第10話 板を打てば、風が止まります
十月の三の日から、槌の音が始まりました。
窓の外側に厚板を立てて、枠へ打ちつけていきます。上から順に、南側から。二日で終わるのだそうです。
打ち終わった部屋は、昼でも暗うございました。板と板のあいだの隙間から、細い光が三本ほど入るだけです。空気が変わったのがすぐに分かりました。動きません。息をすると、そのまま同じところに留まっている感じがいたします。
わたしは打ち終わった広間で、幕の裾に手を当てました。
朝より湿っております。板を打っただけで、半日でこうなります。
湿りを手で測るには、二か所を比べます。一か所だけ触っても、それが湿っているのかどうかは分かりません。人の手は温度を感じますが、水の量そのものは感じないからです。ですから乾いていると分かっている場所へ先に触れて、それから測りたい場所へ触れます。差だけが分かります。
乾いている場所は、この屋敷では厨房の梁の上でした。火があるからです。そこへ手を当ててから、幕の裾へ移すと、はっきり違います。
板を打った日の朝から夕方までに、この差が二倍になりました。
◇
「バルト様。寝具を全部、動かしとうございます」
「全部でございますか」
「十七組です。それから幕四枚と、卓布」
バルトは帳面を開いて、それから閉じました。
「人手が要りますな」
「四人、三日いただければ」
「台も要りましょう」
「木箱で足ります。厨房の裏に空き箱がございました。あれを伏せて並べて、上に板を渡せば」
バルトは廊下の先を見ました。
「奥様。申し上げておきますが、この屋敷では冬に布を出しません」
「出さない、と申しますと」
「掟のようなものでございます。理由は、わたくしも存じません」
◇
理由を知っている人は、洗い場におりました。
グレーテは籠を抱えたまま、わたしの話を最後まで聞いて、それから一言だけ言いました。
「出しません」
「なぜでございますか」
「冬に出したら、傷むからです」
「どこで傷みますか」
グレーテの手が止まりました。
「……どこ、とは」
「運ぶ途中で傷むのか、出した先で傷むのか、動かすことそのものが悪いのか。どれでございましょう」
答えは返りませんでした。
この方が意地悪をしているのではないことは、分かっておりました。掟というのは、たいてい、理由が失われたあとの手順のことでございます。誰かが昔、正しい理由でそう決めた。決めた人がいなくなって、手順だけが残った。
残った手順は、たいてい半分正しくて、半分間違っております。
「グレーテさん。わたしは、この屋敷の布を四組、去年捨てたと聞きました」
「四組ではありません」
「では」
「九組です。帳面に載っているのが四組でございます」
わたしは、それを聞いて黙りました。
載らない五組は、たぶん、誰かが黙って捨てたのです。捨てたと言えば、手入れを怠ったと言われますので。
三十二年ここにいる方が、毎年、帳面に載らない布を捨てている。捨てながら、掟だから冬に布は出さないと言う。
この二つは、たぶん繋がっております。
冬に出さないという掟は、たぶん「出しても悪くなるだけだから、触るな」という諦めの形をしております。触らなければ、悪くなったのは布のせいです。触って悪くなれば、触った人のせいになります。
それで九組が帳面から消えるなら、消したくもなるでしょう。
この方が守っているのは布ではありません。布を扱う人でございます。
「――九組を、来年も捨てますか」
「捨てます」
グレーテは籠を持ち直しました。
「捨てますとも。ここらはそういう土地です」
◇
その日の夕方、旦那様が広間で待っておられました。
バルトが話を上げたのでしょう。グレーテも呼ばれておりました。二人とも立ったままで、旦那様だけが卓の前に座っておられます。
「グレーテ」
「はい」
「布を出すな、と決めたのは誰だ」
「……存じません。わたくしが来たときには、もうそうでございました」
「何年だ」
「三十二年になります」
旦那様はしばらく黙って、それからこちらを向かれました。
「動かして、悪くなることはあるか」
「あります。運ぶあいだに床へ触れさせれば、そこから来ます。移した先が今より悪ければ、当然、今より悪くなります」
「ではどうする」
「移す先を先に作ります。作ってから運びます。運ぶのは一日に四組まで。それ以上は目が届きません」
旦那様は指で卓を一度叩かれました。
この方は決めるのが速い方でございます。速いというより、迷っているところを人に見せません。三十二年の掟と、来て一月の女の言い分を並べて、その場で選ばれました。
