家か?」
カミアの言葉に、リゼルが頷く。
とはいえ実際、全く同じかと言えばそういう訳では無い。
ここ最近は彼女の家に行っていなかったので断定はできないが、彼女の家には網のように幾つものメイン通路と隠し通路があって、その数がいくつか増えている気がする。
彼女が相手ならば一瞬で機械の巨人が現れようと不思議な事はないが、この違和感は。
「……キーラ、どうやってあいつらの世界に入り込んだ?」
「ふふ、話が早くて助かるわ。簡単よ、ここはまだ完全に創世されきっていない場所。外に出れば分かるわ。だから限りなく近い位置座標だけ交換して、こっちの『私』だけ殺せば――――――」
ばんっ、と分かりやすく銃を撃つ動作をして見せるキーラ。
彼女の発想は、余りに突拍子が過ぎる。
それは今この瞬間も同様、ようは……この世界を先に滅ぼすのだろう。
誰も世界の創生など見たことが無い、だからこそ思いつきもしなかったが、こちらが逃げたと思わせつつ帰還デバイスで敵の世界へ忍び込み、先に相手の世界を破壊する。
そもそも彼女のような天才が居なければ成り立たない点や、統合世界のような大きい世界はそもそも修復デバイスを使用しても一撃で破壊できない点を除けば、完璧な作戦だ。
「ここは面白い世界よ。リゼルの行動によって分岐した世界だから歪もあなたにゆかりのある場所にあって、これは創世を見た私達しか知らない!それに恐らく完成しきっていないこの世界は、恐らく修復デバイス一つで消し去れる」
「……歪はどこだ」
「機関の中心、あなた達が初めて帰還した部屋よ。数多の世界を滅ぼしてきた捕食者の腸の中に初めて、異物が入り込んだ場所――――――」
キーラの言葉に、しばらく機械づくりの通路を歩いていると、やがて数十段の階段と、一見行き止まりにも見える扉が見える。
この通路は見覚えがある、確か地上へつながる出口の一つ。
ガシャリと開く扉に、入り込んだ景色は夕暮れ時の空に、どこか光を放っている世界、そしてその中心に聳え立つ一つの巨大な建物だった。
「ほう、ここはいつぞやの鉄塊を止めていた……この扉を隠していたのか」
「ふふ、灯台下暗しでしょう?機関の情報を仕入れるには近いに越したことは無いし、私達は相思相愛だもの」
「語弊を生む言い方をするな。俺達は利害が一致してるだけ。それより地上に出たらさっさと行くぞ、万が一にでもバレたら――――――」
かなり不味い、言葉を言い終えるよりも早く、機関の本部へ向けて走り出す。
異変が起きたのは数分後か、あるいは歩き始めて直ぐ。
『非常事態警報、非常事態警報――――――!!』
刹那の間に鳴り響いたアラームと、機関の建物の周囲に現れた赤い光のラインは、侵入したことがバレたのだと直ぐに分かった。
「ちっ、これは……!」
「あら、あらあら、こっちの私はしっかり殺したのにやっぱり現役の科学者達は優秀ね。ここからは力押しよ。勝者は片方、勝率は……3割ってところかしら」
「それだけあれば十分だ。というか、俺達が逃げてアイシャ達のレザイユは滅ぼされてないんだよな?」
「ええ、私がそんな大事な所を見落としていると思う?私達の世界は余りに複数の世界に手を伸ばしすぎてる。だから創世なんてどんな感じになるのかと思ったけれど、少なくとも私が見た限りでは統合世界が作られただけだったわ」
「つまり、あいつらは今周囲がどんな状況かも把握しきれていないって事か?」
「ええ、その認識で合ってるわ。触れた世界まで丸ごと増えていったらどうしようかと思っていたけれど、恐らく彼らはまだこの世界の海の中に孤立している状態のはず」
キーラの言葉は、最早何を言っているのかも良く分からなかった。
とはいえ創世など誰も直には見たことがないので当然なのかもしれないが、ようは周りが敵か味方か分からない状態という事なのか。
うかうか敵を見逃して、悠長に神威武装の準備をしているほど。
「因みに、この世界が分かれた分岐点はもっと面白いわ。どこか分かる?」
「……下らないクイズにするな。そんなのどうでも――――――‼」
直後、言葉を切るのと共に上空から迫る、幾度と見た白い稲妻に足を切り返すと、キーラの身体を抱きかかえて後方に飛ぶ。
『リゼル……大好きよ。今までも、これからも。私の世界にはずっとあなたしかいない。例え二人の間に何があっても、世界中が私達を嫌っても――――――』
大地へ落ちる爆発するかのような巨大な閃光と共に、一瞬だけ頭を過る小さな痛みを無視して。




