01.0
… … …
父さんが死んだ。
淡い朝日が差し込む二階の自室で僕は、昔父さんが座っていたという椅子に身体を預けていた。
時計の針は、午前七時を軽く回ったところ。登校を意識するには、時間の余裕はまだ充分にある。
僕は昔父さんから譲り受けた勉強机の引き出しを開け、子供の頃父さんに買ってもらった日記帳を取り出す。
表紙背表紙裏表紙は全て白、ページには罫線が引かれているだけの、ハードカバーの本。本は厚いのに存在感は薄いとは、これいかに。
少し手を伸ばして、ムーミンがプリントされたマグカップを流用したペン立てから、黒の油性サインペンを一本拾う。
このペン立ても、このサインペンも、実はもともと父さんの物だったりする。
僕の手許には、父さんの記憶が数え切れないほど残っている。
けれど、そのひとつひとつに触れるたびに父さんのことを思い出したりとか、そんなことでいちいち感じ入ったりはしない。僕はそれほどまで、良い子という訳ではないのだから。
サインペンのキャップを外し、ペン先を表紙の上で迷走させる。三十秒フラットで虫食いだらけの枯葉の絵が出来上がった。個人的には五点。何点満点かは不明瞭。
日記帳はそのままに、ペンはペン立に返し、机に立て掛けておいた通学用の鞄を掴む。
服は既に制服に着替えてある。ワイシャツの上にブレザー、ズボンには黒のベルト、靴下は白。あとはブレザーの釦を留めて、ネクタイで首を締めて、それだけでここにひとりの真面目な学生が出来上がる。
鏡で自分の姿、というか服装のみを確認し、自室を出る。
そして一歩踏み出したところで足を止める。
たった今僕が見たもの、及び出くわした状況を端的に表現すると、だ。
れいぞうこがあらわれた!
部屋を出てすぐ正面に、昨日の晩までそこにはなかったはずの白い冷蔵庫が、昨日の晩までそこにあったはずのパンダのぬいぐるみ(大)、通称ごましおを押し退けて鎮座していた。
このイレギュラー相手に僕はどう対処したらいいのだろう、なんて考えることはしない。
しゅじんこうはにげだした!
特に周りを囲まれることはなかった。少し寂しかったが、そういうものだろう。囲まれてばかりじゃあ、人間は先に進めないぜ。
逃走からの自然な流れで一階へ降りようとして、そこで毎日恒例ごましおへの挨拶を忘れていることに気付き、慌てて振り返る。
位置こそ違うが、ごましおは確かにそこにいた。冷蔵庫の横の横に置かれた椅子の上で、朝の空気に晒されて目を細めている、そんな気がする。
「ごましお先輩、行ってまゐります」
低めの位置で敬礼してみる。心なしかごましおの周りに哀愁が漂って見えた。定位置を新参者の冷蔵庫に奪われてしまったからだろうか。
ごましおから目をそらし、正面に待ち構える現実に目を向ける。
冷蔵庫に関してはまあ、朝から少し新鮮な気分を味わえたということでよしとしておこう。恐らくは母さんが、片付けのために一時的にそこに置いたとかそんなところだろう。というか、この家の片付けはいつになったら終わるのだろうか。
あの僕よりも細い腕で、よくもまあ冷蔵庫なんてあんな重い物をひとりで運べるなあと、自分の母親にひとり感心する。
二階の廊下を端まで進んで階段を降り、玄関の前を通って一度リビングに入る。
見慣れた暖色で飾られたリビングには、我が家では年間通して休まず働くこたつと、そのこたつに肩まで浸かって眠る母さんがひとり。
僕はこたつ机の上にある様々な食品の入った籠から市販の総菜パンをひとつ拾い、母さんの傍に立つ。
「行ってきます」
寝息を立てる母さんに小声でそう告げる。
結局母さんは昨晩も何をしていたのだろうか。まあ本人に問うたところで、どうせ「片付けをしていた」とかそんな答えしか返ってこないだろうが。しかし一晩中家の中を歩き回ってごそごそやっている母親を思うと、そう簡単に納得できることでもなく。
そんなことを頭の片隅で考えつつ踵を返し、先ほど素通りした玄関に出る。
さて話は変わるが、僕が通っている学校の校則では、靴は白が基調、と言うか純白でなければならないと決められている。しかし今僕の足元にある靴は、購入した時点での色と比べるとかなり茶系色に近付いている。
もうそろそろ校則違反になるのではないか、とそんなどうでもいいことをぼんやりと考えつつ、僕はいつも通り靴を履いて家の外へと進出するのだった。
「寒っ」
朝のくすんだ空から降りてくる空気は、悪意にも似た冷たさを帯びていた。春になってから少なからず時間は経ったと思うけれど、それでもまだ、今日のように気温の低い朝もやってくるようである。
肌にまとわりつく空気を緩く振りほどきつつ、登校の道に就こうと試みる。
その矢先。
「……おは、よう」
不意と、背後で何かがおはようと呟くような音がした。
振り返る。空気がそこに居た。話し掛けてはならない、声をかけてはならない、気に掛けてはならない人間が、僕の背後にひとり突っ立っていた。
琴平さん。
声の主が彼女だと認識した瞬間、僕の頭は自然に、自動的に、思考することを停止した。
「君、さ。自分の立場を理解しているかい?」
心の底からの嫌悪を以って、彼女を突っぱねる。女の子におはようと声を掛けられておいてこんな冷たい返事をするような男の子だから、僕は皆から嫌われるのだろうなと思った。嘘だよ。
そんな事を想像していられるほど、彼女の立場はマトモなものではない。
「……そう、だよね。ごめん、なさい」
酷く小さな声でぶつ切りにされた言葉を僕に押し付けると、彼女は覚束ない足取りで横を通り過ぎて行った。
まるで平衡感覚を失ったかのような、危うい足取りで。
「そう、それでいいんだ。僕はこれ以上壊したくないのだから」
中二病の香りが漂う独り言を虚空に放り投げつつ、今にも横転しそうな琴平さんの背中を眺める。
しかしまあ、実際今の安定した立ち位置を、下手に彼女と関わることで壊すような真似はしたくない。
彼女、同じクラスの琴平さんは、クラスメイトほぼ全員から完全無視という目に見えない暴力を受けている。彼女と同じクラスに所属する人間の中で、彼女が『見えない』と言う者はまだ手足の指で数えられるだろうが、『見える』と言う輩は一人も居ない。
それは勿論、この僕も込みでのことだ。
その上に、見えないからこそ彼女へのいじめも悪質になる。単なる空気扱いどころの問題ではない、というのが彼女の現状だろう。
彼女への総無視という名の総直視は、最近では学年全域にまで広がりつつあるようだし。教師は日和見主義とご都合主義と事なかれ主義を巧みに操って気付かないフリを続けているし。
彼女を助ける、助けられる、助けてくれる人間は、まず存在しないだろう。
僕としては、そんな特殊状態の彼女だからこそ、繋がりを持つわけにはいかないのだ。
少なくとも、今は。