選んだあとで、必ずもう一方へも言葉を残されます。これも癖です。
「やれ」
それから、グレーテのほうを見られました。
「ただし、グレーテの言うことを聞け。三十二年ここにいる」
わたしは頭を下げました。グレーテは何も言いませんでした。
◇
台は二日で組みました。
空き箱を伏せて二列に並べ、その上に板を渡します。高さは床から一尺と少し。低すぎると意味がなく、高すぎると布を持ち上げるのが大変で、人が雑になります。人が雑になる高さは、結局、布に悪うございます。
置いたのは二階の東の部屋にいたしました。理由は二つ。ひとつ、壁が二重になっていること。ふたつ、扉が二つあって風が抜けること。
二階を選んだのは、水が下から上がるからでございます。蔵の壁で見た白い線は、床から二尺のところにありました。一階の部屋も、たぶん同じ高さまで来ております。二階なら、そこまで上がりません。
東を選んだのは、朝に少しだけ日が入るからです。日は布に悪うございますが、部屋そのものは温めるのです。温まった部屋は、水を空気の中に持てる。持てるようになった水は、扉を開けたときに出ていきます。
布に日を当てない。部屋には日を入れる。この二つは両立します。布を布で覆っておけばよいのです。
風を抜くには扉を二つ開けなければなりません。開ければ寒うございます。ですから開けるのは昼のいちばん暖かい刻に、半刻だけ。半刻でも、動かない空気を入れ替えるには足ります。
寝具は一日四組ずつ、四日かけて運びました。運ぶ前に一組ずつ広げて、匂いを確かめて、酢で拭くものと拭かないものを分けます。拭いたものは厨房の梁で一晩乾かしてから上げます。
十七組を広げてみて、分かったことがございました。
傷み方に順番があるのです。いちばん悪いのは、いちばん使っていないものでした。よく使う寝具は毎日たたまれて、動かされて、人の体温で温まります。使わないものは、しまわれたまま動きません。
つまりこの屋敷では、大事にしまってあるものから駄目になっております。
客用の三組が、そうでした。年に二度しか出さないもので、三組とも粉が浮いております。逆にグレーテたち使用人の使っている古い寝具は、擦り切れてはおりましたが、黴はほとんどありませんでした。
布は使うと減ります。使わないと腐ります。どちらかしかありません。
グレーテは何も言わずに、途中から籠を運ぶのを手伝ってくださいました。手伝いながら、一度だけ聞かれました。
「その、酢ってのは、匂いが残りませんか」
「乾けば抜けます。残るようでしたら、濃すぎます」
「……五倍」
「五倍でございます」
◇
最後に、試しの三組を仕立てました。
褥布を三組。大きさも布も同じにいたします。違うのは扱いだけです。
一組目は、王都の作法どおり。畳んで、油紙も灰も入れず、そのまま。
二組目は、仕立ては同じで、詰め方だけ変える。油紙を敷いて、灰袋を四隅に。
三組目は、仕立てから変える。縫い代を割らずに片返しにして、重なりを一枚減らします。重なりが厚いところから来る、というのが蔵で見た形でございました。
三組それぞれに、麻の札をつけて、番号を縫い込みました。紙の札は湿ると読めなくなります。
蔵へ運んで、床から一尺の台へ載せました。蓋は開けたままにいたします。
鍵をかけるとき、グレーテが後ろに立っておりました。
「奥様。それ、いつ開けるんです」
「春でございます」
「十日で分かりますよ」
わたしは振り向きました。
「十日でございますか」
「ここらは、十日です」
グレーテはそれだけ言って、先に階段を上がっていきました。
言い方に棘はありませんでした。忠告でも、脅しでもありません。この土地では十日でそうなる、というだけの事実を、事実として置いていかれたのだと思います。
三十二年ぶんの十日でございます。わたしの帳面には、まだ一行しか書いてありません。
わたしは鉄の扉の前に立ったまま、しばらく動きませんでした。
十日。
春まで待って何が起きるかを見るつもりでおりました。十日で分かるのなら、そのほうがずっとよいのです。よいのですが、十日で分かるということは、十日で駄目になるということでございます。
布は、裏に本当のことが書いてあります。
掟というのは、たいてい理由が失われたあとの手順のことです。誰かが正しい理由で決めて、決めた人がいなくなって、手順だけが残る。残った手順は、たいてい半分正しくて、半分間違っております。
次話、鍛冶屋の後家が工房へ来ます。持ってきたのは、喪服が一枚きり。婚礼まで十二日でございます。
ブックマークをいただけますと、続きが届きます。




