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虫食いメランコリー  作者: 佐川時計
五章「彼女たちによる非行と飛行(前)」
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03.0

 … … …


 授業の終わりを告げる鐘の音がスピーカーから溢れ、校舎中に響き渡る。

 あの後、琴平さんは彼女の持ち物と共に教室から消え、四限目が終わった今も、学年中のどの生徒の前にも姿を現していない。

 三階の窓から飛び降り自殺を敢行させられた机と椅子は、吾川の取り巻きがどこかへ回収したらしく、ホームルームが始まる前には既に窓から見える景色から消え失せていた。

 僕の隣には、どこから持って来たのかしらないが古めの机が配置され、教師への視覚的な対策は万全らしい。

 琴平さんは無断欠席扱い。諸事情により彼女の両親の職場への連絡はされなかったようだ。結局教師たちは彼女のこと全てから目を背けたままでいるつもりらしい。

 椅子の背もたれに背筋を押し付けて伸びをしながら、不意と今が昼休みだということを思い出す。

 丁度学校中の生徒たちが昼食を摂り始めるくらいの時間。

 琴平さんは、昼休みに屋上まで来てくれ、と言っていた。彼女は今この校舎の最も高い場所にいて、僕が屋上入口の扉を開けるのをひとり待っているのだろうか。

 そして僕が現れなかったときは、大人しく屋上を囲むフェンスの向こうに飛び込むのだろうか。

 正直そうなってしまうのが、彼女にとっても僕らにとっても、なによりの幸せなのかもしれない。

「大丈夫か久万? 何かえらく思い詰めた顔してるけど」

 突然背後から肩越しに声がかかった。耳慣れた女生徒の声だ。

「ああ、ちょっと虎になってしまった李徴の心情について考えていてさ」

「やっぱ面白いな、久万って」

 声をかけてきた人物、柏島さんはそう言ってからからと笑う。

 柏島さんは、僕のクラスメイトであり、数少ない友人でもある。

 陸上部所属で大会等の成績は優秀。体育館の壇上で校長から数々の表彰状を受け取っている陸上部のスターで、学校中の体育会系女子の憧れである。

「そんな面白い久万に食事のお誘いなんだけど。もしお昼まだなら、これから一緒にどう?」

 そう言って彼女は、左手に持っていた弁当箱と思しき空色の包みを僕の前でゆらゆらとゆする。

 柏島さんと昼食を摂る。

 屋上へ行く。

 そんなありもしない、選択の余地もない選択肢が、僕の視界の隅でちらつく。この現実を、この状況を強く認識させられる、残酷な選択肢だ。

「いいよ。食べようか、お弁当」

 言いながら僕も鞄から弁当箱を、


『■■さんのことを、お願い、助けてあげて』


「あー。ごめん柏島さん。今思い出したんだけどそう言えば僕、今日の昼先輩に呼び出されてるんだった」

 柏島さんに向き直り、鞄から引いた右手と自由だった左手を顔の前で併せる。

 実際のところ、呼び出されているというのは嘘だ。唐突に屋上へ行きたくなった、と言うと酷く安っぽいけれど、嘘を吐いた理由としてはまさにそれだった。

「ああ、先輩って生徒会長さん? そりゃ仕方ないなぁ」

 柏島さんは少し残念そうな顔で手にある弁当箱を引っ込める。

 どうにも柏島さんに悪いことをした感じが否めない。後で埋め合わせくらいは考えておこう。

「逃げの口実ではないかと疑っても、本当だった場合が怖いからね。あと、お弁当一回断られたくらいで君との関係をないがしろにはしないから、安心したまえ」

 柏島さんはいつものように笑いながらそんな風に言う。

 日常的に会話したり助け合ったりはしても、お互いの事情に深入りしたりはしない。その辺りをわきまえていてくれるから、僕は柏島さんと付き合えているのだろう。

「ありがとう、柏島さん」

 僕は右手を軽く挙げて柏島さんに別れの意を示し、やや駆け足気味に教室を出る。

 自分でもどうして柏島さんに嘘をついてまで屋上へ行こうとするのか、はっきりとはわからない。いや、実際のところおぼろげにはわかっているのだろう。思い出せないというのが正しいのかもしれない。

 目に見えない、フィルターのかかった枷が僕を琴平さんにつなぎとめているような。頭の中に響く何者かの声に、自身の行動を縛られているような。そんな感覚を覚える。

 先輩がいると思われる生徒会室のある四階を通り越し、その上にある屋上への入り口の前までたどり着く。

 彼女に関わるなと叫ぶ理性の声を半透明な膜の向こうに聞きながら、僕は入り口の扉のノブを握り、ゆっくりと捻る。

 鍵はかかっていなかった。ノブは何の抵抗もなく回り、前に押すとドアは思ったよりスムーズに開いた。

 僕の目に、屋上の縁を囲う褪せた緑色のフェンスが飛び込んできた。

 その向こうには、いつか見た屋上の空と、琴平さんの姿があった。

 一瞬の間をおいて琴平さんと目が合い、二人して同時にその場に硬直する。

 琴平さんはフェンスの向こうで、ぽかんとした緊張感のない顔でこちらを見つめ返していたが、僕が一歩踏み出したのを見て、ふっと表情を変えた。

 おそらくこの学校に来てから一度として見せた事のないであろう、確固たる決意の見てとれる表情だ。

「久万、くん」

 また次の瞬間には、彼女の目に宿る色は決意から安堵へと変わった。おそらくこれも、ここにきてから見せたことのない表情だろう。今日の彼女は珍しい表情の叩き売りでもしているのだろうか、なんて、普段の僕なら口に出せたかもしれない。

「来て、くれた、んだね、ありがとう」

 相変わらずぶつ切りの台詞で、彼女は僕を迎えた。

 僕は屋上に足を踏み入れ、扉を閉めて鍵をかける。誰かを入れないようにするため、と言うよりも、これは自分の退路を断つために近い。

 彼女の安らかな笑顔を見て、僕は今から真剣に彼女と、彼女を取り巻く環境や境遇と向き合わなければならない。理性や本能よりも無意識に近い場所でそう感じた。

「呼び出しには応じたよ琴平さん、僕に話って何?」

 感情を、否、無意識を押し殺して、自分でもぞっとするほど無機質な声で、僕は彼女に語りかける。

 おそらく理性と本能が無意識を組み伏せていなければ、僕はフェンスを飛び越えて彼女の動きを封じていただろう。本来この状況でそれをしないのは、人間としては大きな過ちであるはずなのだが、それを咎めるはずの理性は今、両手を塞いでまで自身の職務を放棄している。

 そんな僕の態度をどう受け取ったかはわからないが、フェンスの向こうで琴平さんの表情が三度目の変化を起こした。

 四つ目の表情は、悲しみだった。

 彼女の顔が崩れ、双眸からは涙があふれ、身体がぐらりと揺れる。

 両手の指がフェンスを掴み、崩れ落ちようとする身体を支える。

「たす、けて」

 涙でぐずぐずになった琴平さんの顔が、僕を見上げた。

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