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虫食いメランコリー  作者: 佐川時計
五章「彼女たちによる非行と飛行(前)」
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02.0

 … … …


 琴平さんは、僕、というか僕らが前の学校を卒業したのと同時期に、遠方から引っ越してきた。今の学校に入学したのは僕らと同時だが、彼女は転校生のような存在で、彼女にとって今の学校生活はゼロからのスタートだった。

 そして、これは彼女自身の問題であり、彼女が転校してきた理由にも関わるのかもしれないが、琴平さんはうまく今の学校に、学年に、学級に馴染めなかった。

 そんな琴平さんに目を付けたクラスの女子生徒のグループが、彼女を『無視する』という形でいじめ始めた。そんな経緯があって、入学した年の六月の頭にはもう、彼女は完全に今のクラス、ひいては学年から独り浮いてしまっていた。

 聞いた話では琴平さんは、精神的にも身体的にも、決定的に不安定な部分を持っているらしかった。普段から嫌でも視界の隅に映ってしまう彼女の様子を見れば、察しがつく程度にはわかっていたことだ。歩き方ひとつとっても、自転車に乗り慣れない子供が乗っている自転車の補助輪を突然外されたような不安定な足取りは、残念ながら普通と呼べるものではない。

 どうしてそんな彼女が、こんな状況に置かれながらもこうして毎日学校に通っているのか、僕には理解できなかった。

 また今日も、いつものように琴平さんが校舎の玄関に吸い込まれていくのを確認し、その後を追って僕も開け放たれた玄関を通り抜ける。

 彼女の足は遅く、また僕が登校に使う道は彼女のそれと被っているため、家を早く出るか別の道を使わない限り、僕は道のどこかで琴平さんを発見することになる。

 そうなった場合、なんとなく彼女の様子を眺めながらその十数メートルうしろを着いていくのが僕の登校スタイルの一部となっていた。

 実は今日は、半ばそれを避けるつもりで普段より少し早めに家を出たのだが、今回はそれが彼女から声をかけられるという結果につながってしまった。酷く不本意な話だ。彼女から話しかけられるなんて想定の範囲から大きく外れた出来事で、かなりの不意打ちだった。

 一つだけぼろぼろに変形した下足箱の鉄の戸を視界の隅にとらえつつ、自分の下足箱の戸を開け、脱いだ外靴を入れて上履きを引っ張り出す。

 上履きと言えば、ハサミで上履きを切り刻まれた元学級委員長は今頃どうしているだろう。

 四ヶ月ほど前まで、三つ編みのお下げとそばかすがトレードマークの、眼鏡をかけた実に典型的で模範的な学級委員長が、僕と同じクラスに在籍していた。

 しかし、琴平さんへのいじめを止めようと吾川と対立したばかりに、彼女も彼女で酷いいじめに遭い、不登校になってしまった。あの一月以来、僕は一度も彼女の顔を見ていない。

 最後に見た彼女の顔、というか表情は、何とも悲惨で凄惨なものだった。あれが最後というのも、なかなかに後味が悪い。

 とにかくそれが見せしめとなって、琴平さんいじめに関して意義を呈する者はこの学年から消えた。元より委員長以外にそんな輩がいたかどうか、かなり疑わしい話ではあるが。

 最終的にはそれもこれも全て、この学年における吾川の権威強化に大きく響いたイベントとなったわけである。

 吾川とは、これまた僕のクラスメイトに位置する、蛇を連想させるような女生徒だ。およそ僕らの学年で最高位に位置する権力者であると言っていい。そして、それこそお遊び感覚でいじめを行えるような図太い神経と、拒食症を疑う程度に細いウエストの持ち主である。

 成績、教師ウケ共に良好。来年度の生徒会長は彼女以外あり得ないだろう。

 ただし、僕や一部の生徒の目から見た場合の彼女の素行は最悪。決して赦してはいけない存在だ。しかし自分の身の安全と健やかな学校生活を守るために、誰も彼女に反抗しようなどとは考えない。それに、特にこちらから刃向うような真似をしなければ、琴平さんのような人間でない限り向こうからも何かしてくることはないはずだ。それが吾川という人間である。

