第9話 お姉様が縫えばよろしいでしょう
蔵から持ち帰った一枚を、三日かけて洗いました。
黴の出た布は、いきなり水に入れてはいけません。水を吸うと繊維が緩んで、緩んだところから崩れます。まず乾いたまま、柔らかい刷毛で表面の粉を落とします。落とした粉は舞いますので、風上に立ちません。
次に、薄めた酢で拭きます。薄めるのは五倍。濃いと繊維が傷みます。拭いて、すぐ乾かす。ここで水で流したくなりますが、流すと結局また濡らすことになります。
三日目に、ようやく水を通しました。
黒い点は残りました。残るのは分かっておりました。落としたかったのは点ではなく、匂いと、進み続ける力のほうです。
乾かして、卓の上に広げました。
◇
脇の縫い代を、明かりの下でもう一度見ました。
三度返して、結び目がひとつ。位置は脇の下から三寸。返した向きは、右から左。
母が教えたのと、寸分違いません。
わたしは自分の袖口をめくって、櫃から出した自分の肌着の縫い代と並べてみました。同じでございます。糸の太さも、結び目の大きさも、返しの向きも。
母はヴァルトハイムの縫い手でした。他家の支度を縫うことはありません。それは決まりというより、当たり前のことでございます。縫い手はひとつの家に属して、その家の櫃を縫います。
この布は、イルゼ様のもの。
「バルト様。イルゼ様は、どちらの家から来られた方でしょうか」
「シュタイン男爵家でございます。王都の南の」
「ヴァルトハイムとは」
「関わりは聞いたことがございませんな」
わたしは布を畳みました。
考えられることは三つございます。ひとつ、母が内緒でよその家の支度も縫っていた。ふたつ、この結び方が母だけのものではなく、もっと広く使われている。みっつ、母から教わった誰かが、シュタイン家で縫っていた。
三つ目が、いちばん通ります。母が誰かに教えたのなら、その人が別の家で縫っていてもおかしくありません。
ただ、母は十一年前に亡くなっております。イルゼ様が嫁いでこられたのは、六年前と伺いました。
母のことを、わたしは案外知りません。
ヴァルトハイムへ来る前にどこにいたのか、誰に習ったのか、聞いたことがございませんでした。十一のときに死なれると、聞いておくべきことを、聞いておくべきだと知る前に失います。
覚えているのは手つきばかりです。糸を通すとき、針を目の高さより上に上げない。布を裁つとき、鋏の下の刃を台につけて動かさない。縫い終わりに必ず一度、裏を返して指でなぞる。
それから、口数が少なかったこと。
「縫い手の名は入れないものだ」と、ヘドヴィヒ様は仰います。けれど母は、縫い代の内側に必ず入れておりました。矛盾しているようですが、たぶん矛盾しておりません。表に出す名と、裏に置く印は、別のものでございます。
母がそれを何と呼んでいたのか、わたしは知りません。名前を教わる前に亡くなりました。
◇
二通目の手紙は、その翌日に届きました。
封蝋がないのは前と同じです。字が違いました。丸くて、行の間隔が途中で広がる字です。クラーラのものでした。
――お姉様。
――お母様が困っていらっしゃいます。お姉様がお返事をくださらないので。
――五度目のお話が流れてしまいましたの。支度が間に合わないなんて、そんなことでうちが笑われるなんて、わたくし恥ずかしくて外も歩けません。
――お姉様が縫えばよろしいでしょう。
――だってお姉様、ほかにすることがないじゃない。
わたしは最後の一行を、二度読みました。
この子は、本気でそう思っております。悪意で書いているのなら、まだ話が早いのです。悪意なら、こちらが怒れば通じます。
通じないのは、この子が「縫う」という工程を知らないからでございます。
クラーラは布が店にあると思っております。店にあるものを買ってきて、誰かが何かして、櫃に入る。そのあいだのことは、この子の頭の中にありません。ないものを説明するのは、あるものを説明するより難しゅうございます。
一度だけ、縫い部屋へ来たことがございました。