 なんて、そんなことをちらほらと思い返すうちに、僕が休日を除き毎日通うべき教室に辿り着いてしまった。

 扉の前に突っ立って、誰か来る度に「通行の妨げごっこです」なんて返事をするようなユーモアを僕は持ち合わせていないので、素直に教室に入る事にする。

 取っ手に手をかけ、音を立てて引き戸を開ける。

 机がなかった。

 ちょっとした急転直下が、僕の眼前に現れた。

 具体的には、本来僕の席の横にあるはずの琴平さんの机が、あるべき場所になかった。別に僕の机がなかったわけではない。

 時折目をそむけたくなるような落書きがされていたり、上からゴミ箱の中身か何かがぶちまけられていたり、その他汚物や危険物でデコレーションされていたことはあったが、今回は消えた。何が増えるでもなく、逆に教室をデコレーションする要素の中から除外されていた。

 視線を少し上げたところで、教室の北側に並ぶ窓のすぐ手前に琴平さんを発見した。

「……あ、う」

 彼女は窓際に突っ立って、ただ呆然と外に視線を落としている。

 教室の中の生徒たちは、顔を見合わせてにやついたり、笑いを堪えながら琴平さんを眺めたり、ちらちらと窓の外に目をやったり、机に伏して寝ていたりと、不穏な気配を隠そうともしていない。

「ていうと、まさか……」

 鞄を机の上に降ろし、極力何気なく、野次馬らしく、他意のないような素振りで琴平さんが立っているのと反対側の窓辺に歩み寄る。

 思い過ごしですように、気の所為ですように、杞憂ですように。

 きっと僕が素直に空気を読める人間なら、そんな風に心の中で祈ったりはしなかっただろう。

「なんて言ったかな、あのドラマ。オメーの席無ェから? あれは名言だっけ……」

 恐らく琴平さんの物だと思われる机と椅子が、窓の外に転がっている。机からは中に入っていたのであろう教科書やノートが吐き出され、鉄パイプの脚が四本全て根元近くからひしゃげている。どうやら、ただ窓から放りだされたというわけではないらしい。

 琴平さんの鞄が未だ彼女の手にあるあたり、恐らく彼女がここに着いた時には既に、もしくは着いた直後に、あの机と椅子は窓からダイブしていた、ないししたのだろう。

 犯人はわかりきっている。だからこそ、誰も犯人を咎めない。誰も彼女を助けない。誰もがただただ、吾川と琴平さんを囲む黄色い線の縁で傍観している。

 僕は二、三メートル弱離れた位置で呆然と立ち尽す琴平さんを見やる。

 彼女の顔にじわりと滲んだ、恐怖と、絶望と、落胆と、その他諸々の混沌とした表情が、嫌でも彼女の今の心境を僕に想像させる。

 軽く頭を振って嫌な考えを追い出し、自分の席に戻ろうとしたその瞬間。

「久万、くん」

 琴平さんの声が聞こえた。僕にしか聞こえないような、死に掛けた蚊の鳴くような声。他には何も感じないし考えない。その場で足を止める。

 彼女は前を向いて俯いたまま、開いているのかもわからない口をもごもごと動かす。

「後で、話したい事、有るん、だけど、昼、屋上に来て」

 琴平さんの震える声にごく小さく頷いて、僕は無言で自分の席に戻った。

 現実的な話をすると、我が校の屋上は基本的に使用不可で常時鍵が掛かっている。それをどうクリアするのか、なんてそんな些細な質問も許されないほどに、彼女の立場は悪い。

 助ける事は、今はできない。

 ただ僕の立ち位置もそれなりに危うくなってきたなあと、人知れず溜息を吐く他なかった。

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