十四か、十五のころです。退屈しのぎに下りてきて、裁ち台の上の型紙を見て、「これ何」と聞きました。袖の型だと答えると、「袖って、こんな形なの」と言いました。
袖は、腕の形をしておりません。平らな布を筒にして、肩のところだけ丸く膨らませます。腕が前へ出る動きのぶん、前側を後ろ側より広く取ります。だから型紙は左右で違う形になる。
その説明を、半分ほどしたところで、クラーラは行ってしまいました。
この子が悪いのではありません。知らなくても生きていけることは、知らないままになります。ヴァルトハイムでは、そういうふうに人を育てました。
ただ、知らないままの人が「縫えばよろしいでしょう」と書くと、こうなります。
◇
「奥様。十月の三の日から、冬支度でございます」
バルトが帳面を持ってまいりました。
「例年、何をなさるのですか」
「窓に板を打ちます。それから薪を運びます。あとは、まあ、そのくらいで」
「布は」
「布」
バルトは帳面をめくって、何もない頁を見せました。
「布は、何も」
わたしは頷きました。
窓に板を打つと、風が止まります。風が止まれば、屋敷の中の空気が動かなくなる。動かない空気は水を溜めるのです。つまりこの屋敷では、冬支度そのものが、布にとっていちばん悪いことをしております。
悪いと言っても、板を打たなければ人が凍えます。人のほうが大事でございますので、板は打つほかありません。
打ったうえで、布を助ける方法を考えるしかない。
◇
その晩、わたしは帳面に線を引いて、冬までにできることを書き出しました。
一、寝具十七組のうち、匂いの出ている十一組を先に洗って乾かす。乾かすのは風の通る場所。厨房の梁が使えます。
二、幕は下三尺を切り落として、別布を継ぐ。石壁に触れなくなれば、来年は上がってきません。
三、しまう場所を全部、床から一尺上げる。台を作ります。木箱で足ります。
四、蔵の三つの櫃は、開けたまま置く。もう戻りませんが、閉じておくと蔵ごと悪くなります。
ここまでは、直しでございます。壊れたものを、これ以上壊さないようにする仕事です。
問題は五番目でした。
五、この土地で、冬を越しても駄目にならない支度を、作れるかどうか。
直しは知っております。母に教わりました。けれど、この土地の冬を前提にした仕立てというものを、わたしは習っておりません。習った人がいないのです。誰もこの土地で櫃を作ってこなかったからです。
三人の奥様がたが持ってこられた櫃は、三つとも南の布で、南の作法で詰めてありました。四人目のわたしの櫃も同じです。
――同じものを持ってきて、同じところに置けば、同じことが起きる。
わたしは五番の下に、線を引きました。
まず、試すものを一組こしらえてみることでございます。褥布を一組。それを一冬、いちばん悪い場所に置いて、春に開ける。
いちばん悪い場所は、あの蔵です。
試すなら、条件を揃えなければなりません。
同じ大きさの褥布を三組。一組は今までどおりの仕立て。一組は詰め方だけ変える。一組は仕立てから変える。三組を並べて置いて、春に開ければ、何が効いたか分かります。一度に二つ変えると、どちらが効いたのか分からなくなります。
布は櫃の残りと、屋敷の使えるものから取ります。糸は行商で買った三種。足りるはずです。
冬までに三組。ひと組が三日として、九日。ほかの直しと並べてやるなら、二十日ほど見ておけばよいでしょう。
窓の外で、風の音が変わりました。低くなって、間が長くなる。
板の隙間から覗くと、暗い中に白いものが横へ流れておりました。
初雪でございます。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
黴の出た布は、いきなり水に入れると崩れます。乾いたまま粉を落として、薄めた酢で拭いて、それから水を通す。順番を逆にすると、落とすつもりで壊すことになります。
次話、窓に板が打たれます。風が止まり、屋敷の空気が動かなくなります。ユーリアは屋敷じゅうの布を動かそうとして、女中頭に止められます。
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